主体と客体 | コヨーテが紡ぐ言葉達~己への道~

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夢、成功哲学、願望実現の法則、NLP等を使って言葉にヒントを詰め込んでいきます。
自分自身に磨きをかけ、アウトプットすることにより、
訪問者の変化を導ければ嬉しいです。

三つほど続けて、脱自己同一化を進める私に起こった現象をお伝えしました。
「脱同一化したら・・・」「映画マトリックスに脱自己同一化を探す」「現れたシャドー」

人間探究をライフワークとする中、「自我を超えた己」の言語化に取り組んでいます。
その為の一つの手段として、客観視できる観察者の視点を強化します。

それが脱自己同一化というプロセスを続けることでもあります。
脱自己同一化していくと、意識上のものが観察の対象物になります。

まっ、本来であれば、対象物となった時点で、影響力を失うはずなんですが。。。
ただ私たちの住むこの世界は面白いもので、需要があるところには供給があります。

つまり、一つの課題をクリアすれば、また新たな課題が出てくる。
それもステイト(状態)が上がれば、課題のレベルも上がってきます。

何も考えずにいれれば、それでOK、考えてしまったら取り組んでいくしかありません。

私が今直面している課題に対しては、
「3-2-1シャドー・プロセス」が有効かも知れません。
これはまた追々取り上げていくことにいたします。

さて、私たちの世界を判り易くする枠組みの一つとして、二元論があります。
そして、「己」を二元論で言語化するとすれば、クリアしなければならないことがあります。

二元論の立場をとった時にでてくるのが「主体」と「客体」という言葉です。

Wikipediaにはこう書かれています。

『主体と客体は、この世界の様態を捉えるために広く用いられる、基本的な枠組みのひとつである。
世界を構成するものとして、「見るもの、知るもの(主体)」と「見られるもの、知られるもの(客体)」の2種類の存在を認める』

もし「己」を言語化しようとすると、「己」は「主体」でなければなりません。
何しろ全てを包括しているような存在ですから。。。

しかし、それを知ろうとしてしまうと、観察の対象となってしまいます。
つまり「客体」です。
「己」を意識して観てしまえば、それは「客体」となってしまいます。

このように言語化によって「己」に近づこうとすると、
「己」は後退していくかのように観えます。

ここが難しいところです。
体感では得られる感覚を言葉として伝えることが出来ないのです。

この前、私は深い瞑想状態にいたときに、
自分の肉体と完全に切り離されている感覚を得ていました。
(幽体離脱のようなものでは、ありません。あしからず。)
その状態のときに、意識的な気づきがありました。

己を知るには、
一度、自分と肉体を離す、脱同一化する。これは二元論である。
一度、分離したものを統合していく。非-二元論の世界に介入していく。

そんな時空間の何処かで、己が待っているような気がしました。