昭和55年12月5日、徳島市立高校OB合唱団が発足しました。
そもそもは、毎年3月にある母校の定期演奏会に向けて、OBだけ集まって練習しようというものでした。
この年は第14回定演に向けて、広瀬量平作曲「海鳥の詩」を練習しました。
当初は、新居君の家などで練習していたように思います。
おかげで、母校の定演は、大変完成度の高いものになりました。
このOB合唱団は、数年後定期演奏会を開くまでに至ります。
私はこのとき大学4年生でしたが、合唱活動にのりにのっていた時期です。
昭和55年12月5日、徳島市立高校OB合唱団が発足しました。
そもそもは、毎年3月にある母校の定期演奏会に向けて、OBだけ集まって練習しようというものでした。
この年は第14回定演に向けて、広瀬量平作曲「海鳥の詩」を練習しました。
当初は、新居君の家などで練習していたように思います。
おかげで、母校の定演は、大変完成度の高いものになりました。
このOB合唱団は、数年後定期演奏会を開くまでに至ります。
私はこのとき大学4年生でしたが、合唱活動にのりにのっていた時期です。
温厚で明るく、いつも楽しい川人昭夫先生、市高合唱部の練習で怒ったのを見たことがありません。
そんな川人先生が唯一怒ったのが、昭和55年8月25日、それはNHKコンクールの前の日でした。
コンクールの前の日だというのに、練習の出席率が半分ほどだったのです。
「わしが合唱部を熱心に指導したというあれがないけん、怒りにくいけど」という前置きで始まり、延々と怒り続けました。
それは、オーケストラ部との比較に及び、「オーケストラ部は一人や二人おらなんでも、やーやー言うて呼んできよる。第一皆おる。」という名言に至りました。
このころの市高合唱部は、本番になるまで何人出るやらわからないような団体だったのです。
翌日のコンクールは、川人先生が怒ってくれたおかげで、3年ぶりの最優秀校に選ばれることができました。
昭和54年11月5日、その年制定された「第1回藍青賞」を、徳島市立高校オーケストラ部が受賞しました。
この賞は県が制定したもので、教育分野で功績のあった個人と団体に贈られるものです。
川人先生はこのときの賞金で、立派な山の絵を買って音楽室に飾りました。
この絵は、校舎が新築されても新しい音楽室にちゃんと移されました。
改築後の新音楽室に移されたものに、もう一つあります。
第1回生以降のすべてのオーケストラ部員の名札を架けたボードです。
現在は、51回生までの1000人以上の名前がずらりと並んでいます。
きのうEテレで放送の「亀田音楽専門学校」シーズン3の第4回は、J-POPの歴史を4つの時代に分けたうちの最終回、2006年から現在までをとりあげていました。
番組の中で亀田誠司さんは、ヴォーカルにエフェクトをかけることで、歌声の微妙な揺らぎやニュアンスが機械的に整理される。ロボットのように人格が排除される。そのことによって、かえって歌詞が浮き彫りになる。と言っていました。
私たちクラシックの声楽家は、「歌声に微妙な揺らぎやニュアンス」を入れることで表現をしようとします。
今の時代は、機械のような歌い方がもてはやされるのかと、ちょっとびっくりしました。
でも亀田さんは、番組を総括してこう言いました。
「どんなに時代が変わっても、どんなにデジタル化しても、人が心で感じること、人が伝えたい思いは普遍的だ」
昭和54年10月29日、徳島県高等学校音楽学会の統一研究大会が、徳島市立高校音楽室でありました。
県内の高校の音楽の先生が、全員集まる研究会です。
この研究会で、合唱指導法の講師としてお招きしたのは、愛媛大学教授の佐藤陽三先生です。
モデル合唱団となったのは、川人先生指揮の市高合唱部です。
團伊玖磨作曲「大阿蘇」より「カルデラの川」を指導していただきました。
私は大学3年生でしたが、ネクタイをして勝手に会場にもぐり込み、受講させてもらいました。
佐藤先生は、のちに全日本合唱連盟理事長になられましたが、あちこちで私を見つけると気さくに声をかけてくださり、ご厚誼をいただきました。