6日15:16 

「感動する脳」ようやく読み終わりました。

忙しかったせいで、こんなにも時間がかかってしまった。あせる 

それから、同時に読み進めていた「ひらめき脳」 、これまた茂木健一郎さんの本も少しまとめていきたい。


だが、なるべく同じ人物の本を読むのは私は好きではない。

なぜなら、その人の世界観が自分の中にも形成されてしまいそうだからである。なるべく、違う人の本をよみ、あらゆる考え方を学んでいきたいと思う。


6日17:32

今の内容を見たとき、二つ疑問があがったはずだ。

 一つは、「ん?この内容的にテーマはbookじゃないの?」とう疑問。

実は、書いていくうちい私のかんがえることでいっぱいになったのでテーマをジャーナルにした。

だから、どのへんで私の考えに移行していくか推測してみるのもおもしろいと思う。

 2つ目は、時間の記入に対する疑問である。

なぜ、私のブログに時間が書かれているのか。

実は私は、このブログをとても時間をかけて書いている。だから、書いている途中で考えが変わったり、ひらめいたり、してせっかく書いたものを消したり、つけ足したりしていた。

でも実際い読んでる皆さんにも、私がどのような時間系列の文章校正をおこなっているのか、体験してもらうために「時間」を記載している。

6日17:36

たぶん、おもしろいと思う。文章をたてに読んでいくだくだけでは、矛盾してることが多いが、時間系列に見ていけば、なぜ私がこの時このような事を書いたのか、想像できる。そのひらめき体感を皆さんにもしてほしい。

6日17:37

やっぱり私は考えた。

これをジャーナルではなく。プロローグにすべきだと思った。

なぜなら、初めて私のブログを見た人はわけがわからない。

だから、テーマのプロローグは「私のブログが変化」するときに載せていきたいと思う。


7日3:40

あっ、デザインを変えてみた。音譜いつも同じやったらつまらへんやんメラメラ

あと、がんばって今から読んでいってくださいとしか言うことはございません。

たぶん、時間がをかけて何度もよんください。(実際この文の日時がおかしいよね。笑)


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

6日15:30←(この日時は6日17:31の時にだいたい逆算して書いた)


さて、第5・6章は「ネガティブ」がメインテーマだった。



・脳は鍛えれば鍛えるほど、発達していく。それが、どんな方向であっても。


 普段、マイナス思考におちいりやすい人は何故おといりやすいのであろうか、

それは、「マイナスの思考」という思考回路を脳の中で鍛えて、マイナスに陥りやすい脳にしてしまってしるからなのだ。


 

・脳にはスイッチらしきものがある。


 マイナス思考になるときは脳にある「スイッチ」がパチっと切り替わったように、マイナス思考が始まる。

それは、スパイラルのようにどんどん落ちていく可能性がある。

普段マイナス思考の回路を鍛えてる人は、その落ちていく速さも、一般人よりも早い。


・ポジティブ


ポジティブな人はマイナススパイラルから抜け出しやすい。普段から、そういう脳の鍛え方をしているから。

もしくは、脳のスイッチを切り替えやすい脳の鍛え方をしている。頭をすぐに切り替えるのだ。


若返りはポジティブ脳と感動精神


 普段、ポジティブな人は生き生きしている。なぜなら、老けていく自分を見ても決してマイナスにとらえない。

そしてそれが、必然的に表情を豊かにし(表情筋を衰えさせないことでしわも減る)、何にでも「とりあえずやってみよう」する精神を生み出す。

 よく感動する人は人生が楽しい。長年くらしていても、知らないことなど無数にある、それをうまくつけていくこtが大切。脳は年老いても発達し続ける、挑戦することをやめてはいけない、諦めは、終わりの始まりである。


・マイナスの和らげ方


安全地帯をつくる。いつでも自分を受け入れてくれる人、相談できる人を複数作っておく。

小さな欠点にいちいち目をやらない。人は誰しも欠点がある。それをいちいち気にしてるのは時間の無駄だ。

とにかく外に出てみる。人となにかしら話したり、出歩くことで、人がいかに小さなことで悩んでいたかを認識することができる。




・感動する脳の作り方


とにかく、頭と心に空白部分をつくる。もっと視野を広げて。いかに自分が今、ちいさな考え方、生き方をしているか気づかなければならない。たとえ、経験をつんだという自信があっても、完全に知るということは不可能なのだ。

「そんなことわかってる」というようなしったかぶりが、いちばん感動脳を阻害する一つの原因だ。

「そんなことしておもいろい?」という問いは、自分の知らないことを知るという作業を「めんどくさい」ものとして判断している。「どーせ何の役にもたたない」というように思い込んでいるからだ。

しかし、「ひらめき・発想・創造、感動を生む」ためには、そのような自分の知らない世界を探り、まなんでいくことが、一番大切なのだ。


 しかし、これは外部的な認識の確認、つまり「知らないことを学んでいくことは大切だ」ということを自分に言い聞かせることによって、いわば強制をかけているともいえる。

これでは何の意味もない。

いつかは、めんどくさくなる。

肝心なことは、「自分で気づく」ことなのだ。それに気づいた時、「ひらめき」ともいえる感動にみまわれる。

いかに自分が小さいか、いかに視野が狭かったか、

人は気付かなければならない。感動する脳の作り方マニュアルなど存在しない。


 そして、当り前のことにも疑問を持てるようになる力をつけなければならない。

かつての天才たちもそうっだったように。当り前という概念自体不思議なのである。


なにが当たり前なのか?


それは、自分で作った世界が頭の中に存在するからだ。

「空は青い、それは青いから青いのだ」

ということを自分の頭の中で形成する。そして、それが当り前という概念だ。

小さな当り前一つでも、それは脳を固定化してしまう、それ以上の思考を必要とさせないために

小さな当り前がつみかさなり、世の中でよくいわれる「頭の固い人間」というものが形成されるのだ。



・子供と大人の境目とは、そういうことに自分の中で気がついた時が境界線なのかもしれない。


自分の世界感を歳を重ねるごとに作っていく、そしてそれが「当り前」というものに変わっていく。

そうすると、「威張り」というものが生れる。「よく世間で言われる大人」が威張るのはそのせいだと思う。

だから、「世間で言われる大人」というものは実は子供なのだ。


「大人」とは「無知の知」をわかっている人なのだ。

それは、どんな人(小さな子供、後輩、友達)に対しても、学ぶ姿勢を忘れないで、つねに「自分の知らない世界を知っているんじゃないか?」というような気を張っている人間。

全く同じ人など存在しない。

つまり、他人であれば何かしら自分の知らないことを知っている。

「このガキが生意気に」と言う人は、自分がガキであることに気付かなければならない。


・・・・・・・・・・・・

(訂正する。私がいう大人という存在はいくら無知の知をわかっていても実は存在しない)←この訂正文章だけはは7日2:08
・・・・・・・・・・・・

 しかし、「威張り」には「良い威張り」と「悪い威張り」があることも忘れてはいけない。

なぜかというと、私はこのブログで威張り倒してるからだ。「~だ。~であるのだ。~しなければいけない。」というふうに、明らか威張ってるということは、つまり私が「言いたいこと」と「書いてる」ことが矛盾してるのだ。


 なぜその矛盾が生じるのか、説明したい。


以下、


「世間で言われる子供」  → A

「世間で言われる大人」  → B

「子供」            → C

「大人」            → D


とする。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


余談だが、


私の高校はバカ校だった。だから、数学は数1、数A、数2しかやってないし、大学でも文系だ。


それで、バカ校の中でも最低学力レベルだった私も、数学だけ校内トップだった(笑)


矛盾している…。


目!これを上の矛盾の説明にしたいわけではないよー!笑



私がこの4行の余談で「何が言いたい」かは、想像にまかせます。


・・・・・・

・・・・・・

「言語は数学」である。


この意味は難解であると思う。


例えば、これから私は、子供とか大人という言葉を使って私は、「矛盾ではない」ということを証明をしようとしてるのも、何かしら数学ちっくな感じがしないだろうか。


!(何かにひらめいてしばし考えた)



6日17:30(15:30からここまではいっきに書いた。2時間もかかってるのだ。笑 それだけいろいろ頭をめぐらしながら書いている)←ちなみにこの()内の部分は17:47に記載した。

やっぱりこの説明はとても長くなると思ったので、後日にしたい。

余談はこれまで


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


6日17:48

(さて、いろいろあちこちいろんな方向へ考えが飛び交いし、ようやくいまからブログの続きを書こうとしている。

みなさんに気をつけてもらいたいのは、このブログを読むときに、流し読みはやめたほうがよいという事だ。なぜなら、・・・・・・・・・・・←これ、時々出てくる記号であるが、私はみなさんの頭を切り替えてほしいがために、この記号を書いている。その意味は、一見すれば普通の文章だ、しかし、しっかり考えながら読めばいろんなことに気づく。

 たとえば、「本の内容を要約してる文章」・「私がその本に対して思ったことを記した文章」「その本になぞらえて過去のことを回想し説明してる文章」・「私がその本に対して思ったことを記した文章のなかで、わかりずらい表現をした時に、その表現を説明してる文章」

など、さまざまな視点があげられる。

文章を理解するこつは、筆者の立場にたって読み進める方法が一番よい。だが今言った例だけでは、理解しがたいことが発生する。

それが時間・解説という概念だ。だから、それが伝わればさらに読みやすく臨場感あ触れるぶろぐとなるのだ。)


6日17:57(バイトへ行く)

7日1:13(バイトから帰宅、また書き始める)



さて、ABCDとあるがその関係から説明してみたい。

「世間で言われる子供」  → A

「世間で言われる大人」  → B

「子供」            → C

「大人」            → D



Aと呼ばれる人の中にはCとDしか存在しない。

  なぜなら、世間から見た目では、DなのかCなのか判別できる力がない確率が高い。

ここでいう世間とは、一般的大衆でありもっとも大きな集合である。ピラミッドであるなら、下らへんに位置する人たちである。世間から見た目では、世の中はAかBしか判別できない。


Bと呼ばれる人の中にはCとDしか存在しない

 これも同じこと。


・CはCである

 これはわかると思う。「Cと呼ばれる人たち」はいないからである。呼ぶのは大衆である。大衆はAかBかしか見えない。


・DはDである

 これも同じである。


 

・偽の世の中はAとBとCとDが存在する。

 


・真の世の中はCしか存在しない。


7日2:04

これが関係である。

(ん~、自分でも整理してみると前に書いた自分の文章がおかしくなってきた。笑 訂正していこう。みなさんもついてきてほしい。)


7日2:19

また訂正だ。


ほんとうにごめんなさい。

今書いてきた関係は偽がほとんだ、真は一つだ。


・真の世の中はCしか存在しない。

これだ、これが言いたい。

あー未熟だったー。


では、なぜ私でさえも上の関係でDという人を存在させてしまったのか。なぜなら、私もCだからだ。

それは、真の世界では人(=C)はそれぞれ自分のなかでABCDという存在を作るのだ。


そして、周りの人たちが言う大人と子供をAとBという定義で位置づけ、自分の中の思う大人と子供をCとDという定義で位置づける。


すなわち、自分から見た世界の中では、CとDしか存在しない。他者が発言して初めてAとBという存在に気づきその存在を自分の中で作る。


しかし、自分が


7日2:33

あ!また訂正!笑

というよりは、追加だ!


真の世の中には確かにCしか存在しない。しかし、Dが存在する場所があるのだ。

それが自分のが思ってる世の中だ。


すなわち、

真の世界とは今ある現実世界。

偽の世界とは自分が頭の中で考える現実世界。

だから、やはり

・偽の世の中はAとBとCとDが存在する。

 

・真の世の中はCしか存在しない。


これは真だ。


では、前にその上に書いた4つの関係はどう訂正するべきなのだろうか?

私はこの答えがわかる。

書けば時間の無駄であるので書かないが、要望があれば書きます。



7日2:40


私がこのあと何が言いたいかわかるだろうか…



そう!なぜ「良い威張り」と「悪い威張り」が存在するのかだ!

・・・・・・・・・・・・

(いやぁ~、思考の迷宮は恐ろしい。どんどん違う方向へいってしまう。今私が述べた話題は、哲学なのだろうか?私はいっさい哲学というものに触れたことがないのでわからないが、しかし、「ひらめき脳」の本にあることが書いてあった。


{人間はかつて住んでいた魂の故郷「イデア」を思い起こすのだ by学哲学者 プラトン}


これを読んだ時にはふーんと思っていたが、あとでよく考えたら、びびっとひらめいたのだ!

{あとで}はいつかというと、このブログを書く前だ。私は大人という定義を自分で考えながら、このブログを書いていた、私は書きながら考えてる。そして、今思ったのは今私が言っていたDという存在はイデアなのかもしれない。わからないが。わからないと私が言う理由は、イデアの定義をしらないからだ。私はプラトンの言葉から推測してイデアの定義を予想してあてはめただけだから。)

・・・・・・・・・・・・・

またそれた!笑

さて、よい威張りというものは簡単に言えば、相手に気づいてほしいから威張るのだ。

もし、私がこのブログの全文を「~かも。~だと俺は思うけど…。」などと言っていたら何の説得力もない!笑

そして、よい威張りを言う人は、自分の威張りを悪い威張りといわれてもかまわないと思っている。いつかきずいてくれると思ってるからだ。



悪い威張りは、相手を知ろうという姿勢もなく、自分の世界に浸ってることで自分に自信があり威張る。

悪い威張りをしている人は、自分の威張りを悪い威張りといわれることに対して、怒る。?


書いていてわからなくなってきた…しょぼんしょぼん



もういいここで終わりー!


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


とりえあえず私がこのブログで言いたいことは


社会人になる前に、いっぱいいっぱい考えて、学んで、悩んで、自分の中で大きな大きな世界観を作っておくことが大切なのかな、と思った。

そうすれば

社会人となって、その会社独自の文化を押し付けられ、その世界観が自分に中で形成されてしまっても、自分の中にそれよりもっとおおきな世界観をすれば、「A」にならなくてすむのかな


社会人と学生の圧倒的な違いは「自分の時間」を持つ時間だ。

学生はいっぱいある。


7日3:20~3:35(食事タイム。笑 そんなことまで書かなくてもって感じだね。)


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


バイトからかえってきて見つけた記事におもしろいものがあった

「ブログスカウター」

http://www.venturenow.jp/news/2007/07/06/2250_014851.html


俺のブログは世間一般的な評価はいくつだろうか?笑




さてこのブログのタイトルをつけた時間は








3:59 7日 だ。


なにもそっち系に走ろうとしてるわけではないです。


ただ今日実は、中学からのつれが初舞台をやることになって、見に行ったわけです音譜

小さなできたての劇団で、その舞台会場もとても小さく70人くらいの会場だったのかな


あんな小さな舞台はじめてでした。だから、最初は期待とかおもしろそうとか、そういう目的で行ったのではなく、ただ友人の初めての舞台演技を見たかったからでした。


しかし、舞台中、私は感動がいくどとなくおとづれ、涙が結構こぼれました(笑)よく渋谷にいそうな若者の格好をした人(俺)が、あんな小さな舞台を見て、しかも涙を流している。まわりどうそれを思ったのかなんてどうでもいいです


ようは、いかに小さな舞台であっても物語のなかに入り込み、感動できた自分は、とても成長したなと感じました。


「男は涙を流してはいけない。」これは、ただの偏見だろうと思う。人は生まれた感情は素直にだしていいと思う、隠さなければいけない感情もあるが、「感動」という感情は出すことが必要なのかもしれない。


もちろん、俺も情けない泣き方をするのは嫌いだ(笑)よく言うめそめそとか

でも、男も何もこえを出さず涙を流すくらいはいいのかなと最近思ってきた



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


長くなりましたが、本題です。


なぜ、これほどまでに私が感動したか。


それは、人間の「弱さ」と「強さ」を、演劇という表現方法で素直に表していたことだ。

下手なハリウッド映画よりも何倍もよかった。

あの演劇は一つ一つの会話を本当に理解しないとこの感動はおとづれない、一般客からみれば、繰り広げられる会話は当り前のことで簡単な反面、その真意をつかむことは非常に難解であるのかもしれない。

なぜなら、「真に強い人間」をまず理解していないといけないところもあるから。

よくできた脚本だ。


だから、会場で涙を流していた人がごく限られていた理由はそれなのかもしれない。



あらすじはともかく、以下が例である。

(例であるといっても途中「死」に関する表現があるが、わかってほしい。「死」とは人間にとってもっとも恐ろしいものだ。現代のほとんどの人間は死を恐れるだろう。

しかし、たとえば戦国時代の武将・武士たちを思い浮かべてほしい。彼らは国のため、殿様のため「死」をも恐れなかった。その真意とは何なのか。それが、この舞台のテーマの一つでもある。全く物語の種類は違うが共通するのは人間についてである。)



集中して読んでほしい。決して軽くこの例を書いているのではない。言葉は少ないがその奥には膨大な情報量をつめこんだつもりだ。推測もしてほしい




・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



  

  

  Aさんは、Bさんに対して次のようなことを言った。


A「私はBさんを信頼しています

 

    (Aさん自身はこれを心の底から言ったとする)


  言われたBさんは本当に信頼されているのか考えていた。


    (このAさんとBさんは昔からの知り合いであるとする。)


B「私もAさんを信頼している。いろいろあなたに世話になった。あなたは優しく強い。」


  そして最近AさんBさんは、Cさんという人物に知り合った。いろいろ話した。


Cさんがある時言った。


C「私はBさんの弱さがみえます。

   実は、 私はあなたの裏を知っている。あなたは権力をつかって人をあやめようとする。貧しい人から無理やり金をまきあげ、さらに逆らったものに対してひどい拷問を与える。あなたはほんとうに悪だ。何万という人があなたの指示によって命を奪われた。あなたは真の力がないゆえに、すべては他人に責任を預けて、すべてから逃れてきた。そうすることが正義だと言い張って。しかし、あなたの本当の姿はもっと美しいはず、昔はもっと優しかった。私はあなたの輝きをとりもどしたい。あなたは今邪神にとりつかれているだけだ」


  Bさんは怒りくるった。


B「何を言う!私は正義だ!邪神などではない。おまえは私のなにを知っている。逆らうのなら殺すまでだ!」


  BさんはCさん対して刃物をかざした。そして、おそいかかり一撃で胸を刺した。Cさんは何も抵抗することなく倒れた。

  (Bさんは胸に違和感を覚え、心の中で何かに気づいた)



  Aさんは、Bさんの怒りくるった一面、裏での悪事は知らなかった。


B「次はお前だ!覚悟しろ!私は邪神なのではない!」


  BさんはAさんに襲いかかった。Aさんは一度攻撃をかわし、Bさんに言い放った


A「Bさん!あなたは邪神なんかじゃない!本当の正義とはなんですか?人の命はとても測りきれない大きな大きな大切なもの。ひとつでもそれを失うことがあれば、悲しみの量もはかりしれない・・・。それをあなたは理解しているはず。一人殺すたび、あなたの瞳は悲しみでいっぱいだ。私はあなたを信じています・・・」



  Bさんは言葉を失った。涙が止まらなかった。本当に・・・止まらなかった。





  



  Cさんが立ち上がった。





C「邪神。」






  その言葉はAさんに向けられていた。


  その言葉を聞いてBさんはさらに涙が止まらなった。





B「私は・・・私は・・・、Aを信じていたのに。

       やはりあなたは私を信頼していなかったのですね。

 Cさん許してくれ。信頼とは死をもおそれぬ強固なものだったのか・・・」





・・・・




  


Cさんがまた言った。


 

C「Bさん。あなたもまだ邪神がいる。早く眼をさましてほしい」



B「何をいう!?私はもうあなたの言いたいことはわかった!邪神ではない!」



C「では、なぜAさんを信頼しないんだ!」



B「Aさんは私の攻撃をかわした!つまり私を信頼していないことは確かだ!」



C「そこが弱さだ!まだきづかないのか!」



B「うるさい!そうさ私は弱い!でも邪神という言い方はやめろ!!!!」


怒りくるったBさんはCさんにとどめをさした。Cさんは息絶えた。




B「なぜ、抵抗しなかった・・・・。」



Aさんが言った。



A「知り合った時Cさんが言っていた。


            私はBさんを信頼していると。」





英雄神はまいおりた。




・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



長くなってしまった。

みなさん御理解いただけたでしょうか。


とても困惑したと思う。


このもっと複雑となった形を演劇であらわされていた。だから私は感動できた。




人を信頼しないこととは。それがたとえちいさなことであっても。それが邪神であるのだ。

やがてその不信は、人々の争いを招く。それが邪神の姿だ。




Cさんが最後に言った言葉が物語の最大のテーマともいえる


 「そこが弱さだ!まだきづかないのか!」


そことは。

それは私が言うべきでない。

気付かなければならないのだ。


では強さとは何なのか。

気になったかたはコメントをのこしてください。今回はこれ以上書くと長くなるのでおいておきます


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



私は、本当にこの脚本はすばらしいと思う。

私は将来莫大な資産をてにするかもしれない、もしそうなればこの物語をハリウッド映画級に作り直し、すべての人に見せることを願うだろう。



あといちよう、別に頼まれたわけでもないしその友人に宣伝してと言われたわけでもないが、その劇について気になったかたもおられるだろう。

その劇の名は "spread your wing "

                  劇団 海賊ハイジャックhttp://www.kyjack.com/

今回はmk さんという人が書いているブログをみていろいろ考えてみました。

足跡を3回も残してくださったので、がんばりたいと思います。



しかし、トラバという機能を利用しているので、もしかしたらこのブログをmkさんの読者の方たちが読む可能性もあるので、少し注意事項ですが、

これはただの一人よがりのブログなので、「こんな考え方をしている人もいるんだな」という程度で流してくださいね。


決してメディアというものに主観から入ってはいけないです、客観的にみれば流されることはありません。




・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


さて、結局私がこの文章を書いて何を言いたいのかというと、

「この人のブログを読むことはプラスである」ということを言いたいだけであって、ひとつひとつの言葉に惑わされないでください




私はこの人のこの日(2007-06-29 )のブログを見ただけなんですが、少し疑問がわきました。

それは、上司との会話をすべて覚えて、それを文章化しているのです。


まず、この点から考えをふくらませていきましょう。

そうすると、2つくらい考えられます。


ひとつ目は、とてもすぐれた暗記能力か、もしくは考える力を持っている人。

ふたつ目は、すべては物語であり登場人物ともすべて一人の作者(そのブログの)が書いている。


ひとつ目は容易に想像がつきます。

たとえば、人から何かしらアドバイスをされて、そのアドバイスを理解しました。

しかし、理解出来たからこそ当然それが頭に残り、記憶定着が増しますが、会話をすべて覚えているだろうか。

だから非常に暗記力があると思ったわけです。

でも、もしかしたら、あのブログは、上司の言いたいことを把握しただけのmkさんが、会話は自分で作って相手にわかりやすく解説してるだけかもしれません。

わかりやすく、会話形式で解説するのは結構頭をつかう作業です。だから、考える力があると判断したわけです。



そして、もっと可能性的にありえるのが、一人の作者がいて、すべての役をこなし、物語ふうに書いてるということです。

そうすれば、会話もらくらく成立していけるし、たぶん実際会社にあのような関係にいて、こうゆうふうに書けば読者にわかりやすいかなというふうに、すべてフィクションというの確率は低いかもしれません。


その場合はあの作者は実際書かれている上司よりも思考はすぐれていることでしょう。


あのように、会話のあとに、しっかりとした解説をいれれる点も納得いきますし。


ためになるブログです。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


だから何だー?


と思われたかもしれませんが、別に何もないです。

ただ私は考えることが好きなのでそれを自分のブログで表現するというのが私のブログの趣旨です。


しかし、実際私は人からあのような長い会話のアドバイスをされたことがないので、わからないですが、

別に一人の作者がどうとか関係なく、あのブログとおりの人物が存在し、すべてノンフィクションという可能性も十分あります。


ようは、あらゆる可能性を推測することが、頭の体操になるので、こうゆうのが好きなだけです。


(この言葉は惑わされやすいですね、たぶんここらを読んだ人の中で「こいつ、ただ知識をさらすことを遠まわしに言って、自己満足してんじゃねーの?」と、私に対して思われた方も多いはず。主観的にかかってはいけないです。第三者になってよく考えてみてみるとそのような考え方にはならないはずです)



でも、結局あのブログが言いたいことは「人道」に近い感じであるので、倫理性などを理解するのにプラスであります。


MKさん、足跡ありがとうございました。




・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



ここで少し余談ですが


私はブログの場所をアメブロにしたのは間違いだったのかもしれないと時々思います。

なぜなら、やはりランキングがある以上どうしても気にしてしまうのが人間です。

そして、気になりすぎて、自分のため、人のために書くことを目的にしていたのに、いつの間にかランキングを上げるためだけに没頭するという事態も、0とは言えないです。


しかし、ランキングが上がる=人から指示されているということ=人のために書いてることになる


といことも確かです。

しかし、そうキレイにいかないことが多いのが世のなかともいえます。

実際、わけのわからないブログが上位ランクされていることがありますが、あれはランキングが上がるためにはどうすれば効率的かということを一番わかってる人が裏工作してランキングを故意にあげているからです。

googleが登場する前の検索エンジンも同じことが言えました。


ここで切るつもりでしたが、勘違いをまねかないために、記しておきますが、

mkさんの日記はとてもためになるので、しっかり民主主義の結果のランキング結果といえます。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



さて、批評というものは悪口ととらえられがちですが、「悪口」というものは非常にやっかなものです。

言ったところで何も得をしないし、変わらない、人を傷つける、  やっかいです。


これについては

また後日書きたいと思います。



チョキ


 

今日からフリージャーナリスト宣言です!えっ

 

たぶん?

 

 

さて、俺の今までの知識と経験からこのテーマを推測してみたいと思う。

 

 

それが正しい正しくないは、おれが判断することではない。

メディア、情報伝達、それに惑わされることが必要なのか、必要でないのか、

 

考えてるうちに話題がずれそうなので本題でに集中したいと思います。

 

 

 

脳に限界はない、それを生かせるかはその人の鍛え方しだいだ、と「感動する脳」という本に書いてあった。

 

 

 

これはいわゆる才能なんてものは存在しない、ということだろうか。

 

 

確かに、それもいえるかもしれない。なぜなら、人はおかれた環境によって自分の能力が決められることは確かだからだ。

 

これはどういうことかというと、

 

例1 (知識面): 小さい頃にPCを買い与えられ、興味を示すようになったそしてその魅力にとりつかれ多彩なプログラミング技術を身につけていく。20になったころには、もうPCスキルは頂点に達し、超有望エンジニアとして活躍できるだろう。

 

これは、小さなころにPCを買ってもらうという環境がなければ不可能であった。

 

例2 (思考面):集団の中で何かしら(たとえば)リーダーという立場にさせられ、リーダーという立場は実に頭を使う。人員管理、人を動かす、など。それにより脳は普段の何倍もの思考をすることを課せられ、思考力が増す。しかし、それは「頭を使う」という立場にさせられたがゆえに身に付いたものであり、ようするに環境だ。

 

たぶん、これはなってみないとわからないのだが、思考力が身に付くと明らかに周りの人たちがいかに考えて行動していないかが見えてくる。

 

 

したがって、おかれた環境で人は脳の能力をいかせるかいかせないかが決まるということで、

 

 

人に才能なんてものは存在しないという説は成立するのだろう。たぶん。

 

 

しかし、例をみて少し違和感を感じたところはないだろうか。

 

 

考えてほしい。

 

 

 

 

例1に関して、PCを与えられたのはわかるが、なぜ興味を示したのだろう

 

 

 

 

(PCという一項目は単なる例である、これは別に 筆 絵の具 磁石 などでもよい。アインシュタインは小さなころに磁石を与えられそれに興味を示したのがすべての始まりだ)

 

最大の謎である。たぶん、何も知らないものに対して興味を示すには何かしら外部から魅力を与えられなければならないし、それを言ったところで、それを理解する頭がなければ無理だ。

 

それはやはりもっと小さい頃に、外部からそれなりの頭になるように刺激をあたえられていたのだろうか。

でも、そのような事柄がすべて成り立たなければ「才能」という言葉を当てはめるしかない

 

例2に関しても同様のことが言える。

 

その頭をつかう環境におかれたのはイイが、おかれたところで頭が鍛えられ成長しなければ意味がない。おかれたとしても、まったく成長しない人もいるだろう。

それはやはり成長できる質のある脳を持った人に限られる。その人は「才能」を持った人か?

 

成長できるだけの質のある脳というのは、今までの何かの外部からの刺激によって形成されたのか、もしくは生まれながらのものなのか。

 

 

前者であれば、それもまた環境だろう

 

環境が天才を生むのか

 

 

わからない。

 

 

 

 

なぜアインシュタインは磁石に興味を示したのだろう。

 

 

 

 

俺なりの結論は今はだせない。

 

 

なぜなら知識がたりない。これ以上思考をひろめても推測の内容がうすくなるだけだ。もっと世界の天才の例をみてみないと検証できない。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

余談だが、俺は実は最近まで馬鹿だった。バカと言っても有名大学の一員ではあったが、自分は馬鹿だと自覚していた。なぜなら、知識をためようとしなかったのだ。だから、何も知らなかったからバカだと思っていた。

 

しかし、ゼミ代表という立場におかれ、頭をよく使うようになった。

それを期に、俺の頭が激変した。というよりも、自分の視野・考え方が今までの何百倍と広がった

そして俺が今までどんな小さな視野で生活し、どんだけ無知識かということを痛感させられ、それ以来、知らないことに対しては何にでも興味を持つようになり、なるべく吸収しようと努力し、当り前のことにも疑問をなげかれられるほど注意力もついた。誰に対しても納得をさせることが出来る交渉力もついた。

このようなことが起こった原因は、はたしておかれた環境のせいであろうか、それともそれだけ変われるだけの脳をもっていたということなのだろうか。

 

それとも、すべては一人よがりの妄想か。

 

わからない。

 

うちの父と祖父はとても物知りだ。特に祖父においては、「彫刻家」であり木で竜を彫ったりするし、「建築家」であり一人で家を建てたし、「知の巨人」であり科学や歴史・政治に詳しい。

 

異常である。

父もそれに顔負けにいろいろ芸を持っている。

 

ちょっと聞いてみよう、このテーマについて。

 

必ず参考になるだろう。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

 

今回はジャーナルとしてイイ形ではないが許してほしい。

 

 

まだ私は成長段階である、まだまだ未熟なのだ。

しかし、毎日急激に成長している、

 

これからのジャーナルに期待してほしいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

これまた、へんなインテリやろうが言いそうなタイトルだ(汗)



みなさんは運命の出会いと聞いて何を思い浮かべますか?

道の角でぶつかって、手が触れて、「あっ」 みたいな



それも一つの運命の出会いだろう。


でも、おれはもっと身近にそれは存在するのだと思う。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


みなさんは自分をしっかり持っていますか?今ふるまってる自分が本当に素の自分ですか?

なにかしら、軸はずれて周りに合わせることが自分だとおもっていないだろうか。


軸はしっかりしていても、偽りの自分を演じてはいないだろうか。


それでは、運命の出会いはいつまでもたっても現れないかもしれない。



しっかり自分をもって、どんなに他人から何あを言われようとも、それに惑わされず、自分の道を突き進めるようにならなければならない。


そうなるためには、教養と考える力が必要だ。

自分が今までためた経験知識情報をふんだんに使って自己を形成しなければならない。

それをふんだんに使うには考える力が必要であるが、それは訓練すればしっかりと身についてくる。


まず、今自分のまわりの環境、見たもの、聞いたことに対して疑問をもたなければならない、そしてその疑問を解決するために考えるのだ。それについて知識がないこともあるだろう、でも、知識がなければ推測するのだ、

できるだけ思考の奥深くまで考えられるように。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

たとえば、


当り前の存在である「本」。

これに疑問をつけてみる。


なぜ四角い?


持ちやすいから?


(ここで思考をやめてはいけない、もっと考えよう)


いや、四角いと一番字数が入るからだ。


(じゃあ、四角くない本はなぜ存在する?)


それは、見た目に重きをおいていて、子供むけの商品戦略だろう


(なるほど、ほかにもっと何か意味があるはず・・・)



というふうに自分の中でもう一人の自分を作り、自問自答を繰り返し、より明解な答えにしていく。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ちなみに、このように二つの存在を作って、そいつらがひとつの意見の矛盾をついて行く対話手法を「ソクラテスの対話」という。たぶん


もちろんおれだってなんで本が四角いなんてしらない。ただ推測してみただけだ。

だが、無知識でその推測がどれだけできるかが思考力をつける上で重要である。内容はなんでもいいのだ。


俺はこれから、あらゆる本、芸術の作品を感じてはこのブログに記すだろう。その意味は、その作品についてどれだけのことを感じ考えられたか自分でも目安になるし、みなさんも何かしらの参考になるだろう。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


だいぶずれたが、ようは自分をしっかりもつことだ。

そして、今地球は自分が中心で回っているというぐらいまで自信を持てたらとてもよいだろう


そうするとどうなるか、


自分の行動中心に物事を考えることが可能になり、それゆえある目標にむかって自分が行動をとった際に必然に発生した出会いがまさに、運命の出会いだと俺は思う。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・

たとえば、

電車にのる際に間に合いそうないので走ってその電車に乗るか、もしくはもう歩いて次の電車にのる。


みなさんは、どっちをとりますか、

たいがいは、走って間に合わせようとするだろう、この5メートルを少しだけ走れば間に合うというときなどは特に。


でも、そんなことをする必要はない。

電車を一本遅らせただけで、もしかすれば思わぬプラスの出来事に出合うかもしれない、


一本遅らせれば、大変だという状況のときでさえも、短期的にはマイナスでも、長期的にはすごいプラスだったりすることもある。



ようは、運命というものは自分で選択していくもので、そしてその選択で自分の人生は大きくかわっていく。



会議がどうとか、授業がどうとか、そんな小さなことにこだわって先が見えていないのではないだろうか、

ひとつ電車を遅らせることで、もっと人生を大きく変えてくれる、もしくは長期でみれば都合のよいことが起こるかもしれない、それならば決してその選択で間違ってはいないのだ。


きっと、そんな考え方ができれば毎日わくわくしてすごせるだろう。




何か今まで選択に失敗したー!と思われたことはないだろうか?しかし結局それが後になってやっぱりそれを選んでてよかったなんて思ったりしたことはないだろうか。

それが運命である。


決して自分は間違っていなかった、

自分を信じることが大切である。


・・・・・・・・・・・・・・・・


そして、自分が今、ある目標に向かって、ある道を歩いているとする、決して誘惑に負けず、ただ前だけを見て迷うことなくつき進んでいる、

しかし前だけみていても、人間は支えあって生きている動物なので、必然的にいろんな人物が自分とかかわってくるだろう、そのかかわってくるすべての人間が運命の人だ。



すべては自分中心で考えよう。

でも決して忘れてはいけないのは、相手を思いやる気持ちだ。それは、世間一般で言われるジコチュウとはまったく別物であるこたしっかりわかってもらいたい。



以上



んー。

今回はなんかうまくまとまらなっかた。あせるショック!





いよいよこの本の第3・4章を読んでしまった。



一冊読んでから感想を書くというスタイルでいこうと思っていたが、中身がこいので、感じることが多すぎた。

ぜひともみんなにもこの本 をよんでもらいたいところではある。

人生を豊かに送りたいのであるなら


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・





「私は砂浜で遊んでいる子供のようなものである。私は時々美しい貝殻をみつけて喜んではいるけれど、

真理の大海は私の前に未だ探検されることなく広がっている。」

by アイザック・ニュートン



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


この言葉を聞いて本当にニュートンが言いたいことを把握した人はいるだろうか、

もしくはこのあとの俺の解説によってとても共感した人はいるだろうか

いたら何かしらメッセージを送ってほしいと思ったりする。


実際このことを理解し、理解するだけでなく、感覚として理解できる人は10000人に一人ぐらいなのかもしれない。

そんな人と一度話をしてみたい。

更なる自分の成長につなげたい、きっとそんな人と話ができれば刺激をうけることは間違いないだろう。

それは俺自身、経験としてしっているから。

ブログを書く目的の一つにそーいう人脈をつくっておきたいというのもある。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


さて、少し本題とずれてしまったが、

このニュートンの意味することは、


自分が発見し体験し経験したことなど、この世界の万物に比べればほんの小さなことである、

この世界には未知なことは無数に存在するということだ


そしてこの本が何を言いたいかは


その未知を一つひとつ追い求め、知るたびに感動が生まれることを知らなければならない。

その感動こそが人生を変える始まりでもある


人生を変えることは全く大変ではない、別に今までやってきたことを捨てることではなく、それをもとにもっと大きな視野のある世界に飛びあがることである。


その感動をまだ知らない人は、視野の広がりによってどれだけ自分の感じる世界感がかわるかを身をもって知らなければならないのかもしれない。



そうなるためには、


教養  と  言葉」 


が密接にかかわる。



実は、感動を追い求めようとする意欲(自分のまだ知らないものを知ろうとする気持ち)というものは、意欲である。


その「意欲」そのものを生み出すのが、「教養」なのである。



どうゆうことか。


それは、基礎となる知識をためることで、ある程度のこの世界がわかる。

(日本史を学べば、日本がどのように成長してきたかとか、国語を学べば、文学の奥深さがどのようであるかとか)


この世界がわかって初めて、それに対して意欲的に知ろうという意識が芽生えるのだ。

なにもしらなければ何かを知ろうとは思わない。


それが「教養」である。



次に「言葉」



人は言葉があるから考えることができるのである。

考えるときのことを想像してみてほしい、見事に言葉をつかって考えているのだ。


そして、この考える力が強くなればなるほど、いわゆる頭がいいやつである。

考えられるちからを持てば、今相手がどのようなことを思っているのかを、ある程度推測することが可能である。


そうすると、決して「自分ではそう思っていなくても相手に害を与えるようなこと」を言わなくなる、そしてどんな人間とでもうまくやっていけるのだ。



これは世の中でいわれる八方美人とは少し別ものかもしれない

なぜなら、たとえ人づきあいが得意でも陰では悩んでるかもしれない、いやなことをされたけど反抗できないから我慢している、などである。


しかし、考える力をもつ人はその嫌なことをされたときに、どう対処すればいいのか考えるのだ、相手の立場になって。

そして相手を良い方向にかえてやる力を持っている。



なぜそれがいいきれるかというと、実体験だからだ。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


今俺はゼミの代表をやっている。

ゼミの代表をやっていてすごく思うのは、なんてみんな人づきあいが下手なんだって思う。

知識はすごく、考えるちからもそこそこであるのに人づきあいが苦手なのだ。


それはたぶん相手の立場にたってかんがえることがまだ甘いのだ。


今の俺のゼミでのポジションはたぶん「カウンセラー」だろう


ゼミの各グループの人たちは、ゼミ員をどうやったら意欲的に参加させられるか悩んでいて、おれにすぐに相談にくる。


たぶん、俺は他人にプラスの影響を与えることができているんじゃないかな


他人を思うことで自分の成長につながることも知っているので、なおさら相談を受けつけてしまう。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



ずれてしまったが、


そこが「言葉」の重要なぶぶんである。



そう。

その「言葉と教養」をもってすれば、大きく視野が広がり、自分がいかに無知であるかを知るだろう。


そして、これからの人生の一生を子供でいることができる。

すなわち、なんであっても未知を感動し楽しみ、創造性をかきたてることができるようになるのである。

芸術家はそれが多い



・脳には限界がない、年をっとても

・同じものでも、時間が違えば2度と同じものなどこの世には存在しない。

・共感カイロ



あー、書くことがいっぱいありすぎる

ぜひ読んでほしい


時間がないので、3・4章のしめだが、



ドイツの文豪ゲーテが示した 「変わる」 とは


水成論と火成論



ゆっくりとした変化と急激な変化



感動による人生の変化はその両者であり、

感動によって人生を変えることができた人は

これからの人生いままでの100倍たのしむことができる



人は世間一般で言われる「大人」になっては絶対いけない。


それは、自分のなかで今まで貯めた知識や経験をもとに

ある程度世界を作ってしまって、もうほとんど知ってることだろうとか、興味がない、とかいうつまらない人間だ。





そんなつまらない人間よりも、毎日が新鮮で楽しい生活のほうがよっぽどいいくない?音譜ニコニコ






きっと将来なにかが起きてまずしい生活になったとしても、そんな生活がおくれたら素敵だと思うクラッカー








なんて難しいタイトル。ちょーうざい



またいろいろと人から話を聞いて思ったことを書いてみる。



昨日うちのゼミ主催で、日銀の人が講演会をやってくれた。(日銀とは日本銀行のこと)(日本銀行とは、日本の紙幣量を調節しているところで、銀行の上に君臨してる中央的な存在のこと)

日銀と言えば、東大閥で有名なのかな、(東京大学のやつらでいっぱいということ)



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


座談だが、


うちのゼミの先生は以外とすごい人だ、プリンストン大学で学びあのベン・バーナンキ 氏に教わっていたのだ。

ベン・バーナンキといえば、前にブッシュ大統領がFRB議長として指名した人物である。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



まぁ、その日銀の人の話を聞いていろいろ思った。



この世の中は、情報(勉強した知識もそのうちの大きなひとつ)をもっていなければ大損をする。

ということである。


今の若者はそれに気付かなければならない。




前にも述べた、世の中はピラミッドという話を覚えているだろう、

そう、ピラミッドの下にいる圧倒的な多数は情報をもっていないやつらである、


上にいるやつらは、しっかり勉強して、情報を得る方法を知っているので、その情報量の格差を利用して下にいるバカたちから金を巻き上げるのだ。


この情報の格差が「情報の非対称性」である



もっと簡単に言えば


A君は消しゴムを100円で買った。そして、A君はその消しゴムを「イイ消しゴムだから」と言ってB君に600円で売り付けた。

B君は「その消しゴムが100円」という情報を知らないことをいいことに実際の値段の6倍の値段で売り付けたのだ。



A君って悪いでしょ?世の中でいう違法でしょ?



でも、現実、全く違法ではないのです。



なぜか。


簡単にいえば世の中はもっと複雑だからです。



詳しく説明すると、

実際にA君も「その消しゴムが本当に100円で妥当な値段なのか」ということを調べなければならないのだ。


この調べる作業が今の現実、難しくめんどくさい世界なのだ。

だが、できるかできないかは損をするかしないかの大きな別れ目。



A君は勉強して、がんばって消しゴムの情報を調べあげたのだ。その頑張った分を6倍という付加価値として、消しゴムに与え、商売を行ってもいいわけだ。



みなさんも意外なところでこの商売の被害者になってるかもしれません。

案外、身近です。




その商売とは、  「金融」    です。


みなさんは金融と聞いてなにを思い浮かべるでしょうか。


金融とは、日本のお金の流れをささえている部分です。銀行、証券、融資、投資、企業の資金調達などなど



その全部がその商売をしてるとは言いません。



しかし、お金がほしい人と、お金を貸したい人、の仲介となす金融はそんな商売のうえになりたっているのです。



全く違法ではありません。

だって、勉強しないあなたたちが悪いんでしょ?

私たちはがんばって勉強したんです、そのくらい払ってもらて当然。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


まぁ、こんな感じですね、、、

そーゆー世の中なんですね。


僕のゼミは金融ゼミです。

だから、やろうと思えばやれるし、お金を稼ごうと思ったら好きなだけ稼げるだろう。忙しいだろうけど



でも、性に合わない。


俺は、金稼ぎするために就職するわけではないし、社会貢献・よりよい世界形成を最終目標としてる(なんてのんきな俺。笑)、

先日の日記に書いたことだが、ここが頭のいいやつの「悪・善」の分かれ目なのだ。


金稼ぎに走るか、金稼ぎはただただの目標達成のための手段とするかである。









俺は、後者だ。











color



さっきの本をよんでいてなんとなく、いてもたってもいられなくなってきたので、とりあえず、

ウィンドウズの付属していた「ペイント」というアプリケーションをつかって書いてみた。



ワコムのペンタブレットをせっかく買ったのに中についてたCorel Painter Essentials2 というソフトはビスタに対応していないかった叫び


ショック!!!ハートブレイク


まぁいいや。

「ペイント」でも少し楽しめそうだし、いいんだいいんだ  うんうん


さっき、「感動する脳」 茂木健一郎さんの本の第1・2章を読んだ


なぐり書きしてみる。




「感動することをやめた人は生きていないのと同じことである」 by アインシュタイン

なぜ彼はこのようなことを言ったのか。


それは、脳の発達は人間の感動に大きくかかわっているからだ。


人は大人になればなるほど、感動する機会がどんどん減っていく、そして自分が今生きている世界を自分で作ってしまって

それ以上の成長をのぞまなくなってしまのだ。


それではだめだ。


人生には不確実性が存在する。


人は、「自分が知らないことはまだまだいっぱいある 」 ということを常に自覚して生きていかなければ

ならない。



それには、「意欲」 というものが必要なのであなる。



人は意欲なくして成長はない。


まだまだ自分の知らない未体験ゾーンを探して追い求め、感動を追い求めなければならない、


創造性はそのようにして形成されていく。


創造性とは、何かを0から生み出す というイメージをもたれがちであるが、そうではない。

0からは何も生まれない。0とは、極端いえば、何もない、自分もいない、大地もない、そんな世界だ。



今まで、創造・芸術の天才といわれてきた人たちでも、何かしらの経験知識をもとに新たなものを生み出してきた。



いかに意欲を持ち、ただ当り前のことでも感動を覚え、常にまえにつきすすんでいくことが、素晴らしい遺産を残すことにつながる。


それは、就職してからもそうであるし、芸術活動でも、何かの素晴らしい結果を残すことにつながるということである。




人間の脳において重要な部分は大脳皮質であるらしい。


いままで貯めた知識や経験を整理し、さまざまな意味や価値にへんかんされていく部分が、大脳皮質の側頭葉というぶぶんである。


そして、側頭葉でいくら整理され変換された情報をためていても意味がありません。



だから、創造性においてもっとも重要な部分であるのは「前頭葉」です。


この前頭葉が側頭葉にたまったものを活用して、新たなものを生み出すのです。



そして、この前頭葉の動力となるのが、「意欲」です。

知らないものに向って突き進んでいこうとする意欲です。



人はいつまでたっても子供であるべきです。


今までの経験だけで、自分の中で「自分の周り世界」をつくってしまってはいけない。

世の中には、もっと素晴らしい事が沢山あるのだ。





とりあえず


また明日ほんの続きを読んでみよっとニコニコニコニコ







なぐり書きしてみる。


今日ある学生主催の日本の政策提言団体うちのひとつのイベントに行ってきた。


いろんな人たちと話して気づいたことがある。


                         


世の中の構造のほとんどはピラミッド型である。



そのピラミッドに組み込まれる内容は、様々で「お金の持つ度合」、「思考レベル」などである。


下の大きい土台に行くほど、前者であれば「貧窮世帯」、後者であれば「無知識、無思考」となる。


ようは、世の中には金持ちより貧乏人が多く、頭が良い人より悪い人のほうが圧倒的に多い、となります。



頭がいいやつっていうのは、ただ知識ばっかを詰め込んだ頭のかたいやつのことを言ってるのではない。

柔軟に考えられる度合、物事を本質的に考える度合が高い人達のことを言ってる。


ここでおもしろいのは、思考レベルピラミッドの場合、上にいる人たちは、下のいる人たちの考えていることがある程度わかってしまう。しかし、下にいてる人たちは上にいる人たちの言ってることがほとんどわからない。


なぜなら、上にいる人たちは、あらゆることを考えたうえで、ひとつの結論をだすから、下にいる人たちは

どのような意図をもってその結論に至ったのかわからない、なぜなら考える力がないから。




しかし、それが高ければ、ある一定のラインでそいつらは天使と悪魔のように分けられる(笑)かもしれない。 たとえがキモス!


「金もうけを最終目標とするやつ」と「世の中をよりよい方向に変えることを目標にする人」




                          

世の中は不平等である。


なぜなら、知識(勉強)がなければ、何もすることができない。(お金を稼ぐことも、豊かに暮らすことも)

その勉強さえもできない環境におかれている人たちであふれている。アフリカの難民の人たちもそれの一つである。



                          

柔軟な考え、物事を本質的に考えられる力を持つ人はとても限られてる。

そして、それはまれにみる才能の一種なのかもしれない。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                         ④



①に関して考える力もなく知識だけを詰めん込んだやつは、金儲けに走るのかもしれない。


しかし、本当に考える力があるやつは、必然的に②のような、世の中の理不尽を感じ取ることができ、こんな世の中をかえなければならない、と思うことは間違いないかもしれない。


歌手なんかはそれの一種で、ただ有名になりたいがため、ただ金が儲けたいがために歌ってるやつらを除けば、

世の中の理不尽さを歌詞にのせて、多くの人々に伝えたいと思ってる人たちが多いだろう。


しかし、知識(勉強)をしていなければ、根本的かえる手段をみいだせないでいる。

それは、その人自身のせいではなく、その人のおかれた環境のせいだ。


環境が才能を押しつぶしている。


・・・・・・・・・・・・・・

                           ⑤

指名。

才能を持ってしまった人は、指名を果たさなければならない。

自分を犠牲にしなければならないのかもしれない、その犠牲で、何億もの人々を救えるのなら。


そして、{よい環境を与えられ、才能をもってしまった人}は、根本的に世界を効率的に変えられる方法をしっている。

           ↓

        以後「Aさん」とする


・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「ほとんどが嘘かもしれない。」


そーいうやつらは、ほとんどが嘘つきだ。

世の中で大切なもののうちの一つに「時間」がある。

考える力があるやつは、世の中を効率的に生きていこうとして、嘘をつきまくる。




たとえば、Aさんは学生であり勉強する環境はととのっている、親も裕福だ。

Aさんは、流れにまかせて会社という組織に入ってしまう前に、もっと勉強をしたいと思った。(世の中を変えたいとう気持ちが芽生えている)


Aさんは、その一番の方法はわざと留年をすることだと考えた。


まわりの友達は言うだろう、

「留年するなんてばかだな~」


Aさんは答える

「私ほんと馬鹿なんだよね、がんばろっと」


・・・・・・・・・・・・・



これがもう、たくさんの嘘のうちの一つだ。

なぜ、勉強がしたいからとAさんは言わなかったのか?


もう明らかである。

説明する時間がめちゃくちゃかかってしまうし、その前に一般人に対して「世の中を変えたい」なんて言ったら馬鹿に

されるにきまってるからである。




・・・・・・・・・・・・・・



みんなのまわりに、意味わからないことを言う人、とか、みんなと馴染んでるけど独特のオーラを持った人、はいないでしょうか



もしかしたら、そいつらは果てしないことを考え、世の中をうまく生活するために嘘をうきまくってるかもしれない



・・・・・・・・・・・・・・・・・・



今日Aさんに近い人物をたまたま偶然見つけてしまった。


身近にいたやつだった。

留年していた。

果てしないことを考えていた


俺も少し考えよう。 休学の道を


・・・・・・・・・・



お金は手段だ。

決してそれを最終もくひょうにしてはいけない。


よのなかはお金だ。


変えたければ、まずそれを手にして戦わなければならないという現実だ。



あくまでこれはAさんの指名である。



Aさんのおかげで何億の人が救われるかもしれない。




・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




こーゆー考え方はきもいんだろうか。


俺は自分自身、今ものすごいいきおいで視野が広くなっていってる。

だから、このような考え方はきもいのかもしれないと考えてしまう。


おれの過去は、つまんないやつらを馬鹿にして、おもしろいやつらだけとつるんで、きもいやつらを嘲笑ってた。


ただ楽しかったから。


本当に小さい人間だった。



だから「その時代の俺」からみると、今の自分の考えてることは、きもい。

だけど、間違ってはいない。



今のおれは過去の俺よりも大きい人間だ。

どんなやつらとでもつるめる、どんなやつらも受け入れることができる。



たとえ、悪意でむかってこらえても、俺は、我慢して善意で対応する



忍耐は運命を左右する。
─キャンベル
悪意に対応できるのは、悪意ではなく、善意のみである。
「マヌ法典」


天才はどのようなことを言われようと、自分の信じた道をつきすすむ。

自分を犠牲にはらってでも。



そして、世界は変わる。