サンヘドリンのブログ
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僭越ながら


僕は拙いですが、音楽活動しておりまして、ルクセンブルクの「soundz from nowhere」という音楽ネットレーベルに所属しております。sfn071kaiman/crabnebula。
http://www.soundzfromnowhere.com/
そして、マイスペースにも数曲アップしております。
http://www.myspace.com/kaiman42/music/songs?filter=featured
興味を持たれた方は気軽にコメント等宜しくお願い致します。

私家版『Blankey Jet City』考

ブランキー

今、ブランキー・ジェット・シティという名の日本のバンドの曲を聴いている。
現在は明け方5:55。
曲のタイトルは「★★★★★★★」。
なんだろう。この形容しがたい底知れぬ魅力。

はじめて触れた時のあの不気味な佇まいと雰囲気がいつでも鮮やかに甦る。
永遠に刻まれる言葉と旋律。
啓示はそのままだ。
脳内にはブランキー・ジェット・シティという一つの架空の街が出来上がる。
いや、プランキーを聴くことで、楽園「ブランキー・ジェット・シティ」にいつでも接続可能ということか。
僕みたいのが語るのはおこがましいけれど。
僕は世の中は狂っていると日頃から認識して生きている。
そんな中、迷いなく、狂っている!と正面から叫ぶこのバンドにどれだけ自分の折れそうな心が救われたかしれない。
現在、滅びの兆候は臆面もなくどこかしこに顕れはじめている。
もう、明日死ぬかもしれない。
そう思ったとき、人はどう生きていくのだろうか。
僕は自分の感覚にしたがってゆく。
自分の好きなもの、人、心など、つまり自己の直観を信じる以外、すでにこのボロボロの世界には信じられるものはなにもない。
だからデタラメな創作を僕は続けているのだろうか。
瞬間、無意味な行為の連続だ。
でも、創造と破壊が持つ力にはなにか秘密があるに違いない。
この世界の居心地の悪さには、計りがたい意味があるかもしれない。
それは生死、永遠と関係があるかもしれない。
やがて来るべき破壊が、永遠に向けての破壊であったなら。
では、なぜそんなふうに万物は創られているのだろうか。
考えても答えは出ないので眠ることにしよう。


1984

おいらはSFが好きなのですが、今日はその中でも個人的にベスト5には入るジョージ・オーウェルの傑作「1984」のことを語りたい。大体のあらすじはこうである。
1950年代に発生した核戦争を経て、1984年現在、世界はオセアニア、ユーラシア、イースタシアの3つの超大国によって分割統治されている。さらに、間にある紛争地域をめぐって絶えず戦争が繰り返されている。作品の舞台となるオセアニアでは、思想・言語・結婚などあらゆる市民生活に統制が加えられ、物資は欠乏し、市民は常に「テレスクリーン」と呼ばれる双方向テレビジョンによって屋内・屋外を問わず、ほぼすべての行動が当局によって監視されている。
ロンドンに住む主人公ウィンストン・スミスは、真理省の役人として日々歴史記録の改竄作業を行っていた。物心ついたころに見た旧体制やオセアニア成立当時の記憶は、記録が絶えず改竄されるため、存在したかどうかすら定かではない。スミスは古道具屋で買ったノートに自分の考えを書いて整理するという、禁止された行為に手を染める。ある日の仕事中、抹殺されたはずの3人の人物が載った過去の新聞記事を偶然に見つけたことで体制への疑いは確信へと変わる。「憎悪週間」の時間に遭遇した同僚の若い女性、ジューリアから手紙による告白を受け、出会いを重ねて愛し合うようになる。また、古い物の残るチャリントンという老人の店を見つけ、隠れ家としてジューリアと共に過ごした。さらにウインストンが話をしたがっていた党内局の高級官僚の1人、オブライエンと出会い、現体制に疑問を持っていることを告白した。エマニュエル・ゴールドスタインが書いたとされる禁書をオブライアンより渡されて読み、体制の裏側を知るようになる。
ところが、こうした行為が思わぬ人物の密告から明るみに出て、ジューリアと一緒にウィンストンは思想警察に捕らえられ、愛情省で尋問と拷問を受けることになる。彼は「愛情省」の101号室で自分の信念を徹底的に打ち砕かれ、党の思想を受け入れ、処刑(銃殺)される日を想いながら"心から"党を愛すようになるのであった。

これは救いのないディストピアである。主人公は結局権力に人格を破壊される。個人的には現実の未来、とゆうより1984年は既に過去なのだが、ぴたりと今の社会を言い当てている。
ネット上の規制の問題もそうだが、果たして21世紀は本当に夢のような未来なのか。本質は常に隠されるものだ。全てを信じて受容するのもいいが、懐疑することも必要である。行き過ぎた合理主義、グローバル化が行き着く先は個人の破壊である。超管理社会の前に個性というものは必要でないばかりか、かえって邪魔なのである。度の過ぎた権力の危険性は歴史が証明している。この話は悲しい結末だが、人間は死んでも壊れないものがあると信じたい。祈りは高貴で美しい。