私は高校時代全寮制男子校に3年間在学しそして住んでいたのですが、そこでは普通の人には経験できないもようがありました。
寮は学年別に3棟あり、3階建て、各部屋はそれぞれ8人、2部屋が向かい合ってその間にトイレと洗面所と階段がありました。寮から廊下を歩いて3分ほどで校舎です。
敷地は広く、運動場は2つあり、その他に寮の前に毎朝点呼が行われる広場、教師のための宿舎も敷地内にありました。
立地は都心から遠く離れ、近くの駅にはラーメン屋と本屋くらいしかありませんでした。
その上高校と寮の敷地から出られるのは月2回だけ。つまり、ラーメン屋でもやしそばを食べ、小さな本屋で本をあさるのも月2回のみ。それも舎監の先生に外出許可申請書を出し、OKの印が押された紙きれを持って出かけ、帰校した際には舎監室に報告と同時に許可証を再提出と言った厳格さです。言わば学校監獄の様でした。外泊は月1回だけでこれも申請書に親の印鑑をもらって帰る体裁でした。
まあこの辺の話は本題ではなく、問題は、この高校は学びも生活も全て周りは男だらけ、女性は食堂で朝・昼・晩の食事の調理をしてくれているおばちゃんだけ、という点です。
そうすると生徒の中に何人か自然と女っぽくなってくる奴が出てくるのです。最も分かりやすいのはしぐさと表情です。話すときに眼を相手(当然男です)に対して正面から見ることはせず斜めから見てそして正面に流す、そして相手に対して顔を引く、つまり首を曲げて相手の顔から自分の顔を離すのです。
そして歩く時は甲を上にして、腕を八の字に開く。良く小学生の女の子が歩いたり走ったりする動きです。男は普通手の甲は外側を向け、まっすぐ前後に振ります。
つまりこれは相手に対して「受ける」表情や動作と言って良いでしょう。眼を流す、顔を離す、これは相手を引く、言わば暗黙にこっちに来てと言っているようなアンバーバルアピールです。
これは女性の場合良く現れる表情・動作で、日本舞踊や歌舞伎の女形ではこの様な表情・動作で女性を表現しています。
女は男に対していつも引いているのです。気を引く、目を引く、顔を引く。というように一般化されている。これがジェンダーです。
この様な男が全寮制高校でなぜ現れるかは判りませんが、1つは男が男である証明の問題です。男の子は幼いころから周りの男の子に常に男の証明を見せろと暗黙の圧力がかかっています。
遊ぶとき、スポーツをするとき、群れるとき、常に男ごっこが繰り広げられます。
私が小学校時代良くやったのは、幅1.5メートルくらいの小川を飛び越える遊び。遊んでいる仲間全員が飛びます。飛んで向こうの岸に着地出来なかったら川に沈没です。浅いので溺れはしませんが全身ずぶぬれでしょう。
しかしここで飛ばなかったらどうなるでしょう。ああこいつはダメな奴だな、と言う烙印が仲間全員の頭の中に刻み込まれます。
飛んで水没する方がよっぽどましなのです。
もう一つは、高さが子供の頭くらいある鉄製フェンスのてっぺんの、幅5センチくらいしかない鉄製レールの上に乗ってバランスを取りながらより長い距離歩く。簡単な綱渡りのようなものです。高さが自分の身長くらいありますから、落ちたら結構危ない。
このフェンス渡りをどのくらい長く歩けるかを競うのです。バランス感覚によって子供でも歩ける距離は違い、すごい奴でフェンス全て(30メートルくらい)歩いた子もいました。
ここでもダメなのは怖くてフェンスの上に登れない奴です。小川飛びと同じく、ダメな奴だという烙印が押されてしまいます。
また急坂の上から自転車をブレーキを使わないで走り下りると言うのもありました。
坂を下り終わったらブレーキをかけて良い。
要は度胸試しですね。
こんなことを常にやっていたのです。男の子であり続けるのは大変なんです。
こんなことが出来ても真に男らしい男ではないと言われそうですが、その通り。
しかしこんな事さえ出来なければ、更に男気が必要な時に立ち向かえるでしょうか。
さて全寮制高校の場合ですが、学校だけでなく生活も常に一緒ですから、高校から家庭に戻り、家庭の暖かさの中で、あるいは親にその男として裂けた自負をいやしてもらう方法もありません。
学校の体育の時間で傷ついた男が、寮に帰ってもまた傷つけられます。この繰り返しの日々が、男であることから逃避し、安全な場所に逃げ込むための手段が「女っぽくなること」なのかもしれません。
あるいは魚の一種のように周りがオスばかりだと、オスの中にメスに変性してしまう個体が出てくるケースなのかもしれません。
ともかく今の時代は、以前のように常に男を試されながら育つ男の子が少ないのでしょう。以前は大人になってからも、集団の中でも会社の中でも団体の中でも常に男は試されていました。男としてダメな奴と烙印が押された奴は伸びていかない、リーダーとして推されない時代でした。
もうこのジェンダーフリー時代は男としての使命や義務と言ったものを押し付けてはいけなくなったのかもしれません。
ではいったいだれがこの使命や義務を担うの?それは男でも女でも強い個体、強さに自信があり、言わば弱い個体を助けなければいけないと言う使命を持つ人、と言うしかないでしょう。
女性でも強ければ弱いものを助けないといけないのです。女性の中でも強い人がたくさんいます。男でも弱ければ強い女性の助けを求めて良いのです。
しかし本音を言うと、いやだなあこんな時代。