もしも、両親が死んだら私は生きていけるだろうか?
この記事を読んでふと思った。
実家から下宿に帰ってきて寂しいからかもしれない。
いや、耐えられないんじゃないかと思う。
耐えれるとすれば、妹と二人で生きていくか、
もしくは泣き叫ぶことを許してくれる優しい妻と一緒に生きていくか、
そのどちらかしかないように思う。
こんな自分は弱いのだろうか?
それとも健全か?
「喪失」にとりわけ弱い私の心境でした。
昨日は日本航空123便墜落事故でしたね。
毎年ニコニコ動画に映像が投稿されるので見るのですが、今回は捉え方が明らかに違っていました。
それが私に取っては驚きで、何でだろうと思っているのです。
以前までは他人事の悲しい事件に思えていましたが、今回は「明日は我が身」と思いました。
以前までは自分が死ぬのは嫌と思っていましたが、今回は「家族に迷惑をかけてしまう」と思いました。
恐らく、人間の命の儚さをインドで何度も体感したからでしょう。
死と向き合う怯えの心が芽生えたのでしょう。
事故って巻き込まれるまでは遠い存在で、巻き込まれて身時かな存在になりますよね。当たり前だけど。
そんな事故に巻き込まれるのが身近だと思う。
自分は特別な存在ではなく、この世界にあるありふれた命の一つでしかない。
命の重さは変わらない。
そんな当たり前のことをインドで教えられたのかもしれません。
そして失う恐怖を体感したこともそうでしょう。
前回のブログ内容がそうでしたが、当たり前にいた女性を失う喪失感というのは計り知れません。
また家族というものに、それは生まれ育てられた家族も、これから作る家族もそうですが、真剣に向き合い、家族の意味、それを支えようとする自分自身の心持ちにリアルな感覚が芽生えたことも大きいと思います。
命も健康も儚いものなんですよね。その感覚を少しでも脳内に常時持っていれば、もっと時間を愛おしく感じるんだろうけれども。
そして家族という運命共同体とも呼べるコミュニティに全ての人間がいるからこそ、自分の命は他人の命と繋がっていることの素晴らしさ・恐ろしさを持つのだと思います。
これから先も命の捉え方は変化し続けるのでしょう。
毎年ニコニコ動画に映像が投稿されるので見るのですが、今回は捉え方が明らかに違っていました。
それが私に取っては驚きで、何でだろうと思っているのです。
以前までは他人事の悲しい事件に思えていましたが、今回は「明日は我が身」と思いました。
以前までは自分が死ぬのは嫌と思っていましたが、今回は「家族に迷惑をかけてしまう」と思いました。
恐らく、人間の命の儚さをインドで何度も体感したからでしょう。
死と向き合う怯えの心が芽生えたのでしょう。
事故って巻き込まれるまでは遠い存在で、巻き込まれて身時かな存在になりますよね。当たり前だけど。
そんな事故に巻き込まれるのが身近だと思う。
自分は特別な存在ではなく、この世界にあるありふれた命の一つでしかない。
命の重さは変わらない。
そんな当たり前のことをインドで教えられたのかもしれません。
そして失う恐怖を体感したこともそうでしょう。
前回のブログ内容がそうでしたが、当たり前にいた女性を失う喪失感というのは計り知れません。
また家族というものに、それは生まれ育てられた家族も、これから作る家族もそうですが、真剣に向き合い、家族の意味、それを支えようとする自分自身の心持ちにリアルな感覚が芽生えたことも大きいと思います。
命も健康も儚いものなんですよね。その感覚を少しでも脳内に常時持っていれば、もっと時間を愛おしく感じるんだろうけれども。
そして家族という運命共同体とも呼べるコミュニティに全ての人間がいるからこそ、自分の命は他人の命と繋がっていることの素晴らしさ・恐ろしさを持つのだと思います。
これから先も命の捉え方は変化し続けるのでしょう。












