「レッドクリフ」 赤壁の戦い  明日、映画を見に行こう!!! | 東京リーシングと土地活用戦記

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三国志「赤壁の戦い」 呉の将軍 周瑜へ 思い熱く 「レッドクリフ」 ジョン・ウー監督に聞く

 ●等身大のヒーロー描く 「人々を励ます映画に」

 三国志の「赤壁の戦い」を描いたジョン・ウー監督の映画「レッドクリフPartI」が11月1日、封切られる。「M:I‐2」「ウインドトーカーズ」などでヒットメーカーの地位を確立したウー監督が18年間、構想を温め自ら脚本を書いた前後編2分割の大作。今回公開されるのは前編だ。ヒロイン役のリン・チーリンとともに福岡市を訪れたウー監督に作品に込めた思いなどを聞いた。 (堀田正彦)

 ウー監督は「男たちの挽歌」(1986年、香港)で注目され、その後ハリウッド進出を果たした。「当時はよく悲劇のヒーローを描いていたが、その後、私の人生観も変わった。レッドクリフでは等身大の人物を描くことに力を入れ、見た人が励まされる作品になるよう努力した」。こう語るウー監督は今作のテーマを友情、愛、勇気とし、これらは自分の一貫したテーマだという。

 中国統一の野望を抱き強大な兵力で攻め寄せた曹操に対し、呉の孫権は劉備と同盟し迎え撃つ。これが赤壁の戦いだが、三国志にはもう1つのクライマックスとして5丈原の戦いがあり、「死せる孔明、生ける仲達を走らす」の故事で日本人にもなじみ深い。その5丈原でなく赤壁を舞台に選んだのは、弱者が知恵と団結で強者を退けるという痛快さと、呉の武将、周瑜への強い思い入れがあると、ウー監督は言う。

 「赤壁の戦いは周瑜の指導の下に戦われた。いろいろ書物を調べると、三国志演義に描かれるのとは異なり、周瑜は心の広い人物で武勇だけでなく文学的、音楽的な素養も豊かなリーダーだった」。その周瑜に光を当てることが「人々を励ます映画になる」とウー監督は考えた。

 「大量の矢を敵からせしめる計略や、大船団を火攻めにするといったエピソードを、最新の技術で映像化することは映画監督として力量を試される大きな挑戦だった」。アクションに定評のあるウー監督は、今作でもその手腕を発揮し迫力の合戦シーンが展開する。だが同時に、登場人物の内面も丁寧に描いている。2008/10/27 西日本新聞






赤壁の戦い

年月日:西暦208年冬
場所:赤壁(現:湖北省赤壁市〔zh:赤壁市〕)
結果:孫権・劉備連合軍の勝利
交戦勢力
孫権・劉備連合軍 曹操
指揮官
周瑜
程普
劉備 曹操
戦力
2万~5万 (劉2千~2万、孫2万~3万) 15万~24万
損害14万




赤壁の戦い

数十万の兵を擁すると言われる大軍勢の曹操軍に孫権陣営は恐れを抱いた。しかし、都督周瑜は「中原出身の曹操軍は水軍による戦いに慣れておらず、土地の風土に慣れていないので疫病も発生するだろう。それに曹軍の水軍の主力となる荊州の兵や、袁紹を下して編入した河北の兵は本心から曹操につき従っているわけではないのでまとまりは薄く、勝機はこちらにある」と分析し、孫権に説いた。
魯粛は劉備に孫権と同盟を結んで曹操と対抗するように説き、劉備は諸葛亮を使者として派遣して孫権と同盟を結び、孫権は周瑜・程普ら数万の水軍を劉備の救援に派遣した。一方の曹操軍も長江を下った。両軍は赤壁で一戦を交え、周瑜らは疫病に悩まされていた曹操軍を撃破し、曹操は後退し烏林に陣を張り、周瑜らは長江を挟んで対峙した。
孫権軍の将の黄蓋は、敵の船団が互いに密集していることに注目し、火攻めの策を進言した。そして自ら偽りの降伏を仕掛け、曹軍が油断した隙をつき、油をかけた薪を満載する船で敵陣に接近して火を放った。折からの強風にあおられて曹操の船団は燃え上がり、炎は岸辺にある軍営にまで達した。船団は大打撃を受け、おびただしい数の人や馬が焼死したり溺死したりした。『三国志』呉書周瑜伝の注に引く『江表伝』によると、この時、周瑜らは曹操の陣に追撃をかけ、曹操軍は潰走した。曹操は敗残兵をまとめて撤退した[1]。『三国志』呉書呉主伝によれば、曹操軍の敗残兵の大半が飢えと病で亡くなった[2]。




中国の歴史で有名な赤壁の戦いの映画化。

『LOVERS』 ラバーズの金城武、チャンツィイー 、アンディー・ ラウとの競演よかった。

ウー監督の「M:I‐2」「ウインドトーカーズ」も、よかったですよね。

やっぱり、明日、映画を見に行こう!!!