思い通りにならないのが人生 | 会社を辞めてXXを season 2

会社を辞めてXXを season 2

自分の原点に戻るべく57歳にして東京の商社を辞めて農業分野への転職を決意。年齢フィルターに苦戦しながらも農園への転職に成功するも1年でリストラに。再び彷徨いはじめた自分探しの備忘録。

 

 

 

 

 

みなさん、こんにちは。

国民的放送局のニュース番組で2040年にはあらゆる業種の担い手不足が1100万人になるという。65歳以上になる段階ジュニア世代が一線を引くからだそうだ。アホなハナシで何故年齢で労働力を区切るのか私には不思議だ。戦後のベビーブーム、それに続く第2次ベビーブームで人口増加を続けた日本が世界第2位になるほどの経済成長を成し遂げた。その成長の頂点がバブルだった1980年後半、私が最初の会社に入社したころだ。

政治家というより国家公務員は国民の人口削減を意図的に進めていたのではないか(愚民化もナ)。少子高齢化はこの頃すでに叫ばれていたが何も対策してこなかったのは諸兄もご存じだ。そしてコロナで人切りをやったことが更に人手不足を加速させる結果になった。飲食業、物流業は特に深刻になった。そして、私が農園をクビになって次の職業に就くことになった運送業も同様だ。

1月中旬、クビを宣告されて再び就職活動に入ったが3月いっぱいまでに自分の意に合う次の職種を探すにはあまりにも時間がなさ過ぎた。農業にかかわる仕事を中心に探したが59歳ではお呼びもかからない。自分の経歴を活かした職も探したが歯牙にもかからなかった。かくなる上は年齢不問、経歴不問、自動車の運転免許証さえあればOKというあの業種しか選択肢はなくなった。

普通旅客自動車運送業、すなわちタクシーだ。2月中に都内の大手を何社か面接してみた。タクシー運転手の働き方は特殊で「隔日勤務」と言われる。例えばその日の午後3時に点呼を受けて乗車すると翌日午前10時までの勤務となり以降は休みとなる。そしてまた翌日の午後3時に出庫するのだ。勤務中は3時間の休憩が自分の自由にとれる。これを月に11~13回行うのだ。もちろん9~17時のような日勤もあるが年金もらって収入を抑えたいヒトや子育て中の主婦ドライバー向けの働き方だ。多くのドライバーは隔日勤務だ。

私は3月末で農園を辞め、4月1日に某大手グループの子会社に入社した。日本のタクシー会社は所謂大手4社、独立系中小、個人などに分かれる。大手グループ傘下の小会社は資本参加型、100%小会社、フランチャイズに分かれる。もともと独立系だった中小が大手傘下への集約化が進んだ。マネジメントの高度化が進んだことにより中小が対応できなくなって集約化が進んだのだ。特に配車アプリ「GO」や「S.RIDE」などITが入ってくると集客力が段違いになる。

入社したのはいいが私の免許証は一種免許だ。運送業に携わるには二種免許証が必要になる。私は先ず親会社が主催する訓練センターに送り込まれた。まるで軍隊のような訓練センターでタクシーの働き方を叩き込まれるのだ。諸兄はスタンリー・キューブリック監督の映画「フルメタル・ジャケット」をご存知だろうか。ベトナム戦争へ向かう若者の苛烈な訓練を描いた映画だがまさにこれだった。暴力、暴言こそないが時代錯誤な軍隊式訓練が行われた。一方で教習所が紹介され同期数名と共に送り込まれた。費用は会社持ちだ。2年間働けば無料になる。ハタチの頃、教習所に通って免許をとったがそれ以来の教習所だった。ここで実技に合格しないとタクシー会社に就職した意味がない。

約2週間で実技は合格し卒業できたが問題は学科である。95問中90点以上の正解が求められる。教習所では過去問なんかの自習時間があって間違えたところの添削などやってもらっていたのだが90点を超えることがなかなか出来ずにいた。YouTubeにも問題集があるのでやってみるといい。とにかくひっかけに引っかかるのだ。

タクシードライバーになるには二種免許証だけではない。タクシーセンターの運転者登録が必要になるのだ。登録には座学や研修が必要になり、かつては悪名高い「地理試験」が行われていた。交差点名や街道の名前、都内主要建物の立地など答えられないとドライバーは登録が叶わなかったのだ。現在ではこの地理試験はなくなり、10問だけの効果測定だけが行われる。7問以上の正解で合格だがその日のうちに補講があるので心配ない。この他、錦糸町にある自動車事故対策機構で運転テストと性格診断が行われる。

運転者登録には二種免許証の取得が必須なので学科試験の合格が何よりも重要だ。私は鮫洲で受験した。かなりの外国人受験者が見受けられた。ここでも日本は移民の国になっていくのだと実感した。練習問題はマークシートだったが鮫洲ではタブレットで問題が出題された。同期も何人か受験しに来ていた。合否の結果は試験場職員によって発表された。不合格者の番号が読み上げられ会場を去っていくスタイルで残りは合格というものだった。幸い私も私の同期も番号は読み上げられなかった。

ピッカピカの二種免許を持ってタクシーセンターへ向い運転者登録を行い運転者証を手に入れた。ゴールデンウィーク前だった。運転者登録は2年毎の更新が必要になる。待合室には戦前、戦中のお生まれと推せられる御大が更新手続きを行っていた。この業界はクルマの運転ができるならば何歳でも続けられるが高齢者の免許更新が難しくなる昨今いずれご引退されるのだろう。

翌日、タクシー会社の研修センターに行くと実際のタクシーを使って同乗者研修を行い実践練習を行う。そして私は研修センターを卒業し、晴れて所属する会社に戻ったのだった。

会社には6人の同期がいたが1人は学科試験に受からず、日々研修センターで自習の日々だった。自習室はガラス張りで周囲からの視線が厳しかっただろう。彼の初回の試験は試験すら受けられなかった。試験前の深視力検査で不合格だったのだ。深視力検査とは3本の針の真ん中が前後に移動し3本が一緒に並んだ瞬間にボタンを押す試験だ。ズレが2cm内でないと不合格になる。彼が学科に合格したのは5回目だった。

最終段階としてベテランドライバーとの同乗訓練がある。これを経てクルマ1台与えられるのだ。私を担当したベテランドライバーはおそらくこの会社のエースドライバーだ。午後3時から翌朝10時まできめ細かく指導してくれた。最初の3組のお客様だけベテランドライバーがお手本を見せてくれて以降は私の運転となった。お客様との対応だけでもテンパるがメーター操作、決済など次から次へと操作しなければならない。ひとりでやっていけるだろうか。

こうして5月4日、私は人生初のタクシー1台与えられて夕日傾く東京都内へ送り込まれた。農業とはほぼ無関係な、むしろ間逆な業界に飛び込んだ瞬間だった。年金がもらえる65歳までは何とか食いつながなければならない。貰えるのか、満額出るのか不透明な年金だが自分で踏み出した一歩だ。二種免許があれば地方のタクシー会社でも働けるだろう。いつか諸兄を私のタクシーにお乗せする機会があるかもしれない。皆さんがタクシーに乗るとき、ドライバーの人生に思いを馳せ、ふとこのブログを思い出していただければ幸いである。

最後まで読んでいただきありがとうございます。

 

Live long and Prosper. ||//_