フローレンス・ナイチンゲールより愛をこめて・・・
「患者は見つめられるのを嫌う」というのは、不注意な看護婦の誰もがいう言い訳である。その事自体は全く正しい。病人は誰でも、そして子供たちもみんな「見つめられるのはいや」なのである。しかし、自分が看取っている子供や患者のことを本当に良く知り、また理解している看護婦を見つけ出して、彼女の患者たちが「自分は見つめられてきたと感じているかどうかを調べてみてほしい。」
ほんとうに注意深い看護婦が、彼女が知っていなければならないこまごまとした事を知るのは、じろじろと患者を見つめることによってではない。
私の知っている最も優れた観察者、彼は一見したところただぼんやりとしているようにみえる。彼は半ばめを閉じて椅子にもたれているだけである。そして、そうしている間に、全てを見、全てを聞き、全てを観察する。そして、人々は二十年も生活を共にしてきた人たちよりも、彼のほうが、自分について良く知っている、と感じるのである。
精神病者たちに及ぼした驚くべき影響力を彼にもたらしたものは、この優れた観察能力と、観察した現象に含まれている意味を理解する能力とにほかならない、と私はかんじている。「フローレンス・ナイチンゲール・看護覚え書(イギリス随筆の古典)・現代社」より抜粋。
とてもいい結婚披露宴だったとおもいます。フローレンス・ナイチンゲールさんのことばのなかで観察者がでてきますが、とくに、陣内智則さんのこどものころの写真のなかで、小学生のころ、カブトムシがりに、父親と家族唯一の旅行の中で行くのですが、途中、ふとした瞬間で、父親がカブトムシを買っているところを見てしまった。そして、見つけたぞーと採ったら安い方のメスのカブトムシだった。という話がありました。披露宴でいわれた父親も恥ずかしかったかもしれませんが、彼の良く気が付く、やさしい側面が良く出ているとかんじました。
きっと、藤原紀香さんも、こどもの頃から、彼の良く気が付く、やさしい側面、彼の優れたところ、ひとを慮る(おもんばかる)気持ちがよく理解できたと感じます。
しかし、彼のサプライズのピアノの弾き語り、コブクロの唄、よかったですねー。かっこいい男ですねー。藤原紀香さんの家族も安心したでしょうねー。
1820年(日本では江戸時代末期)、ナイチンゲール家(英国人・父親はケンブリッジ大学卒・ハンプシャー州長官)はイギリスの上流階級が習慣としていたように英国を離れた別荘に滞在していました。それはイタリアのフィレンツェ(英語名:フローレンス)でした。その年の5月12日に次女が生まれ、土地の名に因んで、フローレンス・ナイチンゲールと名づけられました。当時の出産は、上流階級は家でするのが通例でしたが、貧しい人たちは病院で出産していました。その場合、施設(病棟)によっては今で言う院内感染の「産褥熱」(産後の高熱がでる感染症)にかかって死亡することもありました。
当時の看護というものは身分の低い女性がするもの、という固定観念があり、劣悪な労働環境にありました。当然のことながら「伝染病」は病院に、はびこっていました。その時代背景に両親の猛反対をおしきってフローレンスはドイツに看護学の留学にいきました。
転機は1854年からのクリミア戦争(英国。フランス・トルコ対ロシア戦)でした。ちなみにこの年は、わが国では米国海軍のペリー提督が喜望峰まわりで日本に来航した年でもあります。中近東では、イギリス軍がトルコ帝国に進軍し、ボスポラス海峡のあるイスタンブール(関門海峡のある下関と友好関係、当時:コンスタンチノープル)の近くの「スクタリ」に野戦病院(barrack hospital)が置かれました。その戦病兵の看護のため教会に要請して看護団を組み、(イギリス陸軍病院看護婦監督として)赴きました。
当時の戦病兵は、実際の戦闘で傷ついたものは少なく、不衛生による伝染病(チフスやコレラと推定されています)で死亡するものが後を絶たなかった(クスタリ病院・入院者12000人、当初死亡率42%)ようです。患者である戦病兵をシャツやリネンから整え、病棟の排泄物が満ちた環境を整え(クスタリ病院・死亡率が14.5%へ、また死亡率5%まで下がる。)、近代看護の基礎を築き、多くの人を救ったのがフローレンスでした。多くの看護師がかぶっている帽子は、フローレンスが始めたものとされています。フローレンスの仕事は過酷をきわめ、自身も熱病に倒れましたが(リケッチアによる風土病と推察されています)、1856年、イギリス本国へ凱旋するまでに伝染病による戦病死を減らしました。なお極東では、ペリー提督は浦賀から琉球へ立ち戻り、1854年に2回目の江戸来航にて日米和親条約を結びました。
わが国はその後、明治維新を1868年に迎えました。徳川幕府の医学留学生がヨーロッパに派遣されていましたが、英国のリスターが1867年に発表した無菌手術法(石炭酸により手術器械を消毒して行う方法)を、戊辰戦争(1868-69年:明治元-2年)の時、これも海峡のまち函館の幕府軍病院において用いました。これは日本の外科感染対策のはじまりともいえ、実に世界の進歩に同期していたといえます。1887年イギリス看護協会設立、 フローレンスはその後、著作活動を続けましたが、1901年(明治34年)失明しました。1907年メリット勲章授与、1910年、90歳の生涯を閉じました。当時は細菌学の黄金期を迎えていました。

