「1940年体制」はこう倒す/渡辺喜美(衆議院議員) | 東京リーシングと土地活用戦記

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「1940年体制」はこう倒す/渡辺喜美(衆議院議員)

2008年12月10日 VOICE

「ポスト近代」が始まった


 世界史的な視点でみれば、現在は「ポスト近代」の始まりという、何百年に1度の転換点に立っている。近代は、地中海ヨーロッパと東ヨーロッパが一体化し、新大陸の発見で金銀が流入し、植民地化が進むなかで、ヨーロッパが豊かになっていった時代である。ロシアが崩壊して冷戦が終わった1990年代半ばから、世界経済自体が急速に一体化しはじめた。IT革命によって世界中を情報が駆け巡るようになり、金融資産が異常に膨れ上がったのである。そこから発生したバブルが、サブプライムに端を発する金融恐慌で大崩壊を始めた。いわば「ポスト近代」が始まったと同時に、われわれは試練に直面しているのだ。
 
 一方、日本史的な視点でみても、現在は何百年に1度あるかないかの変わり目といえるだろう。
 
 日本の歴史を振り返ればおよそ400年に1度の周期で大変化が起こっている。大和朝廷の誕生が4、5世紀ごろ、平安時代に入るのが8世紀、鎌倉時代は12世紀、江戸時代になるのが17世紀初頭である。そこから400年たった21世紀、再び大変化が起ころうとしている。
 
 日経平均が一時期、6000円台まで下がり、多くの人はショックを受けたが、このような状況が起こるのも大変革期の特徴である。アメリカ人が借金に借金を重ね、貿易も財政も赤字にして世界中から買い物をしてきた。まさに消費の先食いで、このような巨大な不均衡がいつまでも続くはずはない。その意味で現在の状況は、来るべきものが来たといってよい。
 
 幸か不幸か、世界に先駆けて、今回のような金融危機を日本はすでに経験している。バブル経済の崩壊がそうで、そこで金融システムに穴があいてしまい、その後、デフレ経済にも真っ先に突入した。これは「近代の転倒現象」ともいえる状況で、冷戦崩壊を「近代の終わり」と位置づけるなら、日本はいちばん遅れているといわれつづけたが、ポスト近代においては先頭を走っていたともいえる。
 
 さらにいえば、79年前にも日本は同じ経験をしている。1927年に昭和の金融恐慌を経験し、その2年後に世界恐慌が起こった。その後、犬養内閣の蔵相であった高橋是清は、ケインズ以前のケインズ政策といわれるすさまじい財政金融一体政策を行なった。金本位制から離脱し、大量の国債を発行すると同時に、日銀にそれを引き受けさせたのだ。この政策によって瞬く間に日本はデフレから脱却していく。しかし不幸にして犬養首相は5・15事件、高橋蔵相も2・26事件で暗殺され、そこから軍部独裁、官僚内閣制への道が始まる。
 
 振り返れば1930年代には、どの国も似たような政策をとった。軍事費を拡張し、公共事業を行ない、同時に社会政策に専心した。アメリカではフランクリン・ルーズベルトが登場し、ワグナー法をつくって労働者を保護し、高賃金政策をとった。しかし失業率はいっこうに改善せず、就任から5年たっても経済はほとんど回復しなかった。
 
 一方、ドイツではヒトラーが登場し、労働者を虫けら扱いにして労働組合を解散させ、低賃金政策をとった。その結果、5年後には完全雇用をほぼ達成し、経済は絶好調になった。その状況下、ヒトラーはポーランドに侵攻し、第2次大戦が始まる。何をやってもうまくいかなかったルーズベルトにとってこれは渡りに船だった。歴史の皮肉というのであろう。結局、大恐慌は第2次大戦をもってしかリセットされなかったのである。
 
 歴史の教訓としてみれば、これは「大失敗の教訓」である。現在が「恐慌前夜」というならば、かつて何が成功し、何が失敗したかを大いに参考にすべきだろう。
 
 世の中が大きな不安心理に苛まれ、人心が千々に乱れるとろくなことが起こらない。日本の場合、デフレから脱却したにもかかわらず、軍部が台頭し、テロが起きてしまった。ドイツもそうで、ワイマール共和国で不安心理に見舞われたドイツ国民が「自由からの逃走」(エーリッヒ・フロム)を行ない、ヒトラーを礼賛したのである。
 
 金融危機によってデフレの心配を抱えた現代もまた、人心が攪乱する恐れの強い時代に入りつつあるといえるのではないか。このような時代に大切なのは、政治が正しく機能し、人心収攬をきちんと行なうことである。私の父である渡辺美智雄はよく、「『この人なら、ある程度まではお任せしていい』と国民が思っているときは、国民と政治家とのコミュニケーションは容易になる。しかし、いったんこの関係が崩壊すると、100万回理屈をこねても、国民はまったく政治を受け入れない」といった。「信頼の絆」が何より大切で、これを父は「まごころ」という。まごころが通い合っていれば、世の中は非常にうまくいく。しかしいったん崩壊すると、止めどもなく逆回転し、谷底に転げ落ちる。政治も経済も谷底に転げ落ちるときは速く、あっという間なのだ。

公務員制度改革の骨抜きを許すな

 では、このような危機的状況において、政治はどのように人心収攬を行なえばよいか。一言でいえば、それは「危機管理」であろう。危機を認識して回避行動をとり、不幸にして危機に巻き込まれたときは、積極果敢に対応する。すでに日本は危機に巻き込まれており、麻生総理のいう「100年に1度の暴風雨」はけっして大げさなものではない。またどんな危機であれ、未来永劫に続くものはないから、危機に巻き込まれたとき、同時に将来を考えた新しいシステムづくりを行なう。「100年に1度の暴風雨」なら、「100年に1度の対応策」の非常対応策が求められているといってよい。
 
 ところが日本のような官僚主導体制の強い国では非常時対応策が、平常時モードの延長線でしか行なわれない。逆に対応が素早いのが、アメリカやヨーロッパのような政治主導の国である。今回の金融危機にしても、真っ先にデフレに見舞われた日本から、当初欧米諸国は「日本の教訓に学べ」といわれた。そして彼らは一瞬で手を打ち、あっという間に日本は欧米に追いつかれてしまったのだ。
 
 試験選抜エリートに政治決断を期待するのではなく、いまこそ真の政治主導を確立しなければならない。選挙選抜の政治家が国家の命運を懸けた国家戦略を立案・実行できるようにする。それがうまくいけば、わが国はポスト近代の時代において、世界の最先頭を走ることができるだろう。
 
 われわれはかねてより、官僚主導から政治主導への大転換を図るための仕掛けをいろいろ考えてきた。その1つが、公務員制度改革である。★東京・リーシングと土地活用のビジネス戦記
 
 日本の公務員制度は、試験選抜エリートによる利益共同体を徹底して守る仕組みになってしまった。各省ごとに行なわれる採用、人事育成、幹部登用、天下り、それも1回だけでなく、2回3回以上も繰り返す生涯安心システム。官が民を支配する統制型システムだからこそ、この遂行は可能になる。そこに官が政治をコントロールする官僚内閣制や、官が地方をコントロールする中央集権体制がセットになっているのだ。一方、各省に縄張りと年功序列があるがゆえ、手直し彌縫策の政策しか出てこない。
 
 そこで私が内閣府特命担当大臣(金融および行政改革、公務員制度改革)に就任し、まず行なおうとしたのが天下りシステムの打破と、実力主義の導入である。年功序列人事を廃止し、大抜擢もあれば、降格・降級もある。民間であれば当然の制度を導入し、そのために内閣人事局をつくり、幹部人事を一元管理する。内閣の方針に官僚機構が従うという、当たり前の議院内閣制を実現しようとしたのだ。
 
 いま問題となっているのは、そのための必須事項である給与体系の見直しが、とてつもないサボタージュにあっていることだ。役人の企画立案に任せているため、彼らはこの点に指1本触れようとしない。私が大臣を辞めたあと、骨抜きの動きが急速に顕著になっている。
 
 そこで有志議員「正しい公務員制度改革を実現する会」で決議文をつくり、それを麻生内閣の甘利行革担当大臣に手渡した。「信賞必罰」「民間並みのリストラ」「天下りの根絶」などの実現には給与法身分保障規定の見直しが不可欠で、組織行政に関わる政府内の関係部局の機能をすべて統合する。具体的には総務省の関連部局(行政管理局、人事・恩給局)だけではなく、人事院の公正中立性に関わる部局、財務省の給与共済課などの機能も統合する。
 
 器の議論だけでは猛反対に遭い、大統合はできず、こぢんまりした人事局がつくられて終わってしまう。これは霞が関の現状維持派、抵抗勢力にとって、じつに程よい手直し彌縫策で、断じて阻止せねばならない。政府にできなければ、われわれ立法府の人間が、議員立法をもってやる。給与法の体系を変えることについて、ローメーカーである国会議員が議員提案を出すのは少しもおかしいことではない。
 
 その次のステージで大事になるのは採用の一元化だろう。真の「日の丸官僚」を養成するには、各省ごとの採用・育成でなく人事局採用を行なわねばならない。だが残念ながらこの案は先の通常国会の法案修正協議で葬り去られてしまった。
 
 また国家戦略スタッフの創設も、官邸主導、政治主導を実現するうえで不可欠のテーマである。官邸に100人程度の官民の英知を結集し、国家戦略を企画立案、実行する。私が金融大臣時代につくった金融市場戦略チームはそれを先取りしたもので、そこでは非常事態対応のブレーンストーミングを行なった。
 
 結局、このような仕組みがないから政策も迷走し、100年に1度の政策ではなく、こぢんまりした平時モードの延長線にしかならない。最たるものが定額給付金騒ぎではなかろうか。はたして景気対策なのか、社会政策なのかすら、その位置づけははっきりしない。

「道州制」導入を一大国民運動に

 社会保障については「1940年体制」とも呼ばれる、大日本帝国が戦争を効率的に遂行するために作り上げた国家社会主義的戦時体制を改めねばならない。1938年の「国民健康保険法」、39年の「職員健康保険法」などで適用対象が拡大され、ほぼ全国民がその対象となった。41年に「労働者年金保険法」が制定され、老齢年金などの支払いが規定された。44年にこれは「厚生年金」となり、対象が職員と女子にも拡大された。それを個人化する方向に舵を切るべきだ。「社会保障個人勘定」といわれるもので、それによって税や社会保障が個人ごとの勘定をもって機能できるようになる。
 
 たとえば年金個人勘定法をつくり、個人ごとの掛け金と給付の計算を可能にする。こうなれば保険方式か税方式かという話は神学論争にしかならないだろう。税で負担する部分は個人ごとに計算し、掛け金に組み入れればよい。
 
 これによって社会保障全体に横串が刺さり、「個人お好みメニュー」が可能になる。健康に自信のある人は医療の自己負担を高くして、そのぶん年金を多くもらう。あるいは年金の掛け金を低くして、そのぶん給付も低くする。そんな選択が可能になるだろう。さらに納税と連動した個人勘定になるから、マイナスの所得税給付、すなわち給付の受け取りも、このインフラを通じて可能になる。
 
 これは先進国ならどの国も取り入れているシステムで特段難しい話ではない。しかし日本ではこの発想がずっと見捨てられてきた。各省割拠主義の利権構造が幅を利かせ、国民のほうを向いた制度・政策の実現を阻んでいたからだ。しかし危機の時代にこそ、このような未来を見据えた危機対応を図るべきではないか。
 
 また霞が関が地方をコントロールする中央集権体制を大転換するツールとして、きわめて有効に働くのが道州制である。なかには「道州制をやるなら、分権改革はそのときまでストップしなければならない」「分権改革と道州制は調整が必要」という議論もあるが、ナンセンスの極みだ。
 
 分権改革は徹底して進めればよい。県が要らないのなら、地方支分部局は廃止すればよい。つまり県は徹底して市町村に対し、分権移譲を進める。いずれ県はなくなるのだから、基礎自治体の強化を図る政策をとっていけばいい。その改革の先にあるのが道州制である。道州制の議論は国民の理解なくして前に進まないだろう。そういう意味で、この国のかたちを変える一大運動になっていかねばならない。
 
 そして道州制を導入した暁に、かつて議論されたような国土政策的なレベルを超え、「首都は東京であるべきか」といった議論が出てくるかもしれない。首都が移るとき、時代が変わる。これが日本の歴史である。平安京に首都が移ると平安時代、鎌倉に移ると鎌倉時代、室町に移ると室町時代、江戸に移ると江戸時代……。首都が移った先の地名が時代の名前になるという歴史をわれわれの祖先はつくってきた。その意味で繰り返しになるが、まさに何百年かに1度の出来事が動き出そうとしているのかもしれない。
 
 いまわれわれには「直勘・実感・大局観」が求められている。直勘とは「将来を見通す洞察力」、実感は「民の竈がわかる感覚」、大局観は「歴史認識」だ。これらが合わさってこそ、国家の命運を懸けた判断や決断を行なえる。この危機を突破し、日本をポスト近代において世界に冠たる国家にできるか。いまが正念場である。


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来年は、新体制の時代、ポスト近代のはじまりなんでしょうか??

なんか、たいへんそー???