――私の愛しいもの。



 おまえは私に愛されるべく、生まれてきたのだ。










「――お逃げください!!」

 そのとき、生まれて初めてゼシスは感情を表に出し、声のかぎりに叫んだ。

 分厚い瓦礫に下半身を奪われ、まわりにはすべてのものを焼き尽くさんとする劫火が迫ってなお、彼は主の身を案じていた。

「馬鹿を言え! そんなことができるか!!」

 臣下の言葉を無視し、黒髪の少女はなおも向かってくる襲撃者を返り討ちにしながら、紅蓮の炎を打ち払おうと〝力〟を振るう。

「おやめください、ノリエ様! そのようなお身体で力を使われたら……!」

「黙れ!」

「っ……!」

 年端もいかぬ小娘の叱責に、彼は怯んでしまった。

 すべてを支配する存在から生まれたゼシスにとって、ノリエの言葉は絶対であった。

 しかし、彼女から生まれた彼は、ノリエがすべてだった。

 彼女の命さえあれば。

 生きていれば、それでいい。

 だが、ノリエはそれを受け入れてはくれない。

 揺らめく炎の向こうで、色違いの瞳が自分を見据えていた。

「おまえは私のものだ。それをみすみすこのような愚か者たちに……」

「――愚か者とは、貴女も含まれているのではないか?」

 ふいに襲撃者の攻撃がやみ、涼しげな男の声が戦場と化した街中に響き渡った。

「魔王の中の魔王であられる貴女が、たった一人の臣下のために命を賭けるとは……」

 崩れた建物の影から男が姿を見せる。

 刹那、男の身体は数メートル先の壁に叩きつけられていた。

 ノリエが男の前に一瞬で移動し、怒りに任せて渾身の一撃を腹にぶち込んだのだ。

 素早い彼女の攻撃に、まわりを取り巻いていた輩は呆気に取られていたが、すぐに我に返り、いっせいにノリエに襲いかかる。

「雑魚がうっとうしいんだよ!」

 妖艶で美しい顔に似合わず、荒々しい言葉で怒鳴り、彼女は素手で向かってきた輩の腕を、足を、首を引きちぎった。

 その返り血でさらにノリエの全身は血にまみれていく。

「がはっ……。さすが……魔王の中の魔王だ。肉体の差をものともせず、素手で殺るなんて……」

 殴られた腹を押さえながら、男は立ち上がる。

「その力が、恐ろしく……――――たまらなく欲しい」

 狂喜の笑みを浮かべ、よろける足取りで近づいてくる。

「下衆野郎……誰がてめぇなんかにやるか!」

「ふふっ、いいのかい? 貴女が私を相手にしている間に、あの男は死ぬよ?」

 炎に囲まれたゼシスは酸素がなくなり、意識が朦朧としている。

「……なめんじゃねぇよ」

 吐き捨て、おもむろに右手親指にはめていた銀の指輪を外し、

「我がアルファータの名において命ずる。我が力、すべてを喰らい尽くせ」

 瞬間、指輪がまばゆいほどの光を放ち、次第に巨大なドラゴンの形を模した。

 それは、ようやく自由を手に入れたとばかりに、空や地をうねり飛ぶ。

 グガアアアァァァ!

 耳をつんざく咆哮をあげ、彼女の障害となるものを飲み込んでいく。

 ゼシスを苦しめていた炎と瓦礫はもちろん、何万といる魔族をも。

「ははっ……! 素晴らしい……! 指輪ひとつで、私が連れてきた万の兵たちでさえ簡単に呑み込んでいく!」

 縦横無尽に舞う強大な力に魅入っている男。

 美しくも強靭で死と破壊をもたらす暗の力と、強固に保たれ生と再生をもたらす明の力。

 稀有な力を、それも底知れぬ魔力容量を持つノリエの存在は、魔族という同族の中でも唯一無二のもの。

 あまりに強大すぎるゆえ、両手にはめた銀の指輪と耳にはめたカフスはその力を吸い取る魔力吸収装置。

 これがないと、たちまち力はあふれ、混沌を招き、彼女自身をも傷つけてしまう。

 そんな諸刃の力は、他の者にとっては喉から手が出るほど欲しく、また、妖美な容姿のノリエすら貪欲に求めた。

「おやめ……ください、ノリエ様!」

 瓦礫と炎から救われたゼシスは右足を引きずりながらノリエの元へ。

 正気を失いかけている彼女の身体を強く抱き締めた。

「殺せば殺すほど、あなたの苦しみが続いてしまう……!」

「かまわぬ!! 我は呪い子ぞ……! 今さら何の苦しみがあろうか……!」

 恨めしい声が腕の中で響く。

 ばしんとゼシスの腕を払いのけ、束縛から逃れる。

「我の……」

 青と黒の色違いの瞳に過去の映像が反映する。

「私の……」

 あれが夢だったら、と何度思っただろう。

「俺の……」

 すべてが幻で。

「あたしの……」

 あの男と出会う前に時間を戻せたら。

「ボクの……」

 誰も失わず、平穏な生涯を送れたかもしれない。

「――――苦しみは、あの瞬間からずっと続いている! これ以上ない、最悪なものが!」

「……っ……」

 涙に濡れた主の顔を、ゼシスは直視できなかった。

「ははっ……貴女はいまだに囚われているのかい? あの男に」

「黙れぇっ!」

 振り向きざまにまわし蹴りを喰らわせる。

 男の身体は、鈍い音を立てて地面へと倒れた。

「囚われて何が悪い!? シグマはボクのすべてだ!」

 倒れた男の腹を、思いきり足で踏みつける。

「ぐふっ……!」

「貴様に何が分かる!? 力しか求めない、愚かで低俗なものが! 貴様のような輩がいるから、シグマたちは……!」

「……貴女を守って、死んだ」

「――!?」

 踏みつけるノリエの足が、ぴたっと止まった。

「ふふふっ……あの方は、貴女の力を求めると同時に貴女自身も欲した」

 不敵な笑みを浮かべ、男は続ける。

「私も……貴女を見て、あの方の気持ちが理解できたような気がする」

「あの……方……」

 ノリエの手から銀の指輪が落ちた。

「貴女に惹かれるのはその美しい容貌だけではない。……存在そのものが、愛しいと思わせてしまう」

 ゆっくりと身体を起こし、左手を握る。



 ――私はおまえという存在が愛しい。



「……っ! シ……グ……」

「先代の魔王の中の魔王はうまく貴女に取り入ったようだ。死してなお、いまだに貴女を捕らえている」

「…………」

「そしてあの方……レ――――」

 ある名前が呟かれた。

 それはノリエがもっとも憎むべき男の名前。

 その男は自らの手で殺したはずなのに、いまだに名前を耳にしただけで殺戮の衝動がよみがえってくる。

「うあああぁぁぁっ!」

「ノリエ様!?」

 駆け寄ろうとしたゼシスを衝撃波で吹き飛ばし、目の前に立ち上がった男にとどめを刺そうとしたときだった。

 男の左手から一筋の閃光が伸び、それはノリエの胸を貫く。

「……っ!!」

「ノリエ様ぁっ!」

 悲鳴じみたゼシスの叫びが耳の奥に響いた。

 細い身体は膝を折り、その場に落ちていく。

「……貴女の存在は、愛おしくも悲しい。――力に生かされ、力に殺される」

 男の握った手のひらを開くと、彼女の落とした指輪があった。

 まわりでは力が具現化したドラゴンが暴れてなお、指輪にはまだ力が残っていた。

「どんな気分ですか? 自分の力で殺されるのは」

「貴様ぁっ!」

 地を蹴り、ゼシスが男に襲いかかる。

「主が死ねば、あなたも消える。わざわざ相手に――――っ!?」

 繰り出される攻撃を寸前でかわすも、相手は最強の存在から生まれた〝存在〟。

 左手を執拗に狙い、指輪を取り返すと、ゼシスは倒れた主の元へ行き、

「我が内に流れし、アルファータの力よ……」

「――! 何をする!?」

 男が声をあげる。

 止める間もなく彼女の身体は淡い光に包まれ、一瞬にして姿を消してしまった。

「貴様、彼女をどこへやった!?」

「……答える義務はない」

「たかだか下僕のくせに……!」

「なんと言われようともかまわない。だが、私の中にはアルファータの……――シグマ様の意志がある」

「なんだと……!」

「……主を……――――〝私の大事な娘を、貴様のような輩に殺られてたまるか〟」

 それまでのゼシスの声とは違う、まったく別の男の声が彼の口から漏れた。










 私を愛しておくれ。



 私の、愛しいもの――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 ――――――

「……?」

 有川邸の玄関を一歩出た瞬間、彼女は何かに呼ばれた気がして朝の空を見上げた。

 きんと冷えた冬の空気。

 空は雲ひとつなく晴れているが、はあと息を吐くと、それは白く変わった。

 季節は冬の十二月。

 世間では温暖化が進んでいると言われていても、その日その日に感じる体感温度はひどく冷たい。

「将臣くん、呼んだ?」

 もしかして先に出た将臣が呼んだのかもしれない。

 声をかけると、彼はあくびをしながら振り返った。

「んあ、呼んでねぇけど」

「そう……」

(おかしいな。さっき誰かに呼ばれた気がするんだけど……)

 眉間にしわを寄せて考え込んでいると、大きな手が伸びてきて彼女の右手をつかんだ。

「ほれ、行くぞ。電車乗り遅れて遅刻はやだろ」

「あ、うん」

 二人は手をつないだまま、家を出て近くの極楽寺駅へと向かう。

 彼の名前は有川将臣。

 鎌倉高校に通う二年生。

 彼女の名前はノリエ=アルファータ。

 同じく、鎌倉高校に通う二年生。

 ともに二人が三歳の頃、有川邸の隣にのりえを含む月宮夫妻が越してきたときからの付き合いである。

 のりえには少し複雑な事情があり、彼女は月宮夫妻の本当の子どもではなかった。

 結婚してすぐに子供に恵まれないと分かった夫妻は、施設にいたのりえを養女として引き取り、鎌倉に念願のマイホームを購入して越してきたのだ。

 養女として引き取られたはずののりえの名前が〝月宮〟ではないのは、彼女ががんとしてアルファータの名を譲らなかったせいである。

 唯一身につけていた指輪とカフの一つにアルファベットで名前が刻まれており、三歳という幼い年齢にもかかわらず、彼女ははっきりと〝月宮〟の名を受け取るのを拒んだのだ。

 施設にいたときから、まわりの子供とはどこか違うのりえを誰もが薄気味悪いと遠巻きにしていたが、見学に来た月宮夫妻は一目見て、彼女を引き取りたいと決め、手続きに入った。

 容姿も含め、彼女自身の記憶も名前以外ないことや、身体が弱く、二十歳まで生きられるかどうかも分からないと医師から宣告された彼女を養子にするのは、面倒を背負い込むことだと施設職員がこっそり本音を漏らしていたが、それでも月宮夫妻は迷いなく彼女を引き取った。

 名前を変更しなかったのは、月宮夫妻がそこまで執着する性格ではなく、何より二人自身も天涯孤独の身同士だったために家の名はたいしたものではなかったからだ。

 越してきた夫妻とのりえは、隣の有川邸に引っ越しの挨拶に訪問したときに初めて将臣たちに出会ったのである。

 同い年というのもあり、それからはずっと一緒にそれこそ兄妹のように育ってきた。

「あ~、早く冬休みになんねぇかな~」

「だねー。将臣くん、冬休みは何して過ごす予定?」

「んー、どうすっかな~。短期でもいいからバイトでもすっかな」

「え、また? ……将臣くんたちがいないとさびしいな」

 将臣は高校に入ってから、市内の小さな喫茶店でバイトをしている。

 最初は小遣い稼ぎだったが、近頃ではスキンダイビングにハマり、そのための沖縄への旅行費稼ぎと、卒業してからの一人暮らしをする貯金のためだ。

 だが、長い休みが続くときは短期のバイトを掛け持ちしたりして、幼い頃のようにのりえと遊ぶ時間も減っていった。

 他の友人たちと遊ぶということもあるが、のりえが抱える深刻な事情により、将臣たちなしでは気軽に外で遊ぶこともできない。

 したがって、遊び相手となるのは身近にいる彼らだけだった。

「譲がいるだろ。……つーか、あいつは俺がいないほうが都合がいいんだ」

 将臣が苦笑しながら言う。

 のりえは言葉の意味が分からず、きょとんとした顔で将臣を見た。

「譲くんは部活があるもの。それに、なんで将臣くんがいないほうが都合がいいの?」

 譲は将臣のひとつ下の弟で、のりえのもう一人の幼なじみである。

 弓道部に所属しており、朝練のある日はひとり先に登校するのだ。

 当人はまったく気づいてはいないが、譲は幼い頃から彼女に片想いをしている。

 その想いを、兄である将臣も知っていたが、将臣自身も彼女のことを想っていた。

「おまえは気にしなくてもいいんだよ」

「……? よく分からないけど……。でも、イブとクリスマスは空けておいてほしいな。充は彼氏と過ごすって言ってたから。二人がいないと、あたしひとりだけでさびしい」

 中学に入ってすぐ、彼女の養い親は不慮の事故で亡くなってしまった。

 他に身寄りもなかったのりえは再び施設に逆戻りかと思われたが、出会って以来、家族ぐるみで付き合っていた将臣たちの両親が面倒を見ると申し出て、それから有川邸で家族のように一緒に暮らしている。

「……前にも言ったような気がするが、いいかげん幼なじみ離れしねぇと、彼氏できねぇぞ」

 彼女の本心が知りたくて、あえて将臣は突き放す。

「別にかまわないよ。将臣くんや譲くんと離ればなれになっちゃうくらいなら、そんなのいらない。……それとも、邪魔になった?」

 幼なじみから離れないと彼女ができないのは将臣も同じである。

 もちろん、そのときは相手の彼女が嫉妬しないよう、のりえは離れていく覚悟はしていた。

 ――が、その覚悟は無駄以外のなにものでもなかった。

 彼女の抱える問題がなければ、二人は両想いなのだから。

「もし、もし邪魔になるようだったらちゃんと言ってね? ……さびしくなるけど、ひとりでも頑張るから」

 つないでいた手を離す。

 冬の気温もあって、手のひらのぬくもりはすぐに失われていく。

 離れた手のひらから、心が裂かれるくらいの痛みがやってくる。

 将臣は、すぐに彼女の手をつかみとりたい衝動に駆られた。

「馬鹿言え。おまえをひとりになんかできるかよ。譲はどうか知らねぇが、俺はおまえをほうっておくつもりはねぇから」

 むしろ将臣が離れたら弟の譲が喜ぶばかりで得をすることは一切ないし、クラスメイトの坂月がここぞとばかりに奪っていくかもしれない。

 坂月とは、去年の夏に転校してきた関西弁を操る、アラビアの血を受け継ぐクォーターの男。

 転校初日からのりえに猛アタックをかけており、今もずっと続いている。

 将臣にとってはどこの馬の骨かも分からない男にのりえをとられるのは、譲にとられるよりも許せなく、何が起ころうとしても彼女を手放す気は毛頭なかった。

「……おまえ、覚えてるか? 母さんの話」

「ん? おばさまの?」

「ほら……俺と結婚云々とかってやつだよ」

「あぁ……。うん、覚えてる」

 去年、のりえが十六を迎えた十月六日の誕生日に、将臣たちの母親である京子から真剣な表情で将臣と結婚しないかと問われた。

 青天の霹靂と言わんばかりにふってわいた話。

 なにゆえ結婚などという話になったのか。

 そこには、将臣たちの両親である有川夫妻と祖母の菫の、のりえに対する愛情があった。

 彼女を引き取る際、養子縁組という形で家族に加えようとしたが、未成年のため手続きがややこしく、のりえの場合は二度目となったうえ、月宮夫妻の遺産や保険金などのことで以前より簡単にいかなかった。

 もちろん、いくら時間がかかっても彼女を家族として受け入れようとしていた有川夫妻と菫だったが、ふと幼い頃に冗談で言っていた結婚話を思い出し、将臣もまんざらではない様子だったので、それだったらいっそのこと将臣と結婚して籍を有川にいれたらどうかという流れになった。

 当時はまだ十三歳だったのでこの話をすることはせず、女の子が結婚できる十六歳になった日に打ち明けた。

 だが、のりえは結婚できる歳になったとしても相手の将臣は十八にならないと結婚できない。

 そこで夫妻は将臣が十八になるまでは婚約という形でどうかと提案してきた。

 しかし、当人同士の気持ちはあまりの突拍子もない話についていけず、これを知った譲も猛反対したため、保留になった。

 中止にならなかったのは、互いに少しでも気持ちがあることを感じたゆえのことである。

 ちなみに、有川夫妻は将臣と、ということで話を進めていたが、実際はのりえがよければ譲とでもという気持ちもあった。

「……するか?」

「え……?」

 のりえは目を見開いて将臣を見た。

「結婚」

「え……ま、将臣くん? ……ちょっと待って。恋人とか、そういう段階踏んでないのにいきなり結婚なの?」

「……いやか?」

「……う、ううん」

 いやなわけなかった。

 これも一応、プロポーズになるのか?

 大好きな将臣から言われてのりえの心は浮きだったものの、素直に喜べないのが現実だった。

「いや、じゃないけど……」

「一緒に住んでる仲だろ。いまさら恋人ってガラか?」

「そ、れは……そうだけど……。でも……」

「少なくとも、俺は本気だぜ。おまえが俺から離れないかぎりはな。……ま、来年の俺の誕生日までゆっくり考えとけ」

「……うれしい。ありがと」

 最初は戸惑っていたのりえも、真剣そのものの将臣の雰囲気を感じ取り、本気で自分とのことを考えてくれていることがうれしくて、はにかみながら礼を述べた。

 そのすぐ後、のりえの顔から笑みが消え、急に立ち止まって空を見上げた。

「どうした?」

「ん……今、何か聞こえた気がして……」

「またか? 聞こえたって、どんな感じで?」

「うん……今度のね、なんか鈴の音がしたんだけど……?」

「鈴? 俺には聞こえなかったが……。ま、誰かが鈴のキーホルダーでも持ってんじゃねぇのか?」

 まわりには他の学生の姿もある。

 携帯を手に歩いている者たちのストラップについている鈴の音かもしれない。

「そう、かもしれないね。ごめん、変なこと言って」

「別にかまわねぇけど。具合が悪いなら、すぐ言えよ。おまえ、すぐ我慢しちまうんだからよ」

「分かってるって」

 のりえは微笑み、歩き出す。

 笑った瞬間、太陽の光が両の瞳に反射して、将臣の位置からは彼女の瞳がきらきらと輝いているように見えた。

「…………」

 十年以上の付き合いでも、彼女の瞳はいつ見ても不思議だった。

 片方は闇のような黒い眼で、もう片方はサファイアのように透き通った青い眼。

 犬や猫などの動物にはたびたび両目の色が違うものもいるが、人間でオッド・アイは珍しい。

 今ではカラーコンタクトレンズなるものもあり、自由に瞳の色を変えられることができるが、将臣がその眼を見たのは今から十四年も前のこと。

 当時、色のついたコンタクトレンズは今ほど手軽に普及しておらず、それに三歳の子どもがつけられるようなものでもなかった。

「将臣くん?」

 ほけっと見惚れていると数歩先ののりえが振り返り、彼の名を呼んだ。

「……ああ。悪ぃ」

 我に返った将臣はすぐに彼女の隣に並んだ。





 きんこんかんこーん。

 二時間目の授業終了を告げるチャイムが鳴り響く。

「――では、今日はここまで。ポイントはテストに出るので、きちんと復習しておいてくださいね」

 物理教師はそう言い残して、教室を出ていく。

 教師の姿がなくなると、教室内の生徒がいっせいにだらけだした。

「……あー、ようやく終わったか」


 眠そうな声で将臣は言い、だるそうに両腕を上げて身体を伸ばした。

「ふふっ、将臣くんのうたた寝しそうな顔はいつ見てもかわいいなー」

 将臣の左隣の席に座っているのりえがくすくすと笑う。

 右手で頬杖をつき、まどろんだ表情で舟をこいでいる将臣の顔は平和そのもので、それを眺めていたのりえはひとり和んでいた。

「おまえな、男に向かってかわいいなんて言うな。全然うれしくねぇ」

「ふふっ。……でも、雨、降ってきちゃったね。朝はあんなに晴れていたのに」

 視線を窓の外へと移す。

 朝はきれいに晴れていた空が、今は灰色の雲に覆われて大粒の雨が降っている。

 先ほどの授業が始まってすぐに天気が悪くなりだし、後半には降り始めた。

「天気予報じゃ降らないって言ってたのに……。傘持ってこなかったから、帰る頃にはやんでるといいけど」

「――アルちゃ~ん! 傘なら俺、置き傘あんねん! 仲よう相合い傘して帰ろうや~ラブラブ

 いきなり後ろから大きな腕が伸びてきて、のしかかるように抱きつかれた。

「ぐえっ」

 予想以上の圧力に、簡単に押し潰されるのりえ。

「てめぇ坂月! のりえになにしてんだよ!」

 すぱーん!

 将臣が物理の教科書で坂月の頭を叩いた。

「ったぁー! アルちゃん、有川がぶったー! なぐさめてえや」

 将臣に見せつけるかのように、坂月はのりえに頬擦りをする。

「っ……てめぇ、いい加減に――」

 ばこっ。

「ぎゃっ」

 先ほどの打撃よりも強いものが、坂月の頭を襲った。

「坂月くぅん? のりえにちょっかい出す前にやることがあるんじゃないかしら?」

 英和辞書を片手に持った中村が満面の笑みを浮かべつつ、そんなことを言った。

「ひっ、じ、辞書や……殺傷能力倍増やで」

「日直はこの休み時間に職員室に来いって言われてたでしょ」

「つぎ体育やねんで。なんで行かなあかんねん。うちの担任アホちゃう? 体育館行ってソッコー遊ぶんや」

「……中村、辞書貸せ。角で殴ってやる」

「さ、坂月くん! 将臣くん、本気だから行ったほうがいいよ!? 充っ、坂月くんをお願い!」

 将臣の目が異様なくらい据わっていた。

 のりえが慌てて坂月を中村と一緒に教室から追い出す。

 今日の日直は中村と坂月の二人だった。

「坂月……覚えてろよ。バスケでぼこぼこにしてやる」

 普段何事にも動揺せず、どっしりとかまえている将臣だが、いったんのりえが絡むとまわりが驚くほど熱くなる。

「まぁまぁ、落ち着いて。ほら、体育館行こう?」

 机の脇にかけておいたショルダーバッグを持って、将臣と体育館に向かう。

「……聞くまでもねぇが、今日の帰りは――」

「誘われても帰りません! 将臣くんと一緒に帰ります!」

「よし」

 満足そうにうなずく。

「あ、でも雨が降ってきたってことは、譲くんの部活は休みかな? たまには三人で一緒に帰らない? 寄り道してこうよ」

「譲がいいって言ったらな。……第一、雨降ってんだぞ? 具合は平気なのか?」

「へーき! 今日はなんだか調子がいいの」

「つっても、おまえは見学だからな。この間みたいにやりだすと、おまえが苦しむだけなんだからな」

「分かってるよ。見てるだけー」

 身体の弱いのりえは、小学校のときから体育の授業は見学だった。

 激しい運動をすると命の保障ができないほど、彼女の身体は脆弱なのだ。

 普段静かに生活していても、まわりの環境や天候などで体調を崩してしまうことがある。

 そのときによって身体に起こる症状は様々だが、発熱、頭痛、嘔吐、腹痛、胸痛、発作……どんな症状に陥ってもすぐにそれらを和らげる薬を片時も手放すことができず、肩にかけたバッグの中には、すべての薬と飲料水の入ったペットボトルが詰め込まれていた。

 将臣が口にしていたことは、先日の体育の時間、すこぶる調子のよかったのりえは多少運動をしても平気だろうと油断して、バドミントンをした。

 最初のうちは何の問題もなかったが、しばらくして胸に痛みを覚え、発作を起こしてしまい、倒れこんでしまった。

 幸い、命に別状はなかったが、過去にそういった経緯で運動をして生命の危機に陥ったことが四回ほどある。

 意識が目覚めてから、烈火のごとく月宮夫妻に叱られ、夫妻がいなくなってからは、有川家族が鬼のように怒った。

 彼女が二十歳まで生きられるかどうか分からない。

 そう診断した医師の言葉を、彼らも、そしてのりえ自身も知っている。

 それなのに、自分から無茶をして寿命を縮めるとはどういうことか。

 説教は小一時間ほど続くのだった。

「……見てるだけ。残りの三年間、ただ見てるだけ……」

 宣告を信じれば、のりえはあと三年の命である。

 というより、二十歳まではと言われたので、三年どころか、もはやいつ灯火が消えてもおかしくない命だ。

 それだから将臣との結婚も考えてしまう。

 残された時間はもう少ない。

 たったそれだけの時間しか過ごせない自分と結婚しては、将臣の重荷になるだけではないだろうか。

 そんな思いが邪魔をして、手放しでOKするということができなかった。

「俺とおまえはじいさんばあさんになっても一緒にいるさ」

 何気なく呟いた言葉が聞こえたのか、将臣がのりえを元気づけるかのようにそう言って軽く頭を叩いた。

「ふふっ、そうだったらいいなぁ。――あ、譲くん!」

 のりえが体育館から出てくる譲とその友人たちの姿を見つけた。

 大きく手を振ると、二人の存在に気づいた彼らが破顔する。

「おっはよーです! のりえさん、将臣さん」

「おはようございます、先輩方」

「うん、おはよう! 一平くん、隼人くん」

「よう」

 渡り廊下の真ん中ですれ違い、互いに挨拶を交わす。

 城田一平、高峰隼人は譲と同じクラスの友人で、のりえたちとは小学校からの付き合いである。

「譲くんもおはよう。今日はまだ挨拶してなかったよね」

「……はい。おはようございます、先輩」

 朝練のために早く登校していた譲とは初顔合わせ。

「先輩……少し顔色が優れないようですが、体調は大丈夫ですか?」

「え? そう?」

「天気が崩れてきたせいですかね……――これから体育ですか? それでしたら大事をとって保健室に……」

 不安そうな表情をする譲とは反対に、のりえはにこやかに微笑った。

「平気だよ。どこも悪くないし、きっと光の加減でそう見えちゃったんだよ」

「譲、心配しすぎ。んなこっちゃ、一日中保健室にいるようになるぞ、こいつ」

「え~、将臣くんがそれを言いますか~? さっき似たようなこと言ってたのに……」

「俺は無理するなっつっただけだ」

「あたしにとってはおんなじこと~」

「同じことでも、お二人の忠告はきっちりと聞いてくださいね、アル先輩。先輩がいないと譲が――」

 どふっ。

「……っ!」

 鈍い音とともに高峰の表情が崩れた。

 のりえの位置からは見えなかったが、譲が素早い動きで高峰の背中に拳を与えたのだ。

「……っ、ごほん! 一平、おれたちは先に行っていよう。――じゃ、先輩方。失礼します」

 高峰は城田の返答も聞かず、彼の腕をつかんで歩き去っていってしまう。

「え……ねえ、隼人くんの顔色悪かったけど、大丈夫かな?」

「先輩が心配することのものじゃないですよ。……じゃあ、俺も行きますね」

「あ、ちょっと待って、譲くん」

 行きかけた譲を呼び止め、

「今日は部活、ある?」

「いいえ、雨が降ってきてしまったので、中止みたいです」

「じゃあ、今日は三人で一緒に帰らない? んで、寄り道してこーよ」

「またあのカフェですか?」

「だめ?」

 上目遣いで甘えたようにねだる。

 こんな表情を見せられては、のりえに惚れている譲には断ることはできない。

「かまいませんよ。……ああ、ついでに本屋にも寄っていいですか?」

「いいよ。何かの発売日だっけ?」

「ケーキの本を少し。クリスマスが近いですからね」

「ケーキはもう母さんが注文したんじゃないのか?」

 将臣が気づいたように言う。

 すると、のりえが元気よく手をあげた。

「はいは~い! あたしが譲くんに注文したの!! プロムナードのケーキもいいけど、譲くんの作ったケーキがいちばん好きだから!」

「どんだけ食うつもりだよ、おまえ」

「いいじゃん、別腹別腹♪」

 女子特有の秘技である。

「じゃあ先輩。本を一緒に選んでくれますか?」

「喜んでラブラブ

 心底うれしそうに笑っているのりえ。

 色違いの瞳が生き生きとしていて、二人も自然と笑顔になる。



 ――――――



「……っ?」

 突如として聞こえてきた鈴の音。

 朝に聞いたものと同じだが、今度は強く、はっきりと。

 笑顔の消えた表情であたりを見まわすのりえに、将臣と譲は首を傾げた。

「どうした、のりえ?」

「どうかしたんですか、先輩?」

「……また、聞こえた。朝に聞いた、あの音……」

「朝?」

「音って、鈴の音か?」

 その場にいなかった譲は何のことか分からないが、将臣はすぐに思い出す。

「うん」

 うなずいてのりえは、はたと動きを止めた。

 ある一点を見つめている。

 二人は彼女につられて視線を向けると、雨の降る中庭に一人佇む男の子の姿を見つけた。

 年の頃は十歳前後。

 金色の瞳を持ち、腰に届くまで長い髪は、現実では見たことのない青銀色をしていた。

 子どもにしては特異な服装をしており、現代の子供が着るような洋服ではなく、古風的な大陸衣装を着ていた。

「子ども……? こんなところになぜ……」

 譲が呟く。

 のりえは何を思ったのか、渡り廊下の端まで行き、手を差し伸べた。

「おいで。そこにいると、濡れちゃうよ」

 素性や服装のおかしさはともかく、冬の雨は恐ろしいほどに身体の体温を奪っていく。

 そんな考えが頭を横切った瞬間、おかしな違和感を覚えた。

 確かに冬の雨はひどく冷たいが、それがどうして体温まで奪っていくという考えになるのか。

 差し伸べた右手が硬直すると同時に、子どもが微笑んで口を開いた。



 ――――神子――私の、神子――――



 刹那、辺りを取り巻く空気が震え出し、白い光が出現する。

「なんだ……っ、これは……!」

 まぶしさに目を閉じると、のりえの悲鳴が聞こえた。

 すぐに目を開け、見たものは、彼女の身体が現れた白い光の中に吸い込まれていく姿。

「のりえ!?」

「先輩っ!」

 将臣と譲の二人が同時に手を伸ばし、迷いなく光の中に飛び込む。

 ――ばしゃんっ。

 飛び込んだ先は、白い空間の中を激しく流れる川だった。

 必死に手足を動かし、水面に顔を出す。

 将臣はのりえの姿を探した。

「のりえっ!」

 激流に身体を押し流されながらも大きな声で彼女の名を呼ぶ。

「まさっ、……おみ、くん!」

 彼の声に答えるように、のりえの必死な声と数メートル先で細い手が上がるのが見えた。

「のりえ!」

 泳いで近寄ろうとするが、流れが将臣の進路を邪魔する。

 それでもなんとか一メートルまで距離を縮め、

「のりえ! 手を伸ばせ!」

「っ……!」

 自分に向かって伸びている将臣の手を取ろうと、のりえも手を伸ばす。

 互いの指先が触れ、将臣ががっちりつかもうとさらに手を伸ばそうとしたとき、

「――のりえ!?」

 ずっともがき続けていたのりえは体力の限界を超え、ついに力尽きてしまい、川の中に沈んでいってしまう。

 将臣が後を追おうともぐろうとした途端、後ろから大きな波に襲われ、将臣自身も川に飲み込まれてしまった。



 

 

 


 ひんやりとした空気に、のりえは意識を取り戻した。

 ゆっくりまぶたを開けてみると、視界は白くかすんでいた。

 ついで四肢の感覚が戻ってくる。

 かすかに痺れを感じるが、指先の感覚はあり、ゆっくりと握りこぶしを作る。

 その間に何度かまばたきを繰り返しても、白い視界ははっきりと見えてこなかった。

 それもそのはず。

 のりえ自身の目がかすんでいたわけではなく、白い霧が漂っていたのだ。

 だるい身体を起こし、ぼんやりする頭で辺りを見まわす。

 どこかの川のほとり。

 石河原のど真ん中にのりえはいた。

「……なに、これ……?」

 身体に目を落とすと、見覚えのない服を着ていた。

 時代劇に出てきそうな着物のような装束。

 時代劇といっても、侍やら武士などのものではなく、戦国時代に近い時期の衣と陣羽織。

 下半身は制服のスカートとスニーカーのままだった。

「それに、ここ……どこ……?」

 言葉とともに白い吐息が漏れる。

 寒さを少しでも和らげるため、身体を抱き締めるように両腕をまわした。

「――あ……」

 のりえのいるところから十数メートル離れたところに数人の人影を見つけた。

「あの……」

 ふらつく足で立ち上がり、声をかけながらそちらへ歩こうとすると、一つの影がこちらに振り向いた。

 濃い霧がじょじょに薄れていき、相手の姿がはっきりと見えてくる。

「っ――!」

 姿を目にした途端、背筋が凍った。

 足元から頭へと一気に恐怖が全身を駆け巡る。

「ギ……ギギ……」

 ボロボロの鎧とかぶとを身にまとった骸骨に近いミイラ。

 身体には十本以上の矢が刺さっており、生前眼球があったはずの目のくぼみには、白く不気味に光るものが宿っている。

 一目見て、生きている人間ではないと判断できた。

「なっ……なに……」

 地の底から聞こえるような低い声で唸り、右手に持っている刃こぼれした刀を握り直して、さらに近寄ってくる。

 むき出しの殺意が、自分に向かっているのが恐ろしいくらいに分かった。

 本能が逃げろと命令する。

 だが、身体はあまりの恐怖に硬直してしまい、足が思うように動かない。

「きゃあっ!」

 足がもつれ、尻餅をついてしまう。

「ギギ……ギギャ……!」

 やってきた鎧武者が刀を振り上げ、のりえを斬ろうとする。

(殺される……!)

 どうすることもできなくて、のりえはとっさに目を閉じて身体をこわばらせた。

 がぢぃぃぃん!

 一呼吸の後、甲高い金属音が響いた。

 衝撃がやってこないことに疑問を感じ、おそるおそるまぶたを開けると、眼前に剣を持って立ちはだかっている子どもの姿があった。

 同時にのりえの頭の中で、子どもに重なるようにして大柄な男性の後ろ姿がだぶって見える。

「――君は……」

 学校の中庭で見た子供である。

 小さな身体で必死に鎧武者の振りかざした剣を受けているが、圧倒的な力の前にはじかれてしまう。

「君!」

 子どもは地面に伏し、持っていた剣は宙を舞い、のりえの真横に突き刺さる。

 銀色に輝く両刃の剣。

 そこに映る、ほうけた自分の顔と倒れた子ども。

 そして、その子どもに刀を突き刺そうとしている鎧武者。

「――やめてっ!」

 無意識に身体が反応した。