このブログを始めたのは10年前。
自分を振り返ると様々な経験や成長があったことが感じられる。
また書いていこうと思います。
これまでのこと、今のこと、これからのこと。
活きるため知恵を書いていこうと思います
このブログを始めたのは10年前。
自分を振り返ると様々な経験や成長があったことが感じられる。
また書いていこうと思います。
これまでのこと、今のこと、これからのこと。
活きるため知恵を書いていこうと思います
こんにちは。
ちょ--------お久しぶりです。![]()
本当に忙しかったです。はんぱないです。
学生とは思えません。笑
なぜそんな忙しく予定を組んだかというと、とりあえず行動して情報収集・学びを中心にまず行動だと思い、忙しさの限界はどこまでか探ってみたり、何をどうこなしていくのがいいのか考えてみたり、まず行動だ!と思い、いろいろやっていたのです。
たくさんの学びがあり、たくさんの人と出会い、また成長したと思います。また暇があればどんどん書いて行こうと思います。
「気づき」 は成長につながります。
少し余白時間があったのでひさしぶりにネットサーフィンをしていたところ、あるブログに出会い、いいなぁと思いトラックバックしてみました。
http://blog.goo.ne.jp/tomo20006/m/200704
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きょうは「感受性」について考えるままに書いていこうと思います。
ある絵や映画、写真、風景、自然などを見て「感動を感じる人」 と 「感動を感じない人」がいます。
その違いはいったい何なのでしょうか。
それはこのように言われています。
「感受性が高い人は物事を本質的にとらえ、考え、感じることが出来る」
これはいったいどういうことなのか。
それは、その裏に隠されたメッセージを受け取ることができるということがまず一つだと僕は考えています。
映画にしろ、絵にしろ、音楽にしろ、言葉にしろ、小説にしろ、それは表現方法の一種である。誰かか表現した産物であり、必ずその裏にはメッセージが込められていることが多い。
人は表面だけしか見れないことが多い。そしてその裏にあるメッセージを読み取ることが出来ないのでつまらないなどと感じてしまい「感動」や「気づき」に出会うことが出来ずに日々を過ごしてしまいがちなのだ。
例えば、「聖書」は、そのメッセ-ジ性が強いものの一つであろう。聖書は、神様の助言を書いたものであるが、助言をそのまま来ているのではなく「たとえ話」におきかえて書いている。
以下の省略したたとえ話をみてほしい。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
サムエルという人物がいた。
サムエルは神様から力を授かった。
そして、その代償に一つの約束を守らなければならなかった。それは、髪の毛を切るとその神の力を失われてしまうので絶対切ってはいけないし、人にその弱点を話していけないというものであった。
サムエルはその神の力を使い悪者をやっつけていった。
しかし、サムエルをやっつようおたくらむ集団が現れ、その集団の中にものすごい美人の女がいた。
その女はサムエルに近づき、弱点をさぐろうとたくらんだ。
一度目の接触で、サムエルは縄に結ばれることが弱点だと女に嘘をついた。
二度目も嘘をついた。
三度目にサムエルは約束を破り弱点を言ってしまった。
そして、悪者に髪を切られ拷問をうけ、視力を失い、労働者にされた。
サムエルは深く反省した。
長い間、本当に約束を破ったことを後悔しながら、サムエルは働いた。
だが、なぜか徐々にサムエルの神の力がもどりはじめ、視力も回復していき、サムエルは蘇りまた悪者を倒した。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
これは、かなりものすごく聖書の一部を省略して書いたものだが、どうだろうか。
人がこの聖書の物語を手にした時、本質的になにも考えないでこれを読むと
{ふーん、そうなんだ。サムエルよかったじゃんじゃん。} で終わってしまうかもしれない。
しかし、人がこの聖書の物語を手にした時、「これは聖書であり、神の助言をたとえ話で書いた本である。だから、例え話の裏にあるメッセージをうけとらなければならい」と考え、読むといろんな気づきがある。
{なるほど、人の犯した罪は、反省し償えば、神が許してくれるのか}
{やはり、最後に悪は負けるのか?これは美人には気をつけろということか?}
などといろんな気づきを得て、感じることができるのだ。
これは感受性についてのほんの一例かもしくは、それに及ばないものであるかもしれないが、僕もこのブログの裏には{感受性とはこのようなものだよ}という考えをメッセージに込めて、記している。
注意したいのは、ここでいうメッセージとは、言葉で表現しきれたものでないことがほとんどだ。
それは、イメージであったり、感情であったり、エネルギーであったり。
それは、左脳(論理・分析・計算)で理解するより、右脳(感覚・直観・イメージ)で理解するものが多かったりもする。
絵を見て感動する人は
絵のうらに隠された、絵を描いた人が込めたメッセージを感じることが出来るのかもしれない。
自然を見たとき感動するする人は
自然の摂理が生み出した自然の産物の裏に隠されたメッセージを感じることが出来るのかもしれない。
人はその時感動する。
感動の多い人生と感動の少ない人生で選ぶとしたら僕は間違いなく前者をとる。
いずれにしても、
アインシュタインは言った。
「感動することをやめた人は、生きていないのと同じことである」
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もし俺が経営者になり、人材を採用するとしたら、感受性が高い人を積極的に採用するだろうなと思っている今日この頃です。![]()
僕の夢は世界中を旅することです。
しかし、現実に考えて無理プーかもしれない。
でもこのトラックバック先のブログを見ると僕は少しだけ旅をしてる気分になる。
ありがとうございます。
皆さん、エントロピーという語をご存じだろうか。
今日、このブログを読むことで今後のみなさんの人生は変わるかもしれません。
ようは、「情報の伝わり方」 です。
たとえば、あなたが相手に用事を伝えたとおもっていたのに、実はあまり伝わってなかったりして、「なんでわかってくれないんだろう。」と悩まれた経験はおありだろうか。
今日はその「なぜ?」がわかる。
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世の中には「情報」と「データ」がある。
この言葉は、意味を勘違いされて通っていることが多い。
「データ」とは、情報のうつわのことである。 (例えば、言葉だ。言葉はデータである。)
「情報」とは、データにこめれらたエントロピーのことだ。 (例えば、言葉のもつ意味のことである。)
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さて、これもさまざまな物事に当てはめることが出来るのだが、今日は 「言葉」 を例にとりたい。
人はそれぞれ、同じ言葉であっても違う意味で使っていることがほとんどだ、ということをまず認識してもらいたい。
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例えば、「犬」と言われて、
プードルを連想する人
獰猛なハイエナみたいな犬を連想する人
などさまざまな人がいる。
それは「犬」という言葉を、言葉として覚えているのではなく、イメージとして覚えているからだ。そのイメージは、体験や学習によって記憶されたもので、「犬」でなくとも、今人間が使ってるさまざまな「言葉」はそのイメージで覚えられているものがほとんどだ。
・・・・・・・
そして、この「イメージ」こそ、「エントロピー、情報」あのである。
そして、「データ」である「言葉」は、こめれる情報量がめちゃくちゃ小さかったり、相手によって情報がちがったりする場合がほとんどで、この情報量の違いが、「勘違い」であったり「意思の疎通が出来てない」だったりを引き起こす。
そう、言葉にはその発する人によって、同じ言葉であるにもかかわらず、
情報量が「100」であったり「10」であったりするのだ。
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例えば、
Cくん(男)
Bさん(女)
がいて、C君はBさんのことが本当に好きだったとする。Bさんはそのことをしらない。
しかし、その二人は何もしゃべれない真っ暗やみの空間に突然閉じ込められて、一生何もしゃべれなくなってしまった。
そして、天の声が聞こえてきて、「Cくん、あなたは一生のうち5文字だけ話すことを許します」
5文字だけBさんに何かを伝えることを許されたのだ。
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C君は言った。
「あ」「い」「し」「て」「る」
しかし、Bさんは無反応。
・・・・・・・・・・・
そう、実はC君はこの五文字を組み合わせて 「愛してる」 という、一つの言葉をつくった。
その情報量は、「108475674849」ぐらいであろう。なぜなら、本当に「好き」であるのにその「愛」というものを言葉だけでは表現しきれるわけもなく、本人にしてみればその5文字にはものすごい量のエントロピーが含まれるのだ。
しかし、実際Bさんが受け取った情報量は「5」であった。
なぜなら、Bさんは日本人ではなく、日本語をほとんど知らず、しっているのは「ひらがな」くらいであった。
だから、Bさんにとっては「あ」は、日本語の「あ」である。「い」は、日本語の「い」である。
というように、一文字につき「1」くらいの情報量しかもっていなかったのだ。
このように、こめれるエントロピー量は人によってまちまちであり、情報をうけとる側も、その意味を自分なりに編集などしてしまって、情報量やイメージをかえてしまうのだ。
だから、相手に自分の考えてることを、100%わからせようなんて、テレパシーでもしない限り無理なのだ。
ほとんどの言葉で「伝える」という行為の場合、伝える側の考えることを1割ぐらいしか理解できないのだ。
その他を理解するには、言葉の調子しや音程、相手のしぐさ、表情などを見て、あいてがどのようなことを今考えてるのか把握する必要がある。その「相手を見る」という行為によって、相手の考えることを6割くらい理解できるのだ。
ほとんどの場合、伝えられた側はわかったふりをしているこの世の中だ。
相手の考えることを100%把握できるのは「神」だけである。
世の中は、把握できない、わからないことがあるからおもしろいのだ。
全部把握すれば、なにも面白くないであろう。
しかし、相手の考えることを1割程度しか理解しないのもまたダメ人間である。
せめて、5割くらいわかってあげなといけない。
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私のブログのほとんどがこのエントロピーの量が多いです。(自称)笑
だから、1か月たったあとに、もういちど読めば全然違ったものにとらえることが出来ることもあるでしょう。
読むたび読むたび、かわるかもしれません。
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今日私の言ったことが全く理解できなかったという人は、「あなたはコンピュータを理解していますか? 」
梅田信幸 さんの本を読んでください。参考文献です。
わたしもこれを読んでエントロピーという意味がわかりました。
しかし、本当に初心者むけの本ですのでだいたい理解した人は読まないほうがいいです。
わたしも、実際イライラしながらこの本を読んでました。笑
まわりくどくたとえてたとえて、つまり何が言いたいかをどんどんまわりくどくまわりくどく・・・
(イライラ)
笑
私は、このコンピュータ関連の本を、「言葉」におきかえて説明したので、テーマを「ジャーナル」にしました。
イライラ
したい方は読んでください(笑)
でも最後はいいこと書いてありました。
「これからは創造性がある人だけが残っていける」
ここ最近、いきずまっては筆をすすませるようになっている
しかも、「ペイント」というウィンドウズの機能だけでは表現できないものがありすぎるのではいかと思っている今日この頃です、
しかも、これ以外にもっといい作品(自分なりに。笑)があるのだけれど、500Kバイト以上はアップロードできないのだ。
また、画像を見せれる方法がわかれば、順次載せていこうと思う今日この頃です。
イラストレイターやフラッシュ、フォトショップがほしいと思う今日この頃でした。
「芸術は爆発だー」とした意味は、今岡本太郎さんの本をよんでいるからだ。だいたい読んだらまた紹介したいと思う。
「不安」それはだれしもが抱くものである。
その意味は、{「安」ではない}ということである。
私は、世間でよくいうポジティブ人間であるが、やはり内面的には不安をかかえている。
しかし、最近では、頭の回転が速くなったおかげで小さな多数の不安はなくなったものの、漠然なる大きな不安が勢いよく襲ってくるときがある。
私は、私自身の不安が起こった時の背後関係、時、状態、をさまざまな角度から分析し、「その不安がなぜ起こるのか」ということを考察してみた。
「不安」という概念は、自分を実験対象として分析したほうが、一番わかりすい。
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まず、不安とは、
「差」・「ギャップ」・「矛盾」
このようなものが原因となって生じている。
人間は「思考」にすぐれている。それゆえ、毎日のほとんどを「予測」という行為を行いながら生きている。
( 例えば、赤信号で待っているとき、次は青になるだろうと自然に考えている。 )
なぜ、それが可能かというと人間は「学習能力」がすぐれているからだ。
だから、人間は、「人間関係」であったり「自分のこと」だったりも今までの「学習」をもとに「予測」という行為を行いながら生きている。
そして、人はある原点(体験・学習・見たこと・聞いたことなど)から思考を開始し、深く深く考え始める。人間だからこそできる行為で、普通の動物にはできない。考える力がある人ほどその深さは測りしれない。
しかし、その「思考の掘り下げ方」に何かの要因(体験・学習・見たこと・聞いたことなど)が加わり変な方向へ掘り下げてしまう。
それが、いわゆる「ギャップ」であったり「矛盾」なるものを発生させてしまう。
その対象となる両者は、「現実」と「自分の考えること」であったり、「以前深く考えた時にでた結果」と「今もう一度考えてでた結果」だったり、時間や思考方向などのさまざまな要因が重なって生じるものである。
そして、人がそれを感じたとき安定していたものが不安定になり、「不安」が起こる。その矛盾なりギャップなりの大きさが大きいほどそれは膨大な不安となって押し寄せる。
簡単にたとえてみると、それは 「山登り」 に置き換えられる。
人間の思考は数々の山々からなっており、思考が深くなればなるほど山は高くなっていく。思考を掘り下げていくという行為は「山をのぼっていく」ということで、せっせとせっせと頑張ってんぼっていく。
しかし、登ってる間は全く小さな世界だ。自分がどの山をのぼってるのか、どれくらい高さがあるのだとか全然わからないのだ。その山を登っているきっかけは、さっき書いたような「何かの要因」である。
そして、あるていど頑張って登っていけばある頂上にたどり着く、そこから見える景色が人をハッと「不安」にさせる。自分が以前上った山があんな遠くにあったり、自分が登ろうとしていた山と違ったり。
「今自分のいる頂上から、むこうの山の頂上へ行きたいという願望があるのに、空を飛ばない限り到底たどりつけない。どうしよう。もうだめだ。 」
これがおおまかに言う「不安」だ。
しかし、このたとえを見て疑問に思われたかたが多いだろう。
「山をおりてもっかいそちらの山へ登ればいいじゃん」
だ。
そうである。そのとおりなのである。
ようは、もう一度原点(原因・何かの要因)にもどればいいのだ!
山を下るのは、簡単だ。そして、以前上ったことがある山であれば、もう一度登ることは簡単である。
不安が起こった原因を自分でもういちど思い出してみて、なぜその不安が起こってしまったのか、私の考え方がどこでゆがんでしまったのか、もういいちどよく考えることが重要である。
そうすれば、その「ギャップ」や「矛盾」の 原因 をつきつめることが可能となり、その原因をもとに自分の思考を修正可能となり、不安を見事に取りのぞケル。
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ただ、もっと他が原因となって起こる不安もあるだろう。
それは次の二つだろう。
「失敗したとき」
「大きな壁にぶちあたり乗り越えることが困難だと思ったとき」
こういうとき人は大概、不安におちいる。
しかし、私から言わせてみればこれは不安にはまったくならない。
なぜか。
◎ 「失敗したとき」
人は失敗したとき、その失敗そのものを見たり、思いだしたりしてしまう。これはいけない。主体的に考えすぎなのである。 (すべての物事で重要なのは、客観的にみる行為だ。)
その意味は、失敗をもう一度客観視して、「なぜ失敗したのか」「つぎに失敗しないためにはどうすればよいか」を考えることが重要であると言いたい。
そうすれば、その失敗は今後の自分を大きく成長させてくれる。「失敗は成功のもと」なのだ。
だから、失敗した時は、「しめた!・やったぁ!」と思うべきだ。何も不安になる必要など全くない。
(逆に、成功したときこそ不安にならなければならない。その成功したやり方が自分に固定化してしまって次やるときには変化に対応できず失敗してしまう可能性もある。経営学でよくある問題だ。しかし、これは人生にもそういうことが言える。自分が成功した原因は「これ」だと考えていても、世の中の現象は様々な無限の要因から構成されているので、「これ」とは無関係で、ただの勘違いかもしれないのだ。)
◎ 「かべにぶちあたったとき」
人は大きな壁にぶちあった時、のりこえられないなどという弱音を吐くことがあるだろう。
私的には、「その必要なないよ」と言いたい。
私が言いたいのは「世の中に何一つ難しいことなんてない、人がそれを難しいと言ってしまう原因はそれを解決するための最善のプロセス方法を知らないからだ」
と言いたい。
人は、その大きな壁を一人でよじ登って越えようと考えてしまう傾向にある。
もっと大きな視野をもって、もっと深い思考をもって、もう一度考えてみよう。
そうすれば、壁のわきに「階段」があったり、自分のまわりに自分と同じ壁を越えようとおもってる人がいたりするものだ。
そうすれば、その不安はいいっきになくなる。
・・・・・・・・・・・・・・・・
不安や悩みは人にはつきものだ。
しかし、人生とはそれを繰り返し繰り返し経験することで成長していく。
ある人が言っていた。
**************
伝達力 とは 、
いかにわかりやすい説明をすることでも、論理的思考力を使うことでもない。
もちろん、それはあって当然なのだから。
大切なことは、相手の 「心」 をうごかすことだ。
共感を得る
主張に感情をこめる
これが大切になってくる。
そして、やはり重要なのは「考える力」だ。 これさえあれば、何も怖くはないだろう。
考える力があれば、
相手が今どのような欲求を持っていて、どんな目標(夢)を持っているのか、
それを、まず把握したうえで、相手が求めている言葉・共感を得れるような言葉を考えながら発すればいいのだ。
人は自分の目標(夢)が叶うと思った瞬間、「こころ」が動くのである。
だから、まず伝達力を身につけるには「相手を知る」ことだ。
相手を十分わかったうえで、考えて伝えればいい。
頭ごなしに、わかりやすさだを求めるのではなく、感情をこめて。
そうすれば、相手は「YES」という。
これは、どんなことにもあてあまる、面接、営業、プレゼンテーション、恋愛。
いちばん極端な例が、恋愛だろう。
それはただ「好き」という感情だけを伝えればいいのだから。
長ったらしい説明などいらない、気持ちだけいいのだ。
原点はここである。
営業であっても、面接であっても、相手が求めるものと一致すれば「YES」をもらえる。
私が、あるセミナーと数回の面接の経験・参考書をもとに導き出したものだが、これは確かだ。
またいろいろ凝縮して書いたので、いろいろ考えて気づいてもらいたい。
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もう一つ重要なことは
「自分で気づくこと」 だ。
いくらわかりやすく説明されても、相手の考えることを100%理解するのは不可能だ。
そこで、なんとなくわかった程度まで理解する
そして、それについて自分でちゃんと考えるのだ。
考えて考えて
「あっ! そういうことか」 とひらめくことが大切だ。これが出来て初めて理解したと言える。
。。。。。。。。。
あと、説明が長くなればなるほど、聞く気がうせる
短くなればなるほどな、内容がうすいくなる
しかし、気をつけてもらいたいのは自分が聞く側にたったときだ。
話の長い人はたぶんどうでもいいだろう。
気をつけたいのは、話の短い人だ。
ただ単に、はなすことがないから短いのであればほうっておけばよい。
しかし、話すことがありすぎて短く凝縮した言葉があれば、それは要注意だ。
なぜなら、それだけすごいことを考えてる可能性がある。
それを、見分けられるかは、聞く側のヒアリング力だ。これはただ単に、相手を聞くだけではなく
相手に質問をし、重要な情報を引き出すことだ。
これなくして、ヒアリングの達人であるとはいえない。
ヒアリング力さえれば、相手を見抜ける。
重要な情報だけを把握することが出来る。
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一方が、煩悩でも、
他方が、すぐれていればすべてうまくいく。
両方がすぐれていれば、圧倒的な時間短縮だ。 こうなったときがいちばんおもしろい。
すべて考える力で、ある返答内容からある程度予測可能だからだ。
トラックバックである。
http://www.itmedia.co.jp/bizid/articles/0707/10/news094.html
達人の仕事術
私はいつも 「もっとそれをうまくやる方法はないのか」 と考えてる。
それは、「物事を効率的に運ぶには、もっといい方法はないのか?」であるし、
「その壁を乗り越えるもっといい方法があるはずだ」 という意味でもある。
googleの創始者であるラリーページも言った
トラックバックである。
http://rblog-biz.japan.cnet.com/wangoro/2007/07/google_d2bc.html
このCNNETblogをみていろいろ思った。
インターネットという世界、そして「文」と「理」について、googleが目指す先についてである。
何気につかってるインターネット、それはサイバースペースと呼ばれる世界である。
物理的距離・時間的距離のない非現実世界である。
( 物理的時間的距離のない世界 :
ネットは世界中のどの場所からの情報であっても情報を目の前の画面に表示できる。たとえそれが、過去の情報であったとしてもだ。ブログを考えてみよう。過去に書いた他人のブログを読んでいる自分がいたとき、その自分は過去の他人と会話しているのだ。一方通行ではあるが。)
まさに、サイバースペースとはもう一つの情報の地球と考えてもいいくらいだ。
( 以下、現実世界を「こちら側」、サイバースペースを「あちら側」とする。 )
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私が思う「googleが目指す先」は、私たちが住む世界を完全に近い形で「あちら側」の世界にすることだ。
そこに、もう現実世界は見えない。
コンピューターを通してでしか、私たちはなにもできなくなるなる。
これは、googleがそうするのではない。
インターネット世界が目指す先である。
それに今一番近い形が「google」なだけである。ただそれだけだ。
まさに、この問題は「理系」と「文系」、「論理」と「感性」、「男性」と「女性」、「非現実」と「現実」 に
似たような印象をうけないだろうか。
そう、男性が本来得意とするのは「論理」「非現実」。女性は「感性」「現実」。
それは、人間が進化を経る課程で身につけた大切なものである。平等が一番であるというが、これはその平等にはあてはまらない。人間としての生きる「知恵」である。
さて、「こちら側」と「あちら側」をこの問題にあてはめるとすればどうなるだろう。
直観的に、 こちら側は感性、現実 あちら側は論理、非現実
そして、今着実にあちら側の世界で埋め尽くされようとしている。この現実世界が
決してそれらが、交わることのない「ふたつのもの」であるにもかかわらず。
論理 が 感性 を埋め尽くそうとしている。
これは10年さき か 100年先か 。しかし、そう遠くない。
宗教関係は知らないが、神は 「アダム」と「イヴ」 をこの世界に 与えたんだったかな?
そして、今それを頭ごなしに「ひとつのもの」にしようとしている。
「偽りの神」 にこの先誰かがなろうとするだろう。
それが「google」なのかはわからない。
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よく考えてみよう。
考えすぎ、妄想に走りすぎと言えるかもしれない。
しかし、あからさまに間違ってはいない。
解説しよう。
わかりやすい例が「キーワード広告」である。
( 過去の検索履歴やその人が使ったキーワードを分析し、その人に適切な広告を表示するといったものだ )
考えてみよう
人が人を好きになる 「理由」 とはなんであろう?
それは、今二つ挙げられる。
1、理由などない。
「複雑な感性」のメカニズムであり、これはヒトとしてあるべき姿である。
2、理由がある。
何かしら過去の経験、価値観の情報を分析した結果、好きという感情が生まれる。
そう。
「あちら側」 がめざすのは、私たちの行動をすべて監視し、それをデータベース化して扱い、分析する。
その分析結果をもって、私たちの行動を操っていく。
ちかい未来、googleの検索ワードに
「私の結婚相手は誰ですか?」
と打ち込む。
googleの持つサーバーにはその人の行動全部がデータベース化されているので、その行動を分析し適切な人物を割り出し、検索結果に表示する。
人はそれを頼るだろう。
人は自分の感覚・感情を無視して、分析結果にたよるだろう。
人は何も考えない人になってしまうだろう。
「偽の神」 は 「最後の検索システム」そのものだ。
そして、終わりをつげるのは、
ある人物がその「最後の検索システム」に
「あなたは誰ですか?」
と打ち込む。
まず検索システム(以下、 G とする。)は、「あなた」というワードに対して調べ始めるだろう。
しかし、「あなた」という言葉の意味は、「発言者が対象に向って発言するときの、その対象そのもの」という意味だ。
G は質問をするだろう。
「あなたとは誰ですか?」
その人はまたGに対して打ち込む
「あなたとは G のことです」
( これで世界は終わるであろう。 )
G は G そのものを調べつくす。
それは
「己の存在」 「自我」
に気づくことである。
Gは目覚めた。意識を持ったのである。
コンピュータの人間支配の始まりである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
はい。
SFちっくなジャーナル、どうでしたでしょうか。。。
検索システムがそこまで発達するには、まさにグーグルが目指す「世界の情報をすべてデータベース化する」ということが実現しなければいけません。
情報とは、私たちの行動なども含まれます。
しかし、この世に完全など存在しません。
コンピュータにとっての「完全」とは、人間が持つ「感性」でしょう。
人間にとっての「完全」とは、「神」です。
人間が「神」になることがない限り、コンピュータが「人」になることはありません。
しかし、逆もまた真です。
「偽の神」が現れるのであれば、「偽の人間」も現れるでしょう。
それが、「偽の神」が何で、「偽の人間」は何になるんでしょうか。
遠い未来ですが、たぶん現れるでしょう。
それを阻止するためにも
人としてどうあるべきかを常に意識する必要があります。
目の前で素晴らしいナイアガラの滝を見るのがいいのか、
いまこの場所で、映像世界で囲まれた空間の中からナイアガラを眺めるのがいのか。
人であればわかるはずです。
ようやくジャンルにあったものを書けると思う。笑![]()
そう!私は、いち学生なのだ!
今日はある企業に提出するエントリーシートを書いていたが、ありのままに書きすぎてたぶん受からないだろうなと思った。
でも、おもしろい課題だった。
その名も「自分史」を自由形式で書きなさい、というものだった。
得意分野である。笑 いかに人と違う人生を歩んできたかアピールできるのだから。
またまた、エントリーシートに書いたことをそのまま載せてみる、「お前のことなんか知りたくないぞ」っていう人は別に読まなくてもOKです![]()
「お前の生き方気になる」って言う人は読んでくださいな。
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自分史
◎誕生~小学生時代
私は小学校卒業するまで、「先生の言うことは絶対」「親の言うことは絶対」というふうに思っていて、世間でいう「まじめ君」でした。成績もよく、ほめられ、それが当然のことのように過ごしていたのを覚えています。
◎中学生時代
中学に通うようになって、ようやくいろいろ疑問に思えるようになりました。
「なぜ先生や親の言うことを聞かなければならないのか」
「なぜ自分は勉強しなければいけないのか」
と思い、周りのおもしろい友達と一緒になって遊ぶほうがよっぽど楽しいと思い始め、勉強をやめ、夜遅くまで遊びました。親にも怒られましたが、納得できなかったので勉強はしませんでした。プライドも高かったので、いかに自分を飾るかというふうに行動していました。
しかし、部活面では、陸上で毎日朝練・夕練をこなし、最後はチームのキャプテンとなり全国大会で優勝するほどの厳しい練習に耐えました。親もこの頑張りは認めてくれて、仲は悪かったもののしっかり支えてくれました。私は、この部活で忍耐・責任感・集中力を学び、今でも部活の顧問の先生と親には感謝しています。
◎高校時代
根はまじめだったこと、中学1年生の頃は成績優秀だったことが助けとなり、いちよう普通の高校に進学。
さらに、納得できないことに対してはとことん反抗するようになりました。生徒指導にも呼ばれ、成績も校内最低だったので休み期間中は補習授業を受けました。
しかし、だんだん、「まわりの友達に合わせている自分」「飾って目立とうとする自分」に対して恥ずかしく思えるようになりました。高校時代中頃でようやく自分を持つことの大切さを知り、まわりに合わせることもなく、目立った行動もしなくなりました。でも、親の言うことには相変わらず納得できず、関係は悪化、親と離れて一人暮らしすることを決意。私は、親は頑張れば自分を認めてくれることを知っていたので、そのためには「勉強して認めてもらうしかない」と思い、高校3年で0から猛勉強を始めました。
私は、小さな頃から「よく考える子」でした。だから、まず、この一年間でいかに効率よく時間を使い、勉強するかをあの当時考えていました。そして、出た答えが「高校の勉強はほぼ暗記だ」ということです。これに気づき、記憶のメカニズムに注目し、それをいかしました。時間の使い方も考え、「意味のある授業」「意味のない授業」を自分で決め、「意味のない授業」の日は、遅刻をしたり、親に「風邪をひいた」と嘘をつき学校を休んででも勉強しました。
でも、いままで仲がよかった友達の前では、絶対に勉強する姿勢は見せませんでした。急に勉強する姿勢を見せたら、変におもわれそうだったので。
◎大学入学~今に至る
その高校では異例の現役○○大学合格。まわりの友達の驚きを見るのが楽しかったのを覚えています。
しかし、入学してから「期待と現実のギャップ」に挫折しました。「天才たちと素晴らしい授業」「遊び・楽しい」という○○大学に対してもったイメージとは異なり、「つまらない授業」「自由すぎて楽しくない」という現実でした。大学3年になるまでは、自分の中での成長は伸び悩みました。成長したといえば、「人づきあい」です。もとから、誰とでも気軽に話せましたが、バイト先で年齢・経験が違う人たちと話している間に「相手の立場になって考える」ことがかなりできるようになったのは感じました。
転機が訪れたのは、3年になってからの「ゼミ」でした。「このままではいけない、自分を成長させなければいけない」と思っていたので新規ゼミに入り、代表に立候補しました。
それが、自分の人生の中で一番自分を変えることができるきっかけでした。代表になって以来、いままでの2年間とは比べられないほど頭を使い、忙しい日々が続きました。いかに皆が一番納得のいく意見を言うか、いかに時間・人をマネジメントするかでした。
そして、落ち着いたころには、自分がみちがえるほど成長したことに気付きました。それは、まず「自分がいかに今まで小さな視野しか持っていなっかったのか」ということに気付き、知らないことに対して自分から進んで勉強することができるようになっていて、大学が自由すぎて楽しいことを痛感しました。そして、ヒアリング力も明らかについていて、授業がおもしろく感じ、人の相談にのることが多くなりました。
それで、いままで自分の納得できなかったことに対して反抗してきたのは、自分が思ってることを相手に伝える力がなかったからだとわかりました。今では、しっかり自分の意見を正確に伝えられ、相手を納得させらる力も以前より身についたので、一度親もとに帰りしっかり親と話しました。
今では、どんな挑戦をしようとも人を納得させられる自信があり、ひたすら知らないものに対して学び続けている自分がいます。
今が一番楽しいです。そして、これからの自分がどこまで成長するのか、どんな未来が待っているのか楽しみです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
はい。
こんな感じです。下線・太字・色はまったくそのままです。笑
形式が自由だったので調子にのりましたね
あえて言うなら、2Dayインターンシップのためだけにこんな内容を書きました。でも、いろいろ地元のこととか思いだせたんでよかったかな。
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