京都大学大学院教授 中西輝政氏特別講演
平成23年7月19日 創生「日本」東京研修会(憲政記念会館)
得体の知れないものには、深い意味がある・・・
アントニオ・グラムシフルネーム アントニオ・グラムシ
生誕 1891年1月23日
死没 1937年4月27日(満46歳没)
時代 20世紀哲学
地域 西洋哲学
学派 マルクス主義
研究分野 政治学、イデオロギー、文化
主な概念 ヘゲモニー、有機的知識人、戦争の位置
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影響を与えた人物:[表示]
アントニオ・グラムシ(Antonio Gramsci, 1891年1月23日 - 1937年4月27日)は、イタリアのマルクス主義思想家、イタリア共産党創設者の一人。
戦間期のイタリア、ベニート・ムッソリーニ政権に「この頭脳を止めねば」と危ぶまれて投獄されたが、その獄中で執筆した「ノート」で展開したさまざまな思想概念、例えば「ヘゲモニー」は、イギリスの「カルチュラル・スタディーズ」の論者や、ガヤトリ・C・スピヴァクらインドの歴史研究者らの「サバルタン・スタディーズ」グループ、そして、国際関係学のロバート・コックスやスティーヴン・ギルといった「グローバル政治経済学」などにまで大きな影響を与えている。サルデーニャ島のアーレス生まれ。父親は村の役人であったが、権力闘争に敗れて刑務所に送られ、母親の手で育てられた。また生後まもなく背中にこぶが出来、身体障害者となった。小学校卒業後、家庭の経済的事情により苦学しながら、1911年、奨学金を得てトリノ大学文学部近代言語学科に入学する。このころにはすでにイタリア社会党機関紙『アヴァンティ !』を購読していた。大学入学以来の友人にトリアッティがいた。
1913年、イタリア社会党トリノ支部に入党。第一次世界大戦では他の社会党員が出征していく中で身体障害により徴兵免除、1915年、人手不足となった社会党機関紙『アヴァンティ !』トリノ支局に入る(なおこのころの『アヴァンティ !』編集長はムッソリーニ)。大学は中退した。1919年、トリアッティ、アンジェロ・タスカらとともに社会主義文化週刊紙「オルディネ=ヌオーヴォ(新しい秩序)」を発刊し、労働者による自主管理を軸とする工場評議会運動を展開。工場占拠闘争をはじめとするトリノの労働運動に積極的に参加。
1921年、イタリア共産党の結成に加わり中央委員会委員に選出され、1922‐23年までイタリア共産党代表としてモスクワに滞在し、コミンテルン執行委員をつとめる。また、この地でロシア人のユーリヤ・アポロニエヴナ・シュヒトと結婚した。
モスクワ滞在時にムッソリーニ政権により逮捕状が出されたために帰国不能となり、スイスに滞在。このころグリゴリー・ジノヴィエフの後押しでイタリア共産党書記長となる。
翌1924年、下院議員に選出されると、議員の不逮捕特権を利用してイタリアに帰国、既に22年に成立していたムッソリーニ政権との対立姿勢を鮮明に示した。しかし、ムッソリーニの勢いは止まらず、1926年まさに亡命しようとしていた時に寸分違いでファシスト政権に逮捕され、20年4か月の禁錮刑判決を受ける。幼児期より身体に障害を背負い、また病弱でもあったが、友人の経済学者ピエロ・スラッファなどによる支援により獄中においても本や雑誌の講読を続け、また執筆の許可も得て書き始めたノートの数は33冊にのぼった。この様な獄中生活の中で、ヘゲモニー論などのグラムシの思索の大部分がなされた。1937年4月、釈放直後に脳溢血で死亡。
語録 [編集]
「愛国的な人たちが我々を敵視しても、人々を国家共同体の裏切り者にするのは簡単です。国民にむかって、われわれは平和主義者だと名乗り、勤勉な者に対しては、奴隷根性の持ち主と嘲笑すればよいのです。そして国を更なる危険に曝す。このやり方はどんな国でも有効ですよ。
マスコミ・・・洗脳・・・地方分権・・・
ヘゲモニー・・
民主は・・イタリア共産党の市民革命を、
目指しているって・・・グラムシ
よど号乗っ取り犯・・・市民の党・・・・とか・・
オリーブの木とか・・・
極左・・・