トリビア論
最近ふと思うことがあるので、
4年以上続けている某SNSから過去の日記を抜粋します。
ちなみに日付は2007年11月21日です。
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トリビアと称して
ある知識が、雑学のように扱われるのが嫌いです。
というのも
何であれあらゆる知識は、
それ自体の価値としては
トリビアル(些細)なものやと思うからです。
まるでパズルのピースのように
一つ一つの知識だけでは
物事の全体像を鳥瞰することはできない。
ある出来事に遭遇したときに
自分の持つピースが多ければ多いほど
その全体像や、ひいてはその背景まで
はっきりと見通すことができる。
大事なのはまさにそこで、
いくらパズルのピースを集めても
その組み合わす術を知らない
あるいは知ろうとしない。
そこに、トリビアルな知識が
トリビアルなまま埋もれてしまう
という問題があると思う。
にも関わらず、
それが「トリビア」とラベリングされ、
「トリビア」(=雑学)を多く持つ人が、物知り・博識とされる。
いやいや、そうではないやろ、
博識な人間とはもっと違う人のことをいうはず、
やと思うんです。
学校で習うものの中に
社会に出てから何の役にも立たないではないか、
だからそんなものを勉強しても無意味だ、
という意見はかなり前から見られるけれど、
このような考え方こそ、さっき言った
ピースの組み合わせ方を知ろうとしない
態度ではないのかと思う。
確かに、
日々を無難に過ごすだけであれば
必要ないものなのかもしれない。
が、それでは
見向きすらせずに通り過ぎてしまうことが
生きていく中であまりにも多い。
ある人に出会う
ある料理を食べる
ある建造物の前を通る
ある芸術品を鑑賞する
あるニュースをテレビで見る
そんな一つ一つの体験にも
直感的なもの以上のものを感じ取る。
一瞥したまさにその瞬間に
自分の中にあるパズルのピースが
ひとりでに動き出し、組み合わさり、
それらの背景を織り成すんです。
もちろんそのピースは、単に知識だけでなく
それまでの「経験」も含まれている。
だからこそ、何かを見た時に
何も感じない人もいれば
感動する人もいるし、
しかも、感動のしかたも十人十色になる。
そして、
そこで受けた印象がまた新たな経験となって
遠い将来の次の経験に活かされ、
その経験がそのまた次の経験に活かされる。
そんな連綿とした経験の糸は
まるで蜘蛛の糸のようなもので
ふと気を抜くと
何処ででも簡単に切れてしまう。
じゃあ、糸を切れにくいものにすれば良い。
そして、
その糸を切れにくくするものこそ
まさに「知識」だと思う。
個々の知識の存在のみから
何かしらの意味を見出だそうとしても
それはなかなか難しいものです。
むしろそんな行動に意味を見出だせない。
自分がまだ子供だった頃、
それが分からなかったから
物理が嫌いになったのだろうと思う。
今なお後悔してる数少ないものの中の一つです。
つまり、
個々の知識は
「トリビアル」なものでこそあれ、
決して「トリビア」ではないんです。
そして、
それらを生かすも殺すも自分次第。
知識の眠る引き出しの鍵を開けるのは
あなた自身。
では、知識さえあれば良いのか?
オレは絶対にそうは思いません。
直感や感性といったものも
同じくらい大切なものやと思います。
が、
その話はまた別の機会に。
ある知識が、雑学のように扱われるのが嫌いです。
というのも
何であれあらゆる知識は、
それ自体の価値としては
トリビアル(些細)なものやと思うからです。
まるでパズルのピースのように
一つ一つの知識だけでは
物事の全体像を鳥瞰することはできない。
ある出来事に遭遇したときに
自分の持つピースが多ければ多いほど
その全体像や、ひいてはその背景まで
はっきりと見通すことができる。
大事なのはまさにそこで、
いくらパズルのピースを集めても
その組み合わす術を知らない
あるいは知ろうとしない。
そこに、トリビアルな知識が
トリビアルなまま埋もれてしまう
という問題があると思う。
にも関わらず、
それが「トリビア」とラベリングされ、
「トリビア」(=雑学)を多く持つ人が、物知り・博識とされる。
いやいや、そうではないやろ、
博識な人間とはもっと違う人のことをいうはず、
やと思うんです。
学校で習うものの中に
社会に出てから何の役にも立たないではないか、
だからそんなものを勉強しても無意味だ、
という意見はかなり前から見られるけれど、
このような考え方こそ、さっき言った
ピースの組み合わせ方を知ろうとしない
態度ではないのかと思う。
確かに、
日々を無難に過ごすだけであれば
必要ないものなのかもしれない。
が、それでは
見向きすらせずに通り過ぎてしまうことが
生きていく中であまりにも多い。
ある人に出会う
ある料理を食べる
ある建造物の前を通る
ある芸術品を鑑賞する
あるニュースをテレビで見る
そんな一つ一つの体験にも
直感的なもの以上のものを感じ取る。
一瞥したまさにその瞬間に
自分の中にあるパズルのピースが
ひとりでに動き出し、組み合わさり、
それらの背景を織り成すんです。
もちろんそのピースは、単に知識だけでなく
それまでの「経験」も含まれている。
だからこそ、何かを見た時に
何も感じない人もいれば
感動する人もいるし、
しかも、感動のしかたも十人十色になる。
そして、
そこで受けた印象がまた新たな経験となって
遠い将来の次の経験に活かされ、
その経験がそのまた次の経験に活かされる。
そんな連綿とした経験の糸は
まるで蜘蛛の糸のようなもので
ふと気を抜くと
何処ででも簡単に切れてしまう。
じゃあ、糸を切れにくいものにすれば良い。
そして、
その糸を切れにくくするものこそ
まさに「知識」だと思う。
個々の知識の存在のみから
何かしらの意味を見出だそうとしても
それはなかなか難しいものです。
むしろそんな行動に意味を見出だせない。
自分がまだ子供だった頃、
それが分からなかったから
物理が嫌いになったのだろうと思う。
今なお後悔してる数少ないものの中の一つです。
つまり、
個々の知識は
「トリビアル」なものでこそあれ、
決して「トリビア」ではないんです。
そして、
それらを生かすも殺すも自分次第。
知識の眠る引き出しの鍵を開けるのは
あなた自身。
では、知識さえあれば良いのか?
オレは絶対にそうは思いません。
直感や感性といったものも
同じくらい大切なものやと思います。
が、
その話はまた別の機会に。
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この時期はまだ、やや偏りはあったとは思うものの、
基本的なスタンスは変わっていません。