惻隠 (そくいん) の情について??? | 東京リーシングと土地活用戦記

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ニーチェ・ツァラトゥストラの言葉「神は死んだ、神なんかもう信じるな」「強い風が吹く所に一人で立て!そこは非常に厳しいけれど、人間自分自身が主人公だ!風を受けて孤独になれ!」「真理などない。あるのは解釈だけ」いいねー。スバム読者申請コメント削除します。

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 彼の分析によると、心の作用には「四端」といって、4つの要因があるとしています。丁度人間には手足が合計4本備わっていると同じように、自然にだれにでも備わっている心の作用です。それを列挙してみると次のようになります。

①惻隠の心……………「仁」
②羞悪の心……………「義」
③辞譲の心……………「禮」
④是非の心……………「智」


①が、「人に対する同情の心が仁につながる」。②「自分で恥ずかしいと思うことが、義につながる」、③「遠慮する心の作用は礼につながる」、④「良否の判断をする作用は智につながる」となるのです。
 このように自然の心の延長線上に徳のすべてがあり、決して無理に押しつけられたり、後から教育されたものではないと主張しているのです。

 さて、「惻隠の心は仁の端なり」
ということを実社会の面で応用してみるとどういうことになるのでしょうか。
 「惻隠の心」とか「惻隠の情」という熟語は、難しい言葉のようですが、孟子の「性善説」とは別に「あわれみの心」
という意味で広く常用されているようです。

 たとえば、「A君は今度、左遷されて、B支店に転任になった。しかし、人事部でも惻隠の情が動いたのか、給与面では配慮があったようだ」などというように使われています。
 このような俗な使い方でなく、もう少し孟子が使ったような本来の意味を考えてみると、人生行路のなかで重要な役割を果たす格言のように思えます。

 「惻隠の心」は、いたましく同情する心ですが、相手の立場に立って、ものごとを感じとるという感覚上の自然の性格の発露でもあります。夏目漱石の言葉ではありませんが、「可哀相とは、惚れたということよ」というように、愛という心情に結びつき「他人を愛する」という博愛の精神と同類型の心の動きと思われるからです。
 社会生活を送る際にも、家庭生活を過ごすのにも、「愛の精神」が根幹にあって、大きくすべてを包んでいるようです。


 この事情を孟子は充分知りぬいたうえで「同情心やあわれみの心」がすべての徳目の出発点であると断定したものと考えます。

 キリスト教の中心の部分にも、「神は愛なり」という教条がありますが、われわれ日本人の心のなかには、愛という概念はなかなか捕らえにくく、実生活のなかではその考え方を生かしにくいようです。
故事百選

孟子
孟子が生きた時代は人の本性についての関心が高まり、「性無記説」(性には善も悪もないとする告子の学説)や「性が善である人もいるが、悪である人もいる」とする説、「人の中で善悪が入り交じっているのだ」とする諸説が流布していた。これらに対し孟子は「性善説」を唱えた。これは孔子の忠信説を発展させたものとされる。

四端の心 [編集]
孟子の「性善説」とは、あらゆる人に善の兆しが先天的に備わっているとする説である。善の兆しとは、以下に挙げる四端の心を指す。なお「端」とは、兆し、はしり、あるいは萌芽を意味する。

惻隠…他者の苦境を見過ごせない「忍びざる心」(憐れみの心)
羞悪…不正を羞恥する心
辞譲…謙譲の心
是非…善悪を分別する心


修養することによってこれらを拡充し、「仁・義・礼・智」という4つの徳を顕現させ、聖人・君子へと至ることができるとする。端的に言えば、善の兆しとは善となるための可能性である。
人には善の兆しが先天的に具備していると孟子が断定し得たのは、人の運命や事の成否、天下の治乱などをあるべくしてあらしめる理法としての性格を有する天にこそ、人の道徳性が由来すると考えたためである。しかしこの考えは実際と照らし合わせた時、大きな矛盾を突きつける。現実においては、社会に悪が横行している状態を説明できないからである。こうした疑問に対し、孟子は以下のように説明する。悪は人の外に存在するものであるが、天が人に与えたもの、すなわち「性」には「耳目の官」(官とは働き・機能を意味する)と「心の官」が有り、外からの影響を「耳目の官」が受けることにより、「心の官」に宿る善の兆しが曇らされるのだ、と。すなわち善は人に内在する天の理法であり、悪は外在する環境にあると説いた。ウェキペディア

 惻隠の情
JAN/2004
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「怵惕惻隠(じゅってきそくいん)の心」としても日本人に馴染み深い「惻隠の情」は、人間を本来的に信頼すべき存在だとする孟子(前372?~289?年)の思想を最も端的に示している。
孟子は、「人はみな善なる性を持ち合わせて生まれる」との、いわゆる性善説を説いた。その根拠となるのが「四端説」である。人を憐れむ「惻隠の心」、悪を恥じ憎む「羞悪の心」、譲り合う「辞譲の心」、是非善悪を見分ける「是非の心」、この四者を併せて「四端」というが、孟子は誰しもこの四つの心を生まれながらにして備えているという。


▲亜聖孟子像
人皆な人に忍びざるの心有り。……人皆な人に忍びざるの心有りと謂(い)う所以(ゆえん)は、今、人乍(にわか)に孺子の将(まさ)に井に入らんとするを見れば、皆な怵惕惻隠の心有り。交わりを孺子の父母に内(い)れんとする所以に非ざるなり。誉れを郷党朋友に要(もと)むる所以に非ざるなり。其の声を悪(にく)みて然るに非ざるなり。(『孟子』公孫丑上)

 今まさに井戸に落ちようとしている幼児を見つけたら、誰しも思わずハッとして、ためらうことなく幼児を助けに行くだろう。その幼児を助けたいとの一念から、とっさにする行為である。
何とかして幼児を助けてやりたいという心、人を憐れみ痛ましく思う心、孟子はそれを「怵惕惻隠の心」という。そして、それは誰にも「人に忍びざるの心(他者に対する同情心)」がある証だという。

他者への思いやりの心が発動するのは、幼児を助けてその親と近づきになろうとか、周囲の者から認めてもらおうとか、はたまた知らぬ顔で見殺しにして非難されることを恐れるからではない。そこにはあらゆる打算は入り込む余地がない。だから、孟子はこの「怵惕惻隠の心」を万人に生まれながらにして備わったものだというのである。

おそらくそれは民族や時代を超えて誰にもある、人間に普遍の心であるだろう。ただ、それを行動に移すには、時と場合で個人差が生ずる。誰しも持ち合わせる心ではあるが、時に自らの命を犠牲にしてしまう危険性もあるから、誰もが我が心のままに行動できるとは限らない。「惻隠の心」と、我が身を守ろうとする「本能」とが葛藤するのであろうか。KUSHIDA WEBE

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だれにでも、惻隠 (そくいん) の情は、あるだろうか??

ないと思う・・

ヒットラーにも、ないと思う・・

スターリンにも、ないと思う・・

毛沢東にも、ないと思う・・

ポルポトにも、ないと思う・・

金正日にも、ないと思う・・

カダフィイにも、ないと思う・・

今の、日本の天下り官僚にも、ないと思う・・

今の、日本の政治家には、どうか・・・

そして、日本の公務員は、どうか??

孟子は、ただ、人間として、必要不可欠と考えたからだろう・・

しかし、友は、やはり、ここから選びたい・・