ジャムを塗ったトーストの異常
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■浪人につきTwitter
更新がたいへん滞っておりますムニキです。ごめんなさい。
当方も浪人生らしくそこそこに忙しい毎日でありまして、更新をサボった次第です。というか、これからサボらせて頂かないとやばい次第です。まとまった文章を書く時間が中々ないんです。

というわけで当分、Twitterの方で書籍、漫画、映画に関するアレコレを呟きたいかと思います。
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crazy_jamtoastです。

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■本ブログ
ちなみに、このブログは閉鎖する訳ではありません。Twitterの方が一時的なものです。ここではまた,Twitterで呟き切れなかった事なんかを書いていこうかと思います。ただそれまでに少しお時間を頂くってことでお願いしますm(__)m

『終わりなき戦い』その2

■ホールドマンとバーホーベン
読み直して、感じたことがあります。この小説は全体を通して、非常にドラスティックな語り口なのです。戦争を扱うにしては冷静に過ぎるというか。
では、この冷めた語り口は誰に支配されているのか?
少し考えてみれば分かることですが、勿論それは作者。今回のキーワードは「作者の視座」でいきましょう。

作者、ジョー・ホールドマンはこの小説について、序文であることを述べています。『ヴェトナム戦争は、わたしが直接に知っている唯一の戦争である。だから、星間戦争の物語を書いていたわたしは、無意識のうちにもヴェトナム戦争のことを書き記していたというわけだろう。この作品は、作者の助けをかりずに、当初のゴールに到達していたというわけである。』
なるほど、
ここでひとつ思い付きました。
ポール・バーホーベン監督に登場願いましょう。
ブラックユーモアとエログロの権化たるこのバーホーベンは、ハインラインの『宇宙の戦士』を原作に、『スターシップ・トゥルーパーズ』という映画を撮っています。『宇宙の戦士』は割とストレートにアメリカ万歳\(^-^)/を絶叫しかけてしまっている作品なのですが、バーホーベンの手にかかれば、“ナチスっぽい第三帝国万歳の下で繰り広げられる筋肉バカ男たちの宴”に変わってしまっています。映画自体はとても真面目に撮られているのですが、それが逆にますます滑稽さを浮き彫りにする。バーホーベンは“真面目に映画を撮る”という行為をもって、ハインラインのアメリカ礼賛をけなし、帝国主義の引き起こす戦争に唾を吐きかけたわけです。

『スターシップ・トゥルーパーズ』の製作は1992年。ふた昔前にホールドマンが、同じことを考えていたのだとしたら?

そうすれば筋が通る様な気がします。戦争を中心に据えて推移する世界のチープさ。戦争に取り込まれた人間の感じる虚無感。この小説は全体を通して、作者の視座を浮かび上がらせているのではないでしょうか。
うん、この推論は悪くないような気がしますね。この推論でもって俯瞰するように読み返せば、より一層楽しめると思います。ホールドマンの皮肉な目付きがそこにも、ここにも、という風に。バーホーベンの映画を楽しむのと同じ感じですよ!

■というわけで
今回の紹介文はいかがだったでしようか? 少し長かったですね。みなさんが我慢?して読んでくれれば幸いです。小説を読んでみてピンとこないときは色々考えてみよう、って話でした。
ついでに、戦闘SFの秀作としては、伊藤計劃『虐殺器官』も大プッシュしときます。タイトルと裏腹に驚くほどスマートな小説です。こちらは戦争というより、人間の脳にまつわる話ですが……あー、『脳のなかの幽霊』についてはまたの機会をお待ち下さいごめんなさい。

次回もよろしく!
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『終わりなき戦い』その1

■本末転倒
久しぶりに本の話しますよー。
これ友達からめっちゃ不評なんですが、週に一度のネタパート(【イッセーまとめ速報】のことですよ!)を設けることと引き換えに続けさせてもらいます。だがなんと言おうとこっちが本編だかんな!(泣)

■今回ご紹介するのは、
【『終わりなき戦い』(ジョー・ホールドマン 訳:風見潤 ハヤカワ文庫SF】
ハインラインの『宇宙の戦士』と並び、戦争SFの傑作と呼ばれています。またSF界最高の賞であるヒューゴー、ネビュラ賞の両賞を受賞した、いわゆるダブル・クラウン。

■あらすじ
超光速航法を発見した人類は、その活動を宇宙へと広げた。だが謎の異星人に宇宙船を攻撃されたことに端を発し、トーランと呼ばれるこの異星人との戦争に突入していく。そんな中、エリート徴兵法により徴兵された主人公のウィリアム・マンデラは、苛酷な訓練を受け戦いに赴く。一つの戦いから帰還するたびにウラシマ効果によって数十年、数百年が経過し、家族や知人は世を去り、地球の社会そのものが大きく変容していく。全てを時の彼方に失いながら、マンデラは何世紀にもわたりトーランと戦い続ける……。(Wikiのあらすじを再編集)

■第一印象……おいおい
まずは邦題がダサすぎるだろうって話ですけどね。1972年の作品なのにSF黎明期のテイストがする……アシモフとかっぽいというか。原題はTHE FOREVER WARなのでほとんど直訳ですね。この邦題では今の読者は手に取らないですよ。『マンデラ二等兵の憂鬱』とかだったら、あるかm……ねーよ。

中身の方は……、正直メチャクチャ期待して読み始めたんですよ、けど……肩透かしを食らったような感覚でした。
そもそも敵であるはずのトーランがほとんど出てこない。従って戦闘シーンも少ない。ついでに言うと、人類は最終的に弓と短剣で戦い、トーランはダーツを投げてきます。どんな宇宙戦争だ。
また、超光速航法を使うと船内での数ヶ月が地球での何十年に相当するわけで、ひとつの戦闘を終え帰還するごとに大きく変化した地球社会の様子が描写されます。しかし、そこで描かれるのは星新一のショートショートに出てくるような単発アイデアでしかないんです。例えば人口増加問題について、皆が狭い割り当て区画に住むとか、受けられる医療のランク付けがされるとか。極めつけは同性愛の推奨ですよ。ひねりがないにも程があるだろ。ですので、『華氏451度』『1984年』みたいな仮想社会構造を考察する面白さもない。
残りは訓練、軍隊での生活、船内の生活の描出に割かれています。もちろんそこにもドラマはあるのですが、これまた薄い。
あれ……、俺が読んだのはgdgdな三流SFだったのか?

■どうとくのはなし
これから書くのは、ある人が「ものを観る」上での基本的な「道徳」と考えて書いた言葉です。
『映画とは、そこにただある映像に過ぎません。
そこから何を持って帰るか、われわれに任されています。逆に言えば、映画を見て得られるものは、その本人の感性や知性のレベルに見合ったものでしかない、ということです。』
ここでは映画と述べられています。しかし、同じことは小説にも音楽にも絵画にも演劇にも言えることだと思います。
だから俺は何かの作品に対し直感的に無価値じゃないかと感じても、その意見は自制して、違った観点から捉えられないかと試みます。自分の感性を自ら貶めるようなことは誰だってしたくないですよね?
それにしても、世の中には自分からバカをさらけ出す自称評論家の多いこと多いこと。
まあそれは置いときましょう。
で、行うべきは読み直しです。もう一度読んでみて、見方を変えてみましょう。

つづく

『象られた力』その2.5

追伸1:
初めて紹介を書いてみて……んー、やっぱ自分でも手応えのイマイチな感じなんですが。構造より、もっと内容に踏み込んだほうがよかったですかね?
でもあらすじとかギミックは色んなレビューサイトで取り上げられているのでちょっと毛色の違うことをやりたかったり。
その辺のこと、誰かアドバイスあれば聞かせて下さい。

ついでに、
飛浩隆については、カードと共通する身体の欠損というモチーフや、肉体と精神の捉え方で伊藤計劃と比較もできそうです。長篇の『グラン・ヴァカンス』も“痛み”の描写が美しい、ドロドロ感が堪んない作品なので、また紹介したい作家ですね。

追伸2:
SF小説の苦手な方へ。
SFのガジェットや設定の一部がちんぷんかんぷんでも「わけがわからないよ」とか「そんなの絶対おかしいよ!」とか言う前に、最後まで読んで下さい。
細かいガジェットを飛ばして読んでも十分楽しめる作品がほとんどです(ハードSFを除けば)。
これ豆ですからね?

『象られた力』その2

『それは逆でしょう。自分のまわりにどのような力が作用しているか、計測も数量化もできなかった時代の人間は、かたちとして外部世界を認識し、把握したんです』――「象られた力」より


では続き

昨日挙げた、
「AはBという外的存在に“乗っ取られて”Cという異変が自身に起こり、Dという影響を周囲に及ぼす」
というパターン。
この内BとCに、この短編集の秘密が隠れていると言いました。

ではBから。
飛浩隆の短編の素晴らしさはこのBの独特さに根差していると言えます。何が、わたしを“乗っ取る”のか。飛浩隆の場合、それはただの幽霊でもなければ狐でもない。星であり、図形です。
「生きた」無機物があなたに感染し、侵食する。
マジキチというならマジキチ。
しかし、それをやってのけるのが飛浩隆という作家。ひとえに設定が上手いというより、これは感性の鋭さと言いたい。

次にC。
自身起きる異変とは何か。これは、感覚の拡張です。主に五感の捉えられる範囲が広く、深くなります。
そもそも飛作品は丁寧な視覚描写に加えて、嗅覚、聴覚、味覚の描写が多いのです。匂いそのもの、音そのものを「視る」という印象さえを覚えるほど。そこでさらに感覚が拡張されると、眼前の景色は濃密な異世界と化し、絵画的な描写が読者をそこへ引っ張りこみます。

“乗っ取り”を介してBがCを導き、CによってBが描写される。この一瞬因果が逆転しているかのような錯覚を覚える関係の上に物語は発展していく、これが単一のパターンながら一筋縄ではいかない(他のギミックも含め、とにかく全作品の展開が終わりまで二転三転します。……ネタバレとか心配しなくてよかったかもっていうレベル)ストーリーラインをいくつも生み出しているわけです。
「デュオ」でシャム双生児が圧倒的なピアノを弾き、「夜と泥の」で幽霊は異形と化し、「象られた力」では図形が星を呑み込む。
自分のオススメは「夜と泥の」。ラストの残酷などんでん返しには背筋が冷たくなります。

ひとつのパターンからこれだけのバリエーションが生み出される。それに驚くのもこの短編集の楽しみかな、と思っての紹介文でした!
アクの強い小説が読みたい方、小説に圧倒されたい方、是非御一読を。


ご意見ご感想、読んでみた!という声、お待ちしています。
割と切実に(^-^;