●世界主要都市 WMC-060.マドリード | 名人塾2

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音楽、映画、旅行・観光、グルメ、そして時代考証。過去・現代のあらゆる事象をあらゆる出典を紐解き、多角的角度から見つめます。
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上左から、プエルタ・デル・アルカラ(アルカラ門)、王宮とカンポ・デル・モーロ庭園、
マドリード市役所、アルカラ通りとグランヴィア通り、プラド美術館、プエルタ・デル・ソルにある
クマとイチゴノキの像、セルバンテス文化センター本部、王宮とアルムデナ大聖堂。
上左から、プエルタ・デル・アルカラ(アルカラ門)、王宮とカンポ・デル・モーロ庭園、マドリード市役所、アルカラ通りとグランヴィア通り、プラド美術館、プエルタ・デル・ソルにあるクマとイチゴノキの像、セルバンテス文化センター本部、王宮とアルムデナ大聖堂。




位置



順位(人口ランキング):53位
都市名:マドリード
人口:294(万)
所属国家名:スペイン

Madrid の日本語表記には多様性がある。字面から「マドリード」との表記が優勢であるが、一般的なスペイン語では語末の「d」がほとんど発音されないため、「マドリー」との表記もしばしば用いられている。英語等の発音にならって「マドリッド」との表記も見られる。
20世紀に入っても、マドリードは産業があまり興っておらず、経済的には非常に停滞していた。スペイン内戦(1936年 - 1939年)では、マドリード市内は戦場となった。マドリードは内戦が勃発した1936年7月19日から20日にかけて反乱軍の蜂起が起きたものの瞬時に鎮圧され、人民戦線の手に残された。そして内戦期を通じて人民戦線側に保たれ、バルセロナやバレンシアと並ぶ政府の拠点だったが、1936年11月、マドリードを奪取しようとするフランコ軍が猛攻撃を開始し、政府機能はバレンシアへと移された。この猛攻はしかし政府軍の抵抗によって食い止められ、以降マドリードは3年間抵抗を続けるものの、1939年3月28日に降伏した。この降伏によって共和国側は最後の拠点を喪失し、3日後の3月31日にはスペイン全土がフランコ軍によって制圧され、4月1日にはフランコがマドリードに入城して内戦の終結を宣言した[11]。マドリードは初めて民間人を標的とした航空爆撃を受けた都市となった。
2004年3月11日、マドリード市内のアトーチャ駅など3つの駅でマドリード列車爆破テロ事件が発生し、191人が死亡し、2000人以上が負傷した。この事件は3日後の総選挙に大きな影響を与え、国民党が退陣してスペイン社会労働党に与党が移り変わる結果となった。


マドリード市内観光