范仲淹の「先憂後楽」がある。范仲淹は後世に士大夫の理想像として仰がれた人物であり、この語の意味は「天下の憂いに先立って憂い、天下の楽しみの後に楽しむ」と言う天下国家を自らが背負うと言う意気込みが表れた語である(後に後楽園の名称の元となった)。宋四代仁宗期には、范仲淹を初めとして数々の名臣と呼ばれるものが登場し、政界で活躍した。その様は、朱熹によって『宋名臣言行録』に綴られている。
范仲淹 (Wikipedia)
范仲淹(はんちゅうえん、989年(端拱2年) - 1052年(皇祐4年))は中国・北宋の政治家、文人。字は希文、諡は文正。
略伝 [編集]
蘇州呉県(江蘇省蘇州市)の出身。2歳の時に父を失って母が長山の朱氏に再嫁したのでその姓に従い、名を説と改めたが、成長して生家を知るとともに本姓にもどした。應天府に行って苦学し、1015年に大中祥符中進士に及第して広徳軍司理参事となり晏殊に薦められて秘閣校理となり、つねに天下のことを論じて士大夫の気節を奮いたたせていた。仁宗が親政の時にあたって中央で採用され吏部員外郎となったが、宰相の呂夷簡に抗論して饒州に左遷された。以後、彼を支持した余靖・尹洙・欧陽修も次々と朝廷を去り、自らを君子の朋党と称した。1038年に李元昊が西夏をたてると、轉運使として陝西をその侵攻から防ぎ辺境を守ること数年、号令厳明にして士卒を愛し、羌人は仲淹が龍圖閣直学士であることから「龍圖老子」と呼び、夏人は戒め合ってあえて国境を侵すことなく「小范老子、胸中自ずから数万甲兵あり」と恐れはばかった。そうした功績により諫官をしていた欧陽修が推薦し枢密副使・参知政事となった。仲淹は富弼とともに上奏して、1.黜捗を明らかにし、2.僥倖を抑え、3.貢挙を精密にし、4.長官を厳選し、5.公田を均一にし、6.農桑を厚くし、7.武備を修め、8.恩信を推し、9.命令を重んじ、10.徭役を減ずる、などの十策を献じ施政の改革を図ったが、当時はすでに朋党の争いが弊害をあらわしており彼の案も悦ばれず、河東陝西宣撫使として出向し戸部侍郎などを歴任した。穎州に赴任する途上で没する。兵部尚書を追贈された。
宋代士風の形成者の一人で、六経・易に通じ常に感激して天下を論じ一身を顧みなかったという。散文に優れ『岳陽楼記』中の「天下を以て己が任となし、天下の憂いに先んじて憂え、天下の楽しみにおくれて楽しむ(先憂後楽、後楽園の由来)」は特に名高い。著書に『范文正公詩余』『范文正公集』24巻がある。
范仲淹の詩 [編集]
漁家傲
塞下秋來風景異 塞下に秋來りて 風景異なり
衡陽雁去無留意 衡陽に雁去りて 意留むる無し
四面邊聲連角起 四面の邊聲 連角起こり
千嶂裡 千嶂の裡
長煙落日孤城閉 長煙落日に 孤城閉す
濁酒一杯家萬里 濁酒一杯 家萬里
燕然未勒歸無計 燕然に未だ勒(きざ)まざれば 歸るに計無し
羌管悠悠霜滿地 羌管は悠悠として 霜は地に滿つ
人不寐 人 寐ず
將軍白髮征夫涙 將軍は白髮になりて 征夫は涙す
中国の古典も、いいよねーーー!!
