釣りをした事がある人は知っているだろうけど、魚の表面を覆うぬめりと共に手に貼りつくあの匂いは、ものすごくしつこい。キャラメルなんかの箱を覆っている薄いフィルムのように、一度貼り付いたらいつまでも残っている。

あの生臭さと、ガソリン臭さが混ざった父親の車の中で、釣り竿を川岸に放置したままゲームボーイをしていた子供の頃を思いだした。

蓄膿症という鼻がいつもダラダラの病気にかかっていて、年中頭痛がしていた。自分の頭は酸素不足のせいで腐り、緑色になっていると信じていた。午後のゆるい、退屈な日差しのせいだか、蓄膿症のせいだか、その日もやっぱり頭が重くて、車の匂いは嫌いなのに無理やりゲームボーイに没頭していた。

ザラっと軽くて安っぽいゲームボーイの音と、生き物の匂いと、時間が停止したような感覚が混じって、なんかいまいち何もやっていないような気分が、着実に成長して今の自分がある気がする。

会社に行く終電を逃してビールを飲みに行き、タクシー運転手の話す「世界経済とユダヤ人」に関する演説を聞きながらレインボーブリッジを渡って、花粉症のせいかビールのせいか気分のせいか、頭痛を引きずってデスクに向かっている。仕事は放置したままだ。

最近、記憶というか時間の感覚というか、そんなものが薄い。
三月が来ている。
大きな事件もなく日々が過ぎていく。
今日、少し暖かくなって、本当に嬉しくなった。

映画は、本当に僅かずつだけど、確かに前進している。
一日に、2カットを思いつく。それだけでも、不安が薄れるというか。

ひさしぶりに会社に来たら、ほんの僅かな変化があった。
キーボードが新しくなっている。
タイプ音とか感触とかが気持ちいい。

レッドグローブという中型の赤いブドウを食べていて、ブドウの種取り機を考案した。実の形に湾曲したハサミの刃の内側に、(趣味の悪い拷問器具のような)針がそれぞれ数本ずつついていて、ぱちんと挟んでクッと抜く、なんとこれだけでブドウの種を口の中で身と選り分けるというあのわずらわしい作業に悩まされることもなくなるという画期的でサディスティックな玩具なのですがだれか代わりに特許庁行ってくれないか。
中学校を出て以来一度も話してないと思われる昔の友人が夢に出てきて俺にカンチョウをした。なぜだ。

このあいだ泌尿器科に行って医者のおっさんに指突っ込まれ、2日間紙に血がついていた。たぶんこれが原因。

カンチョウの腹立たしさが存分に再現されていて、ものすごいむかつく顔を殴り倒してやりたいのだが、相手の指はまだ僕の心の柔らかい部分に突き刺さったままなので力が出ない。「殺すぞ!」とか叫びながら力が出ない。なぜヤツはあんなにうれしそうな顔をしていたのだろう。痛かった。
自己形成なんてものに興味がわいてきている。
中核自己感とかいうヤツ。自分を単一で一貫した身体単位であるという認識?昨日も今日も自分は自分で、10年前も今も、自分はずっと自分だという感覚、身の回りのテレビや友達や空気と自分は別のものだっていう認識、手や足や顔や意識をもってこれは自分のものだと感じる事。すごく興味がある。
興味があるというか、疑問なのだ。

さっくり言うと、「なぜ大多数の人は人格を一つしか持っていないのか」という事。

よく言うような、心の中の天使と悪魔の囁き。
「腹が減ったが金がない、目の前に人の食べ物がある、食っちまおうかな、いやまずいだろ、でも謝ればなんとかなるのでは?、ってか金があるときに返せばよくない?、でももしキレられたらどうしよう、キレないでしょ、いやわかんないよ」といったような心の葛藤はしかし、多くの人にとっては「自分」の中で行われている事なわけだ。全部自分の意見。

あるいは、今、意識を持ってパソコンに向かっている自分は、生まれてから一切の時間を体験してきた「自分」っていう概念と同一であると考える事。

考え出すと不思議な感じに包まれるのだけど、さっぱり答えはでてこない。勉強すればわかるのかな。
カモメの餌付けはおもしろいって事がわかった。
最初は1、2羽が頭の上を回るんだけど、いつのまにか100羽くらいになる。ギャギャー鳴きながら回るのでかるく怖い。
目立つのでそのうち他の鳥も集まってくる。スズメとか、カラスとか、よくわからん鳥や、巨大な鳶まで高い空を旋回し始める。すごい。
森林はゆっくりと時間をかけて姿を変える。
新たに生まれた裸地に苔や草が生え、背の低い木、背の高い木が順に生える。そうして姿を変えてゆき、やがて変化の起こらない安定した状態に至る。
その状態を「極相林」と呼ぶ。

今日、粗大ゴミの処理拳を買いに近所の商店街へ出た。
取扱店を探すのが案外難しく、そのへんのおっさんに聞いてみると、近くの酒屋で売っていると言う。
店はすぐに見つかった。ずいぶん古い建築だ。
外の黄色い日差しが広い間口から弱く差し込む、空気の冷たい店内にはいると、店員の姿が見えない。ガサガサと音がするので奥を除くと、50代後半の店主らしきおっさんがいた。
「あの」
「はい」

顔を上げるおっさん。

「ゴミ処理拳が欲しいんですけど」
立ち上がり机へ向かうおっさん。異常なほど無愛想というわけではないけど、少しこっちを不安にさせる空気の重さがある。

「200円のやつを二枚」

おっさんは引き出しから200円のゴミ処理拳を出す。店の電話が鳴った。
処理拳をぴりぴりと1枚ずつ切り離していくおっさん。四百円ですと言ってそれをさしだす。電話は鳴っている。
僕は財布をの中を探し、五百円玉を渡して処理拳を受け取る。電話が鳴り止む。
レジを置いていないのか、チャックつきの透明なビニルバッグを取り出し百円玉を探すおっさん。
足音が聞こえる。奥さんらしき女性が出てきておっさんの背中に声をかける。

「間違い電話だった」

下を向いて百円玉を探すおっさん。

「さっきの電話」

百円玉を取り出し、どうもと言って僕に差し出すおっさん。

「ね」

「あぁ」

僕にしか聞こえないのではというような小さな声で、振り向かずに、おっさんは答えた。
こういう状態は、ある種の人間関係における極相林のようなものではないかと思う。
20年、30年という時間をかけ、破壊されずに少しずつ変化していった夫婦関係が、無視に近い無関心を見せる事は、わりとよくある事なのではないか。
不満が苛立ちになったり、苛立ちが不快な諦めに変わったり、妥協が慣習になったり。
それはある種の選択をしていけば、なるべくしてなるものなのだろう。
違う姿の極相林もあるかもしれない。芸術家があると主張する、崇高な関係。
その分岐点はどこにあるのだろう。

透明人間になれたら、と夢想する事はあっても、どうやったら透明人間になれるか、と考えた事はいままでなかった。
さっき、ホームを通過していく電車を見ていたら、透明人間になる方法に気付いた。それは、速く動く事だ。ホームを走り抜けていく電車の中の、座席に座っている人達の後ろ、次の電車を待って立っている人の姿が見えているのだ。ちょうど半透明といった感じで、手前にいる人々の頭と電車の中の窓から見える後ろの風景が、両方見える。
きっとこの透明度は、ある一つの視点が収めている空間内を対象が移動する速さに比例する。一時期話題になった、フライングフィッシュ。あまりに高速で飛び回るために肉眼ではその姿を捉えられず、カメラの中にしか映らないという謎の生物。そんなものが実際にいるかどうかは別として、「速く動くヤツは、見えない」、というのは論理的に正しいのだ。
だから、僕が誰かと会うときに、そいつの周りをマッハ1位で回ってやれば、僕の姿は見えない。これはすごい事だ。
問題はおそらく爆音がする事。馬鹿でかい音が鳴っている空間ならなんとかごまかせるかもしれないが、のぞきをしようって言うのは無理だ。
あと、こっちが速く動きすぎると相手の姿も見えない。周りの風景もえらい速さで動いてるわけだから。これでは楽しくないどころか、気が狂ってしまう。
それに、体温が異常に下がる。風が強すぎて。だからたぶんテンションも下がる。

総じてみると、透明人間になってもあまり得する事はないと思われる。少年時代の妄想が壊れてしまった。
ともだちの誕生日のためにバ-スデーカードを描いた。
誕生日の友達をこれから捜してみる。
作らなければ、という意識から解放されたい。まともに就職する未来は、しっかりと想像した事が一度も無い。未来の選択が強迫観念を作り出したのか、あるいはその逆なのかはわからない。ただ、いいギターのフレーズを忘れた時や、カメラを持たずに素晴らしい一瞬に出会った時、ひどい間違いを犯しているような気分になる。
実際はそのフレーズが鳴った事や、その一瞬が存在した事に本質があるのだけど、僕の思考はその本質を見つめる事を、どこまでもおろそかにしてしまう。

作品を作るのに、作らなければという意識は不要だ。言語の論理ではなく、感覚の論理で考えたらそんな結論に至った。感覚の論理って矛盾した言葉のようだけど、でも、たしかに僕は実感している。作らなければいけないものは商品で、その代価が金銭であろうと賞賛であろうと自己実現であろうと、代価と交換できる、商品でしかない。だからこそ、無価値な作品を作りたいと思う。価値や意味は、ただの飾りだ。
今住んでいる部屋が気に入っている理由の一つは、外から聞こえてくる音が好きだという事だ。
駅を出たところにあるマンションなんだけど、マクドナルドが無いような場所だから駅前の喧騒も無い。たまに大きな音をたてて電車がホームに入ってくるが、この部屋に聞こえてくる止まる寸前の電車の、あのガタンゴトンという音は、心音に似ていると思う。
マンションの一階に二軒テナントが入っていて、顔なじみになっている店員が店の前を掃いているシャッシャッという音や、たまに飛ぶヘリコターのパタパタという音はとてもリズミカルだし、駅前のロータリーとそれを囲む四本のビル(僕の部屋はそのうちの一つの四階にある)が作るスペースが、ホールのようなリバーブ効果を音に加えている。気がする。
バスのドアが開くときの音は、鼻をかむ音に似ている。電車の轟音とドライヤーの音も似ている。噴水の音は何に似ているのかわからないけど、とても好きだ。カラスが鳴く声と、向こうの踏み切り前の交差点で交通整理員が鳴らす笛の音が、小さく鳴って、工事現場はたまにテクノっぽい音を出して、すごく遠くでかすかに鳴っているような、聞こえているのかわからない暗騒音と、僕のパソコンがうなる音は、なぜか似ている気がしたりする。

昔住んでた中野の駅前の音は、もっとやかましくて神経質な感じだった。
実家のあたりは、東名高速道路が24時間うなっていた。
そのどっちの音も、聞けば無意識のうちに自分の記憶を引っ張り出す気がする。
今の部屋の音をマイクで録音しても、こんないい音は鳴らないだろうなと思う。