今、悩んでいることや
問題だと感じていること、
それに対してのゴールのようなものを
なんとなく決める心の癖って
あるかなと思います。
例えば、
親子関係や夫婦関係だと
"仲良くなること"を、
ゴールのようにしていたり。
同じテーマであったとしても、
わたしもそうですし、
セッションをしていても
人それぞれのゴールのようなものが
あるものです。
なんとなく世間一般的なことを
自分もそうしなければと
思いこんでしまって、
それが気持ちの負荷になり
苦しみを生んでいる
なんてこともあります。
その苦しみ解消のために、
世間一般的なことに合わせたものを
ゴールとしてしまう。
こんな風に何かに合わせて、
自分もそうしなければと
思いこんでしまうところが
物事を問題にしてしまうし、
ゴールを見誤ることにも。
ゴールはある意味 理想です。
その理想も誰かのサンプルなのです。
参考にはなっても、
答えにはならない。
わたしのケースでいうと、
"親子だから分かり合えるもの"
そういうものだという思いこみが
長年ありました。
(世間一般的な見方)
でも、うちは違ったのです。
なので、無意識上では、
"分かり合えること"を
ひとつのゴール(理想)のようにも
していました。
(世間一般的なものに
そうしなければと合わせていた)
でも、それだと
"分かり合えない"と感じるたびに、
傷つき悲しみ怒りにさえ
変っていってしまったのです。
そこで、
もうあきらめにも似た思いで、
分かり合おうとすることを
やめたのですね。
(数年かかっています)
そうすると、
そもそものゴールが違っていた!?
そんなようなことを、
うっすらと感じはじめたのです。
あきらめたお陰で空いたスペースへ、
新たな思いがはいってきたのです。
たとえ親子だとしても、
分かり合えないと認める(受け止める)
目の前の現実の事実を見ることが、
ゴールでありスタート
だったのだと。
ゴールと書いていますが、
気持ちの区切りのようなことです。
分かり合えないからこそ
分かり合おうとするもの。
理屈ではなくそう思うほうが、
気持ちが楽になったのです。
似たような話で、
所ジョージさんが
夫婦喧嘩をしないことについて
聞かれた時に…
違う二人が一緒になったのだから、
二つの人生を楽しめる
違いこそ楽しい
だから喧嘩にならない
そんなようなことを言っていました。
さすが!
とてもステキな見方だし、
"自立"した見方だなとも思いました。
近しい関係ほど、
自分と一体化させやすいですし、
どこかで思い通りにしようと
してしまう。
そういうものでしょうと、
押し付けてしまったり。
わたしの場合では、
分かりあおうではなくて
分かってよ!(親なんだから)に、
いつのまにか変わっていたのです。
これでは、
現実が変わるどころか
親子関係以外でも、
苦しくなる一方です。
人にしていることは、
もれなく自分も受け取るのが
この世の法則なので
どんな関係においても、
求めることは
自分からであり
自分へも♡です。
そこがベースだということは、
ひとつのゴールにしてもいいですよね。
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