皆さま、お疲れ様です。Nです。
これは「"ことば"を散歩する」シリーズの三つ目です。いったい、どこまで続くの? 的な疑問を自分の中で感じつつ、まあふらふらと歩みを進めてまいります。
ある町の個別指導塾の講師が、散歩的に思考をしていく。
私はこれから、どこに、立ち寄ることになるんでしょう。
前回の記事において、「国語≒体育」説に私が抱いていた違和感を明らかにしておきました。
そのなかで、基本的には、「身体の一部のように何かを用いるために繰り返し練習が必要な事がら」、または「国語において左のような思考を要請すること」を「体育的なもの」として考えていく姿勢をとりました。
ここで念のため、以上のような姿勢が、現行の体育の授業が必ずしもそのようなものとは限らないという予測、そしてあくまで「国語≒体育」という考えが成立しそうな場を仮定たうえでの、発言であることを明記させてください。「体育的なもの」というまわりくどい言い方をあえてしているのはそのためです。
さて、今回は、ここまでで書いてきた事柄をもうすこし引き延ばして、国語という科目が、ことばという観点からみてどのように学ぶのがよいと言えるのかについて考えてみたいと思います。この場合、「ことばという観点から」と述べる意味は、国語科の内部における区分、典型的なのは「現代文/古文」というような区分けをいったん保留して、どちらにも共通するような基本的なことについて述べたいと思うからです。
いったい、人とことばはどのような関係をもっているのでしょうか。
ここまでで得たことをふまえるなら、言葉は、決して少なくない部分で身体に根差していながら、それを超えた領域にまで曖昧に到達しているように思えます。
そもそも、「人とことばの関係」という巨大な問いは、考えようとしてみるととすぐに厄介なことに気が付く種類の問題です。
それは、この問いそのものが、現に私がことばを用いることによって表現されているということによります。
いわば、これから解明されるべき対象が、解明する側のほうに常にすべりこんできていることが、思考することをあらかじめ困難にしているように思えるのです。では、このようなとき、どのようにして、私たちはこの大きな問題に迫っていくことができるか。
おそらく、こここそ、文学的なことばの出番です。
なぜなら、文学は、ことばを、日常自明なものとして使われている意味から一時的に引きはがし、そのことによって、言葉そのものを対象化する機会をくれるからです。たとえば、比喩の機能は、そのことを端的に示します。私がいまこれを書いている目の前には、「iphone」がありますが、たとえばこれに対する可能な比喩表現として、「りんご」と「冷たい鉄板」というものを考え、次のような文を作るとします。
「私は、なんとなく、目の前のiphoneを手に取ってみる。背面には、一口かじられたりんごのマークが描かれている。そういえば、これはどういう意味なんだろう?」
「iphoneに着信がある。名前も確認せずに、出る。この鉄板は頬の熱を吸い取るような冷たさをしている。」
この二つの文は、どちらもiphoneのことを記述していますが、その在り方を異なって見せています。前者では、「かじられたりんご」と述べることで、神話的な「知恵の象徴」のイメージが。後者では、「冷たい鉄板」と述べることで、「人と人を無機質な形でつなげる機械」のイメージが付与されています。
このように、遊び的な言語操作をすることで、私たちの身体に結び付いていることばを、自明な領域から一時的に離脱させ、そのことばに対して認識の再考をうながすことを、文学的なことばは可能にするのです。
ならば、「ことばと私たちの関係」にせまっていくための手段として、「ことばそのものを主題とした文学作品をよむ」ということが考えられるはずです。
言葉遊び、言葉と戯れること、文学的なことばの使用のなかで、ことばと人の関係そのものへと、さかのぼっていくこと。
まるで、散歩のなかで、日常化された風景の思わぬ部分に気が付くように。
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