その男の視線から逃れるように、私は弾かれたように顔を伏せた。心臓の鼓動が耳の奥でうるさいほど鳴り響いている。

「……ジュリー? どうしたの?」ダリオは、もうとっくに自分の分のオムレツを平らげ、不思議そうにこちらを覗き込んでいる。彼にはあの男の視線は見えていない。私だけが、あの冷たい「死」のような気配に射抜かれているのだ。

「……なんでもない。すぐ食べるから」

 私は震える手でフォークを握り直すと、冷めかかったフレンチフライとチーズケーキを、無理やり口に詰め込んだ。甘みも脂っこさも、今はただ喉を通る異物でしかない。飲み込むようにして完食すると、私はウェイトレスを呼んだ。

差し出された小さな紙切れに書かれた数字を見て、私は自分の目を疑った。

「えっ……」思わず声が漏れた。それは、家を出るまでに大切に貯めてきた小銭のほとんどが、消し飛ぶような金額だった。たった二人の、食べた心地もしない一食分がこれほどだというのか。私は震える指先で、巾着からじゃらじゃらと小銭をぶちまけ、逃げるようにテーブルに置いた。「行くよ、ダリオ!」

「わっ、ちょっと待ってよジュリー!」

椅子の脚が床をこする不快な音が、店内に鋭く響いた。私たちが急いで薄暗い店内を後にする時、あの男に私たちの背中を見送られているような気がしてゾッとした。

 

レストランの重い扉を押し開け、私たちは外の喧騒へと飛び出した。

「ちょっと、どうしたっていうんだよ。あんなに急いで……」ダリオが私の肩を掴んで足を止めさせた。

「お金、払ったの?ちゃんと確認した?結構な量、テーブルに置いてたよね」

「――全部払ったわよ」私は吐き捨てるように言い、まだ震えている手で空っぽになった巾着をぎゅっと握り閉めた。

「……とにかく、ここを離れましょう」と早足で歩き出した私の後に小走りでダリオがついてくる。

「離れるって、どこへ行くの?大体さ、下調べもしないで、無計画すぎるんじゃないの?レストランだってあれだけで、あんな金額おかしいと思わないの?」

「うるさいわね!そんなに文句があるなら自分で調べて計画したらいいじゃないの!ずっと私の後ろをノコノコついてきてるだけじゃない」

「だって最初に家出しようって言ったのはジュリーだよ」

「それについてきたのは誰よ。そんなに嫌なら帰ったらいいじゃないの!」

「嫌だとは言ってないよ。たださ、行く宛くらい考えたら?って……」

 「別にダリオが考えてくれたっていいのよ!」私が吐き捨てるようにい言ったのを境に口論は終わった。ダリオは三歩ほど後ろを不貞腐れたようにだらだらとついて来ている。


少しずつ陽が翳ってきているのを感じた私は、今日の宿泊のことを考え始め、宿屋を探すことにした。私のお金は尽きてしまったけれど、ダリオが持ってきた「お婆ちゃんのへそくり」がまだある。それを頼りにするしかない。

けれど、いくら歩いてもそれらしい建物は見つからない。看板のない不親切な街並みが、私を焦らせる。意を決して、向こうから歩いてきた子連れの女性を呼び止めた。

「あの、すみません。このあたりに、安い宿屋はありませんか?」

するとその女性は待ってましたと言わんばかりに猛烈な勢いで喋り始めた。

「宿屋?それならこの先の角を曲がって四つ目の路地を右に行って突き当たりを左に曲がったところにあるけどあそこは高いわねこの道をずっとあっちに行くと隣町に出てその隣町の黄色い砂利道をさらにずっと行くと安めの宿があるけど子供の足じゃ着く頃には明日になってると思うわそれから坂を下って港の方まで行けば漁師の行きつけの宿があるって主人に聞いたことあるけど汚くて魚くさいって言ってたわでもどこの宿屋よりも安いってさ!」あまりの早口に圧倒され、ほとんどの内容は頭を素通りしていった。けれど、最後に「港近くにある安い宿屋」という言葉だけはかろうじて聞き取れた。

「ダリオ」と振り返るとダリオの姿が見当たらない。

「ダリオ!ダリオー!」と声を上げるとすぐ後ろの路地裏からダリオがにゅっと出てきた。

「わあ、びっくりした。どこいってたのよ」

「あ、いや別に。ネズミがそこの穴にはまってたから助けてた」とダリオが指差す方の建物の下に小さなひび割れた穴があった。

「港の方に安い宿屋があるって。暗くなる前に行きましょう」

潮の香りが混じり始めた空気の中を、港に向かってなだらかな坂を下っていった。

 

 ようやく辿り着いたのは、潮風に晒されて外壁の塗装が剥げかけた、古びた宿屋だった。中に入ると、先ほどのレストランの重苦しさが嘘のような、陽気な喧騒が広がっていた。ランプの火が温かく灯り、漁師風の酔っ払いたちが、大声を上げて笑いながら酒を浴びるように飲んでいる。

「いらっしゃい!ガキンちょ二人かい?」肝っ玉のすわっていそうな、人が良さそうな顔をしたおかみさんに案内され、ギシギシと鳴る階段を上がり、小さな部屋へと入り込んだ。

 鍵を閉め、固いベッドに腰を下ろすと、ようやく肺の奥まで空気が入ってきた気がした。ダリオも荷物をおろし、ベッドに座り込むと靴を脱ぎ捨てた。

私たちは倒れ込むように横になると、暫くの間、途方に暮れたように天井を見つめた。

 

「……ねえ、ダリオ。さっきのレストランにいた、あの男のことなんだけど」先に口を開いたのは私だった。天井の染みをじっと見つめたまま、声を絞り出す。

「男って、どの人のこと?」ダリオは眠たそうな声で返した。

「カウンターの奥にいた人。黒いマントを着て、真っ白な顔をした……。あの人、絶対に普通じゃないわ。なんていうか、生きている人間とは思えないような……。冷たくて鋭い目をしていた。あんなに不気味な人、見たことない」

本当は、全身の血が凍りつくほど震え上がったのだ。でも、それを認めるのは負けたような気がして、「とにかく嫌な感じだった」という言葉で塗りつぶした。

「――へぇ。そんな人いたっけ。……僕は、オムレツの味しか覚えてないよ。デミグラスソースじゃなくてケチャップがよかったな……」

ダリオの返事はどんどん小さくなり、やがて規則正しい寝息に変わった。

「……ちょっと、ダリオ」声をかけたけれど、彼はもう深い眠りの中だった。

部屋には、古びた時計が時を刻む音だけが響いている。一人残された私は、暗闇の中で何度もあの瞳を思い出していた。獲物を射抜くような、あの鷹の目。全てを見透かすような、深い闇。

恐怖はまだそこにある。けれど、それと同じくらいの強さで、得体の知れない高揚感が胸の奥で疼いていた。あの人は何者なんだろう。あんな不気味な人が、どうしてあの場所に一人でいたの?

一度気になり始めると、もう止まらなかった。明日には忘れてしまうべき、ただの通りすがりの他人。そう自分に言い聞かせても、私の心はあの黒い影を追いかけて、夜の深みへと沈んでいった。

 

 「――ジュリー……。ジュリー、ジュリーってば」

――遠くからダリオの声が聞こえる。ここはどこ、いい気持ち……。

「ジュリーってば!」ダリオの攻撃的な呼びかけで目を覚ます。時計を見ると、もう深夜に近かった。

「僕、お腹すいた」とダリオが赤ん坊のように甘えた顔で言う。