歴史っておもしろい!! 戦国日本水軍 でかい安宅船!! | 東京リーシングと土地活用戦記

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水軍
(Wikipedia)
水軍(すいぐん)は、東アジアの漢字文化圏における伝統的な水上兵力の称である。西洋・近代の軍事における海軍に相当するが、東洋の水軍においては河川や湖沼における水上兵力の比重も大きい。水師、船師、舟師ともいう。集団化・組織化すると、船党、警固衆(けごしゅう)、海賊衆などの呼称もある。

島国日本では隣国の朝鮮と同様に、古代から沿海部に居住する海民が水上兵力として活躍した。古代ヤマト政権の時代には、日本の水軍を支えたのは安曇部(あずみべ)や海人部(あまべ)、津守氏といった海の氏族たちであった。古代の日本においては国家の背骨は大阪湾、瀬戸内海にあり、紀ノ川流域の紀氏のように瀬戸内海に対する天然の良港を持ち、後背に木材産地を確保した大豪族も独自の水軍をもって活躍した。

中世の水軍
平安時代に入ると、水上輸送する官物を強奪する「海賊」の存在が歴史に現れる。貞観年間には瀬戸内海の海賊鎮圧の命令が出されている。彼らは当初は海賊行為を主体とした小規模な集団に過ぎなかったが、平安後期に入ると、各地で在地の有力者が力を持ち、陸上の荘園では開発領主が武芸をもって世業とするようになり、武士階層の成立が進んでいくが、海上でも同じように海上の武力をもって世業とする海の武士たちが登場するようになった。

瀬戸内方面に於いては、摂津国渡辺津(現・大阪市中央区)を本拠地とし、瀬戸内海の水軍系氏族の棟梁だった渡辺党、その一族で13世紀の元寇に奮戦したことで知られる九州の松浦党、10世紀の藤原純友追討に伊予の水軍を率いて活躍した橘遠保や、保元の乱後から戦国時代まで東は塩飽諸島から西は防州上関まで瀬戸内を勢力圏とした村上氏(村上水軍)はその代表的なものであった。

紀州方面に於いては別当氏に代表される熊野水軍が代表格であり、治承・寿永の乱に於いては湛増などが壇ノ浦などで活躍している。これらは後に、九鬼水軍へと引き継がれていく。
また、安芸の小早川氏、伊予の越智氏や河野氏、三浦半島の三浦氏、津軽の安東氏などは、陸の武士であると同時に支配下の沿海土豪からなる水軍を擁した海賊衆でもあった。
中世の海辺の小土豪が結合して軍事力をもつようになった海上勢力を海賊衆といい、九州や瀬戸内海、紀伊半島、伊勢湾、東京湾など日本各地で見られた。海賊衆は陸の悪党と同様に徒党を組んでの略奪行為や金銭を代償に取った船舶航行の警護を行い、幕府などの公権力の統制を無視して海上で独立した軍事力と権力をふるった。

彼ら海賊衆は14世紀には活動を活発化させ、南北朝の動乱には南北それぞれの側に分かれて戦った。その後、室町時代になると陸の権力が海にも次第に及ぶようになり、守護大名は周辺の海賊衆を、領内の田畑を警固料の名目で所領として給する代償に警固衆に編成、海上軍事力に利用した。続く戦国時代においては、軍事力・兵站輸送力の観点より戦国大名の側から積極的に水軍の編成に対する働きかけを行い、警固衆を陸上の土豪や国人と同じように家臣団に組み入れていった。このようにして、中世末期から近世の初頭にかけて日本の海上勢力は自立した海賊衆から大名の統制に服して公権力の海上における軍事力である水軍に転化させられてゆく。

近世の水軍
織田信長は勢力拡大の過程で志摩の守護九鬼氏出身の九鬼嘉隆を臣属させ九鬼氏を主体とした水軍を編成した。嘉隆率いる織田氏の水軍は長島一向一揆の征伐や石山合戦に参加して活躍し、信長の死後には豊臣秀吉に引き継がれる事となる。秀吉はさらに淡路や四国を領有するとその沿海部の領主として子飼いの仙石秀久、小西行長、加藤嘉明、脇坂安治らの武将を送り込み、それぞれに水軍を編成させて九州征伐や小田原征伐に参戦させた。
戦国時代後期から江戸時代初期の大名が編成した水軍においては、安宅船と呼ばれる数十人から数百人が乗り組む巨船が配備され、巨船同士の大規模な海戦も行われるようになる。安宅船などの日本の水軍の軍船は竜骨を持たない和船の一種であるが、楯板で厳重な防備が施され、大鉄砲や大砲など強力な武装が取り付けられるようになった。その代表的なものは織田信長が命じ、九鬼嘉隆が建造した鉄甲船(鉄板で装甲した巨大安宅船)である。

秀吉は九州征伐翌年の1588年8月29日(天正16年7月8日)、秀吉は刀狩令とともに海上賊船禁止令を発布し、海賊衆の財源であった通過商船の有償警護などの活動を海賊行為として禁圧、海上の土豪たちに領主の支配に服することを命じた。この命令以降、村上水軍の能島氏は毛利氏の家臣となって毛利水軍を率いることになり、秀吉に直接服属した来島氏は秀吉直属の大名に取り立てられて豊臣氏のための水軍を負担することを命ぜられたように、かつての海賊衆たちは豊臣氏を頂点とした大名権力の水軍に再編を強制された。こうして編成された豊臣政権の水軍は、1592年に始まる朝鮮出兵(文禄・慶長の役)大々的に投入されることになる。
豊臣氏にとってかわった徳川氏は海外進出に消極的で、大船建造の禁令を発して諸大名に本格的な軍艦を建造することを禁ずるとともに、来島氏を豊後森、九鬼氏を摂津三田と水軍大名を次々に内陸に移して海事から切り離させた。徳川家康自身は、五カ国領有時代から今川氏、武田氏の水軍を継承して向井氏、小浜氏、千賀氏、間宮氏からなる徳川水軍を編成していたが、江戸への移封後はこれらが関東に随行してそのまま江戸幕府の水軍となった。幕府水軍の拠点は三浦半島の浦賀と江戸の日本橋に設けられた。

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1632年に向井将監により建造された将軍の御座船安宅丸を初めとする巨船を擁した[1]。しかしやがて鎖国の時代の到来とともに幕府艦隊も縮小され老朽化した安宅丸も解体、本格的な水軍は日本から消滅する。
江戸時代には、幕府や海辺に領地をもった大名は船手組、船手方、船手衆などと呼ばれる水軍をもち、幕府では向井氏、長州藩では能島氏、尾張藩では千賀氏のようにかつての海賊衆の末裔たちが世襲して維持したが、戦争の絶えて久しい平和な時代にあっては領内の海上交通を管理したり、領内巡察や参勤交代などで大名が船旅するときに船を出したりする程度の役割でしかなかった。幕末に至って欧米諸国を範に幕府や雄藩は近代的な艦隊の創設に向かうが、そのときにはすでに海軍という用語が用いられ、水軍の名は過去のものとなる。しかしながら、幕末の海軍創生期には、水夫達のかなりの人員が水軍の伝統ある地方の出身であった。


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でかい、安宅船・・・400年前に、こんなのに乗っていたなんてねーー!!??

徳川の葵の紋は、かっこいいけど・・

むの字の旗は、なんかへんですよねーー!!

今日は、仕事で、MITUIさんに、お会いしました・・・・かっこいいね!!