ドジャースの大谷翔平選手が結婚しました。

この結婚は日本に新しい結婚の形を広げるかもしれません。

 

お二人にその意図は全く無いと思いますが、それは自然と浮かび上がるものです。

言わば遺伝子の相乗効果を感じさせる配偶です。

 

大谷選手が相手に「芸能人」や「女子アナ」を選ばなかったのは、ご両親の考え方もあるのかもしれませんが、

 

背が高いこと。

気持ちの良い人。

チャラチャラしていないこと。

 

そして大谷選手の相手ですから、当然美しいこと。

フィジカルも美しいこと。スレンダーで頭が小さく、手足が長い、と言う事になります。

 

大谷選手に見合う背の高い女性はなかなかいません。アスリートかモデルと言う事になるでしょう。

 

その中でバスケット選手で日本人の女性を選びました。

アスリート同士の結婚となりました。それも外見が美しく、人格も大谷選手と同様にシンプルかつ純真、素直。

 

アスリートなので運動神経は良く、体力もある。

 

この二人の遺伝子の合体はなにかワクワクする未来を予想させてくれます。

未来になにかワクワクする日本人が誕生しそうなこと、そしてまた我々を夢中にさせてくれそうなこと。

 

美男・美女のカップルは多くいますが、美男・美女でアスリートでフィジカルも美しいカップルはあまり居ません。

 

カップルが存在する姿にワクワクするとともに、未来もワクワクさせてくれる新しい形の結婚です。

 

国民国家を造り上げていない民族・地域はいかに弱いものかが、パレスチナとユダヤ人国家(イスラエル)の間に見える。第一次大戦後、オスマントルコによる緩い統一がなくなった。イギリスがこの現在のエジプトからシナイ半島、イラン、イラクまで統治下においた。この時期パレスチナにはアラブ人による国家を成立させるべきだったが、国家を成立させるリーダー集団もおらず、住民にも国民国家と言う概念すらなかった。明治維新当時の日本の一般市民と同じだと言える。


よってユダヤ人国家の必要性を必死に求めていたシオニストには歯が立たなかった。アラブ諸国はパレスチナ国家成立に力を貸すべきだったが、パレスチナに国家を求める集団やリーダーが居なかったため、国家を造ったとしても、アラブ諸国の傀儡政権になってしまう恐れがあり、その傀儡政権に対する反抗さえ生まれる可能性もあったと思う。

国家、国民国家を造るのはいかに大変な事なのか。土地があり、人が居て、生産があり、人民を導くリーダー層が居ても成らない。統合できる、人々をまとめ上げるイデオロギーが必要なのだ。

これを考えると日本を統合するイデオロギーは何か、アメリカを統合するイデオロギーは何か、中国を統合するイデオロギーは何か、ロシアを統合するイデオロギーは何か、パレスチナを統合するイデオロギーは何かを考えると面白い。パレスチナの場合あるとすると、今までイスラエルから受けた数々の殺戮・被害の歴史(ナラティブの集積)になるのかもしれない。するとパレスチナ国家成立が成立するにはイスラエルとの融和はあり得なくなる。

現在のハマスとイスラエルの戦闘を終わらせるには、イスラエルと同居するパレスチナ国家を成立させる事しかないと思われるが、パレスチナ、イスラエルともども双方の戦争・紛争による被害と憎しみを国家結束のイデオロギーに組み込んでいることから、成立したとしても憎しみあい、戦争・紛争を起こす潜在的動機は潜んだままだ。

今回の様なハマスによるイスラエル攻撃がまた起きる可能性と、イスラエルによる隠れたパレスチナに対する工作・圧力が始まるだろう。

そこに国連が関与し、イスラエルを中心に世界から支援を募り、パレスチナ人が経済駅に豊かになり、人々が幸せを得られれば、何とか戦争・紛争を抑えられるかもしれないが、根本的な問題は解決しない。

中国はかつて、人々の所得が増え、外国からの安全保障上の問題も無くなれば、平和を希求する民主国家になると世界(特にアメリカ)が予想していたが、実際は成らなかった。アフガニスタンもかつてソ連・アメリカが関与したが成らなかった。

それぞれの民族固有に、統治されるためのイデオロギーや概念や仕組みは異なり、その中で民主主義は単なる一つの選択肢でしかない。

あるいは、パレスチナ・イスラエルを抱合する新しい国家イデオロギーを作り上げるか、太古のユダヤ教、イスラム教が成立する前の、パレスチナにともに暮らしていた民族としてのイデオロギーを再発掘するかだが、そんなこと無理だと言われれば反論出来ない。

パレスチナ、イスラエルの問題はそんなに簡単に解決できる問題ではない。様々な安易な発言が世界に飛び交う、しかし世界で発言が途絶えれば放置される。

あらゆる人が、間違ったとしても、たとえパレスチナ人がイスラエル人が激高したとしても、発言し、意見し、アイデアを出すべきだ。

現在のハマスとイスラエルの間で行われているのは、それぞれのナラティブの正当性を全世界に発信していること。ナラティブの正当性は、それを信じる人がどれだけいるかによって成立します。よって世界に発信している訳です。ウクライナ、ロシアと同じ構造です。ナラティブはある意味同じ出来事に対して複数あり(今回の場合はハマス側とイスラエル側)、その複数のナラティブが淘汰され、残ったナラティブが存続します。

 

「古事記」も「日本書紀」も日本の古代ナラティブを7世紀の政権が編集したものでしょう。なので本居宣長は国学の祖というより日本ナラティブの祖でしょうか。

 

よって歴史も、淘汰の末残ったナラティブを時の権力者が編集したものです。そして現在の歴史は極端に欧米に偏っています。よってこの偏った歴史を再編集しようと言う動きが中国やトルコやイスラム世界で起こっているわけです。

ところで宗教も壮大なナラティブではないですか。新約・旧約聖書もコーランも膨大なナラティブの集積です。


宗教は人間が作り出した、世界把握のための、世界に意味を付与するための、偉大な妄想です。この妄想には他に、「貨幣」も「国家」も「民族」も「家族」もあります。つまり物的世界には無い、それぞれ人間が創り出した抽象的概念による「意味世界」の一部を構成するものです。

 

人間は物的世界(重力とか物質とか温度とか食料とか)に縛られながらも、意味世界を生み出したおかげで、物的世界を乗り越えることが出来たのです。

ある意味人間は物的世界と意味世界の混じりあった世界を作り上げ、生きているわけです。

なぜガザの市民はイスラエルに攻撃され、子供や女性を殺され、傷つけられた、にも関わらずハマスを支持するのでしょうか。ガザ市民のハマス支持は今でも高いようです。

 

ここが一番の疑問です。イスラエルをハマスが挑発すれば、その反撃がガザ市民に及ぶことは解っているはず(この種の報復は一般市民を標的にしないと意味がない)です。これはウクライナでも同じことが言えます。

なのにイスラエルを挑発・攻撃などどいう、合理性から言ったら意味不明な行為を行ったハマスを支持するのでしょうか。

 

これはこう考えないと理解できません。つまりガザ市民は自分達(子供や女性)の命よりもハマスのあるいはガザのイデオロギーの方が大事であると。イデオロギー、つまり自分たちがガザで生きている意味です。これに比べたら自分たちの命などどうってことない。

ここで男は、生きる意味が存在・命になく、むしろ行為・何をするか、にあるので、ガザイデオロギーのために戦って死ぬのは当然のことでむしろ喜ばしいでしょう。よっていくらガザの男を殺してもその男の名誉になってしまうので、イスラエル側にとっては逆効果です。だから女・子供殺すことが報復の最も効果的な方法になるのです。これはウクライナでもロシアによって行われていますね。

よってある意味ガザの市民がいくら殺されても、封鎖されても、武力で脅されても、逆にガザが解放され、同じイスラエル市民となったとしても、この問題は解決されないでしょう。


解決策はただ一つ、ガザイデオロギーを叶えさせることしかない。

このガザイデオロギーの目的や意味はハマスやガザの人々に聞いてみないと分からないのですが、イスラエルはたぶん知っているでしょう。

人間はナラティブによって世界を創りました。そして、それによって進化した、それによってネアンデルタール人に勝った。なのでナラティブは人間と言う種の根源的な力であり、世界であり、当然人間の命よりも重いのです。

 

ホモサピエンスは集団を作ることにより、その集団のコミュニケーション手段を生みだすことにより、集団の団結を固めることにより、数々の敵や困難に打ち勝ってきました。


そして人間の個々の小さな集団も、それぞれのナラティブによって集団の団結と統制を達成したのでしょう。宗教は人間の集団の団結と統制の土台です。ガザイデオロギーを失うことは、ガザで市民が単独で生きる事であり、個人がすべてバラバラになることです。これでは人間とは言えません。当然ユダヤ教徒も同じです。さらに強烈なナラティブを持っているのがユダヤ人です。

これを考えると一神教の根源的問題が浮かび上がります。カトリック・プロテスタント・イスラム・ユダヤ、全ての一神教はこの人間をがんじがらめに縛る過去からの壮大なナラティブの上に成り立っている。

 

その意味で多神教の八百万の神を思う日本人は扱いやすいでしょう。占領下のアメリカ人が一番よく知っているかもしれない。

そしてある意味これからの世界で生き抜ける民族かもしれない。

私は高校時代全寮制男子校に3年間在学しそして住んでいたのですが、そこでは普通の人には経験できないもようがありました。

 

寮は学年別に3棟あり、3階建て、各部屋はそれぞれ8人、2部屋が向かい合ってその間にトイレと洗面所と階段がありました。寮から廊下を歩いて3分ほどで校舎です。

 

敷地は広く、運動場は2つあり、その他に寮の前に毎朝点呼が行われる広場、教師のための宿舎も敷地内にありました。

 

立地は都心から遠く離れ、近くの駅にはラーメン屋と本屋くらいしかありませんでした。

 

その上高校と寮の敷地から出られるのは月2回だけ。つまり、ラーメン屋でもやしそばを食べ、小さな本屋で本をあさるのも月2回のみ。それも舎監の先生に外出許可申請書を出し、OKの印が押された紙きれを持って出かけ、帰校した際には舎監室に報告と同時に許可証を再提出と言った厳格さです。言わば学校監獄の様でした。外泊は月1回だけでこれも申請書に親の印鑑をもらって帰る体裁でした。

 

まあこの辺の話は本題ではなく、問題は、この高校は学びも生活も全て周りは男だらけ、女性は食堂で朝・昼・晩の食事の調理をしてくれているおばちゃんだけ、という点です。

 

そうすると生徒の中に何人か自然と女っぽくなってくる奴が出てくるのです。最も分かりやすいのはしぐさと表情です。話すときに眼を相手(当然男です)に対して正面から見ることはせず斜めから見てそして正面に流す、そして相手に対して顔を引く、つまり首を曲げて相手の顔から自分の顔を離すのです。

 

そして歩く時は甲を上にして、腕を八の字に開く。良く小学生の女の子が歩いたり走ったりする動きです。男は普通手の甲は外側を向け、まっすぐ前後に振ります。

 

つまりこれは相手に対して「受ける」表情や動作と言って良いでしょう。眼を流す、顔を離す、これは相手を引く、言わば暗黙にこっちに来てと言っているようなアンバーバルアピールです。

 

これは女性の場合良く現れる表情・動作で、日本舞踊や歌舞伎の女形ではこの様な表情・動作で女性を表現しています。

 

女は男に対していつも引いているのです。気を引く、目を引く、顔を引く。というように一般化されている。これがジェンダーです。

 

この様な男が全寮制高校でなぜ現れるかは判りませんが、1つは男が男である証明の問題です。男の子は幼いころから周りの男の子に常に男の証明を見せろと暗黙の圧力がかかっています。

 

遊ぶとき、スポーツをするとき、群れるとき、常に男ごっこが繰り広げられます。

 

私が小学校時代良くやったのは、幅1.5メートルくらいの小川を飛び越える遊び。遊んでいる仲間全員が飛びます。飛んで向こうの岸に着地出来なかったら川に沈没です。浅いので溺れはしませんが全身ずぶぬれでしょう。

しかしここで飛ばなかったらどうなるでしょう。ああこいつはダメな奴だな、と言う烙印が仲間全員の頭の中に刻み込まれます。

飛んで水没する方がよっぽどましなのです。

 

もう一つは、高さが子供の頭くらいある鉄製フェンスのてっぺんの、幅5センチくらいしかない鉄製レールの上に乗ってバランスを取りながらより長い距離歩く。簡単な綱渡りのようなものです。高さが自分の身長くらいありますから、落ちたら結構危ない。

 

このフェンス渡りをどのくらい長く歩けるかを競うのです。バランス感覚によって子供でも歩ける距離は違い、すごい奴でフェンス全て(30メートルくらい)歩いた子もいました。

ここでもダメなのは怖くてフェンスの上に登れない奴です。小川飛びと同じく、ダメな奴だという烙印が押されてしまいます。

 

また急坂の上から自転車をブレーキを使わないで走り下りると言うのもありました。

坂を下り終わったらブレーキをかけて良い。

要は度胸試しですね。

 

こんなことを常にやっていたのです。男の子であり続けるのは大変なんです。

 

こんなことが出来ても真に男らしい男ではないと言われそうですが、その通り。

しかしこんな事さえ出来なければ、更に男気が必要な時に立ち向かえるでしょうか。

 

さて全寮制高校の場合ですが、学校だけでなく生活も常に一緒ですから、高校から家庭に戻り、家庭の暖かさの中で、あるいは親にその男として裂けた自負をいやしてもらう方法もありません。

 

学校の体育の時間で傷ついた男が、寮に帰ってもまた傷つけられます。この繰り返しの日々が、男であることから逃避し、安全な場所に逃げ込むための手段が「女っぽくなること」なのかもしれません。

 

あるいは魚の一種のように周りがオスばかりだと、オスの中にメスに変性してしまう個体が出てくるケースなのかもしれません。

 

ともかく今の時代は、以前のように常に男を試されながら育つ男の子が少ないのでしょう。以前は大人になってからも、集団の中でも会社の中でも団体の中でも常に男は試されていました。男としてダメな奴と烙印が押された奴は伸びていかない、リーダーとして推されない時代でした。

 

もうこのジェンダーフリー時代は男としての使命や義務と言ったものを押し付けてはいけなくなったのかもしれません。

 

ではいったいだれがこの使命や義務を担うの?それは男でも女でも強い個体、強さに自信があり、言わば弱い個体を助けなければいけないと言う使命を持つ人、と言うしかないでしょう。

 

女性でも強ければ弱いものを助けないといけないのです。女性の中でも強い人がたくさんいます。男でも弱ければ強い女性の助けを求めて良いのです。

 

しかし本音を言うと、いやだなあこんな時代。

最近日本人の根底にある病根として思うのはビックモーターとジャニーズ事件。

マスコミやSNSはビックモーターの社長や副社長、あるいはジャニーズ事務所のジュリー社長に対する批判を始めたが、それより違和感を感じるのは、ビックモーターの社員とジャニーズ事務所のタレントだ。

 

ビックモーターの社長や副社長、あるいはジャニー喜多川のような男は昔から幾万といる輩。能力ば別として100人仕事で出会えば、誰でも一人くらいこの様な男には遭遇しているはず。

 

違いは権力を握ってしまったことくらい。

 

この様な男が権力を握る道筋では、様々な人達がこのような男を吟味し、選ばれる人間たるか選別をする。

 

つまり、ゴルフボールを車にぶつけるようと思う前に、その行為自体、あるいはそれを仕向けた人間に対する、個としての人間の吟味と自身の個として立つプライドに照らし合わせる必要がある。

 

その上でゴルフボールをぶつけたのなら、それはその人間個としての責任であり、誰に命令された、あるいは唆されたとしても逃れられない。

 

ビックモーターの社長や副社長の責任は別にあるが、その指示(指示が無い場合もあるが)に抗いもせず従った、あるいは自発的に忖度した、社員の人間としての尊厳はいかなるものなのか。

 

日本の男がこの様な人間になっていまったことが、根本的な問題である気がする。日本の男はすでに「男」ではないのかもしれない。

 

ジャニーズ問題でも、200回も犯されたと発言する元ジャニーズ。小男で非力なジャニー喜多川に対し、抵抗しない、受け入れる、射精してしまう。これが200回行われたと言う事をあからさまに表明するこの人間。

 

なにかこの事実に関して考えること自体がうんざりする今の男たち。

 

ある国家が衰亡する時、その原因の根は国民の劣化にあると言う人達が多く居た。

これからの親は子供に良い教育を受けさせ、良い大学に入れ、良い職業に就く事を目指して努力するのではなく、子供が結婚して子供をもうけるようにありとあらゆる努力をするようになるのかもしれない。


放っておくと、現在の子供は結婚を望まず、出産も子育ても避ける大人に育つ可能性が高い。


すると生命の基本的な存在意義である繁殖及び子孫を残す事が出来なくなり、親の人生や努力の意味を喪失してしまう。


親自身の人生が有意義で幸福なものであれば、子供にその子供が生まれなくてもそれで良いと言う親も居るかもしれないが、その自分の子供の人生が有意義で幸福なものであると断定できる親は少ない。


これからは受験教育や英語教育ではなく、他者との友好関係における気持ちよさや満足感、異性との交流の充実感を経験させること、そして夫婦になること、そして子供をもうける事、子育てすることの幸福感を親自ら子供に示していかなければならないのかもしれない。


しかしこう書いて見ると、その難しさが明確に解ってくる。この時代は夫婦になること、子育てすること、の幸福と最も遠い時代である。

その理由はホモサピエンスの未来にある。ホモサピエンスの遺伝子存続とホモサピエンスの繁殖に目的が見えてこないこと、これ以上ホモサピエンスが繁殖しても良いことがありそうもないこと、ホモサピエンスの進む先に光が見えないこと、が理由としてある。


立ち止まって今考えてみると、正直言ってホモサピエンスの存在目的とはなんであろうか。ホモサピエンスは地球と言う星は既に覆いつくしている。

ホモサピエンスはフロンティアを喪失している。火星移住者でも出てこないとだめな

のでは。

プーチンはウクライナ侵攻で、地球的に、全世界の人間に対し大きな「覚醒」を与えた。その意味で歴史に大きな存在感を残すだろう。

それは、あれほど人間の存在と幸福と生命が保障され、それが第一義として、他の何にも侵されることのないものとして語られた「今」の世界に、死があれほど軽く、簡単に、あっけなく起きる事象を出現させたことである。そして戦士や民間人の死や拷問があちこちにころがり、それを横目で見ながら、いやおうなしに次の行動に向かうウクライナの戦士や民間人の人々である。

あの拷問された戦士や民間人、殺された戦士や民間人。ミサイルを落とされた戦車の中で命を落としたボロ布の様な戦士。実質プーチンの命の何万分の一の価値も無いかのようなロシア兵の命。こんなことがあっていいのか、こんなことが起きるのか。

今、たまたま平和で戦禍の上にいない人達、一応その生命を重大なものとして扱われている人達、政府や政治家や大統領や首相は自分達国民のために日夜懸命に努力していると思っている人達。その人達が、それが真の姿でなく、偽りに覆われた姿であることを、知ってしまった人達に、変わったのだ。

政府が軍上層部が大統領が指を動かすだけで、あるいは匂わすだけで、何万人と言う人達が軽く、簡単に、あっけなく、ボロ布の様死んでいくのである。そして更に飲み込みがたいのは、兵士はその死を怖がることもなく、また平然と戦いに赴くのである。

我々は騙されてきた、そう悟った、目覚めた人達は世界中に居る。歴史は変わるだろう。

これは落語に由来した創作です。

ある年老いた夫婦が、生涯の善行により天国に召されました。

二人は蓮の花が絢爛と咲く池の前の黄金の伽藍の縁に座し、毎日見事な蓮を眺めていました。


じいさん「ばあさん、見事な花じゃな。生きている時は見だごとが無がったど。」
ばあさん「ほんじゃー見事じゃ。」
じいさん「ばってんこの池をもう一年眺めちょるが、まったく動かん、変わんねぇ。」
ばあさん「いつ見ても見事に咲いちょる。枯れることはねぇのか。」
じいさん「当りめえじゃ、ここは極楽じゃど。後ろの寺もいつも新品のピカピカじゃ。錆びることはねえんだ。」

二人はなんだか飽きてきた。

家に帰ると、食べたいものは、てんぷらだろうが鮑だろうが鰻だろうが出てくる。
二人は存在を知らないが、トリュフだろうがフォアグラだろうが宮崎和牛のステーキだろうが望めば出てくる。

しばらくはあまりにおいしいのではしゃいで食べていたが、しばらくすると飽きてきた。そこで、生きている時にいつも食べていたなつかしい、いわし、粟、芋もお願いして食べてみた。久しぶりにおいしかった。生きている時を思い出した。

じいさん「ばあさん、やはり芋はいいのう。ねっとりとのう。甘いわ。」
ばあさん「うまいのう。生き返るのう。」

しかしそれもしばらくすると飽きてきた。蓮の池の前も飽きてきた。

しょうがないのでばあさんは洗濯でもしようかと。桶を井戸のそばに運んだ。
すると、いつも二人の世話をする丙吉という男が、その桶をうばっていき、こう言った。
丙吉「極楽では洗濯などするもんでねえ。おらに任せとき。」

極楽では洗濯も掃除もできん。二人は困ったあげく、相談した。
ばあさん「じいさんよ。もうしょうがねえもんだから、二人で死ぬかあ。」
じいさん「ばっが、わいらはもう死んじょるが。今さら死ねん。」

ところが丙吉にも複雑な事情があった。
今まで地獄に居たのだ。そして火炎地獄、油地獄、爪抜地獄、に日々痛めつけられてきた。
最初はそのあまりの痛みでわめきちらし、拷問が終わっても痛みで寝られない日々が続いた。
しかし3年ほど過ぎると、慣れてきた。今まで失神するほどの傷みだったのが、失神しなくなったかと思ったら、痛みもそれほどではなくなり、今では拷問の最中にかわら版も読めるほどになってきた。

そしてまた3年ほど経つと拷問にも飽きてきた。


丙吉は困った。拷問よりも辛かった。


そこで閻魔様に願い出て、極楽で働くことにした。
極楽に召された善行の人達のために奉仕をすることによって、日々の喜びを少しでも味わえればとの思いだった。

極楽のじいさん、ばあさんはどうにもこうにもになってしまい、しまいに丙吉にこう漏らした。


じいさん「わいらはここじゃどうにもならん。なんとかいい知恵はあらんか。」
丙吉「それはたいへんじゃあ。なんとかなあ。う~ん、そうじゃ、わいもここに飽きてきたとこじゃけ、ともに地獄にでも落ちるかあ。拷問はつらいぞう。」
ばあさん「拷問でもなんでもここよりはましじゃあ。落としてくれ、落としてくれ。」
じいさん「そうじゃあ、そうじゃあ。」

そして三人は閻魔様に願い出て地獄にともに落ちていった。

 

地獄がないと極楽も成り立たないのです。その逆も。

人間は親しさによって使う感覚が違ってきます。親しさは距離感に比例します。距離感によって使う人の五感が異なってくるのです。

 

五感は視覚聴覚臭覚触覚味覚ですね。

 

道や繁華街、駅のホーム、広場などにたくさん人が集まっていますね。ほとんど知らない人達です。赤の他人です。

 

この人達の存在を知るのは「視覚」です。眼で人が居ることを認識する。

よほど近くに居ない限りその人の「話し声」は聞こえてきません。

 

ある程度距離がある場合聴覚ではなく視覚が頼りなのです。しかし人が集まっている事によって生じる雑音は聞こえますね。

 

では「聴覚」はどこで使うのでしょうか。「話し声」として聞こえる距離はぜいぜい5メートル以内ではないでしょうか。呼びかけるのではなくちゃんと会話出来る距離は1メートル以内でしょう。声によるコミュニケーションが人との間で成立します。

この相手は話をするくらいですから知っている人でしょう。特別な場合を除き赤の他人ではありません。しかしこの距離では嗅覚は使わないでしょう。

 

「嗅覚」はと言うと、相当近づかないと匂いは分かりません。匂いをまき散らかせている特別な人を除き、相手に10センチくらい近づかないと匂いはしないでしょう。

 

この10センチの距離、相当親しくないとこの距離は取れません。

この距離を取れるのは家族、恋人、夫婦、そして親密な友人くらいですか。

 

つまり距離が近づくにつれ、「視覚」「聴覚」「臭覚」と変わってくるのです。

10センチの距離では視覚はあまり役に立ちません。目の前の鼻とか眼しか見えません。聴覚もこの距離では声が大きすぎて、ささやきなら別ですが、耳が痛くて迷惑でしょう。

 

このかなり親密な相手とのこの距離では、人は「臭覚」でコミュニケーションしていると言ってよいのではないかと思います。人の匂いには様々な伝達要素が含まれています。ある種のホルモン分泌、アドレナリン分泌、体液分泌が匂いとなって周辺に漏れてきます。

 

この匂いによってその相手の免疫系、緊張度、親しみ、欲望までも分かってしまうのです。親しい相手を判別する時にこれほど役に立つものはありません。

 

そう、ほとんどの場合この距離は性的な距離なのです。

 

子供は小さい頃は抱っこしたり、頬ずりしたり、キスしたり、匂いを嗅ぐチャンスがたくさんありますが、小学生ともなると嫌がられますよね。

 

子供の匂いを嗅ぐと、同じ血が流れている証拠が得られます。その子供の免疫系が匂いとなって発散されるからです。免疫系は個体に固有のもので唯一無二なものです。

 

男女はこの免疫系の匂いで好みを選択するのです。自己とは異なる免疫系を持つ相手に好意を持つのです。生殖によってその子供が免疫の多様性を確保するためだと言われています。

 

「触覚」「味覚」はどんな相手に使われるのか、これはお分かりの様に、性的な接触だけですね。距離はほぼゼロです。密着です。

 

ですから「臭覚」「味覚」を使える相手とはかなり親密な相手だと言う事です。

 

あなたは人の匂い嗅いでいますか、嗅ぐ相手居ますか?

 

もし居ないならもう一つこれを許される相手が存在します。

そうペットです。ペットは人間以外、匂いを嗅いだり、抱きしめたり、なでたりできる唯一の相手です。だから貴重ですね。

幸せが何かについては人によって異なる。


お金をたくさん持っている事と言う人
絶大な権力を持っている事と言う人
たくさんの人に好かれ、影響力を持っている事と言う人

しかし世界第2位の資産家のイーロン・マスクが幸せかと言うとそうとは思えない。
国家的権力を持つプーチンや習近平も幸せではないでしょう。
広末涼子もこの今は幸せからは遠いかもしれない。

今流行りの「FIRE」のFIはファイナンシャル インデペンデンス、これはとても欲しい。経済的な独立性ですから、会社から首になってもやっていけるくらいの資産を持つ。ビクビクしなくて良い。

 

しかしREのリタイア アーリィはどうも違うらしい。リタイアした人は仕事関連の人間関係、達成感、生きがいが無くなり、苦しくなってきて、再度起業したり企業に入ったりするそうです。

結局、仕事をする上での人との接触や達成感や生きがい、そしてそれに伴うストレス、言わばプーチンのヒリヒリする様な現実のリアリティとスリルと苛立ち、芸能人の多くの人に注目される喜びと圧力、これが幸せを表裏で構成している様で、

一面的な幸せと言うものはなく、辛さや苦悩と共でないと有り得ないのが幸せかもしれません。

ここでまた別に「気分」と言う言葉がある。

幸せはある意味意識的で合理的な自己観察からなる観念だが、気分は合理的でも意識的でもない、ある意味脳内物質の分泌によって起きる様な気がする。ドーパミンやオキシトシンが有名。これが何かのきっかけで分泌され気分が良くなる。

意識的合理的な幸せ感よりも人を大きく動かすのは「気分」。気分良く一日あるいは毎日を過ごせたら真の幸せなのでは。じやあ薬物か、と言われそうだが。

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今の社会ではお金と交換できないものが少なくなっている。友情や愛情でさえもお金で買える時代。人を動かす力は死の恐怖に次いであるかもしれない。
しかし「幸せ」とは何であろうか?
これは人によってかなりの違いがあるものである。
お金の心配がなく生活できる事が幸せと考える人もいる。
お金を使って人を動かす事が幸せとする人が居る。
多くの人に囲まれ交流があり親しまれる状態を幸せと言う人もいる
あるいは少数でも心底信頼でき、心を通わせることのできる人を持つことが幸せと思う人もいる。
また多くの人を自分の考え通りに行動させる力、多くの人を自分になびかせる力のある事を幸せとする人もいる。プーチンか習近平ですか。
あるいはいい気分で毎日を暮らせることが幸せと考える人もいる。これはたとえお金が無くとも、友も居なくても、家族が居なくても、愛する人が居なくても、毎日素晴らしい空を見ることが出来れば最高の気分になれる人がいる。

毒蝮三太夫さんが言っていましたが、ある老人にラジオ番組で相談されたそうですが、その人が「いつもお金が無くて不安で不安でしょうがない。どうしたら良いのか。」と言う相談だったらしいのです。その人は賃貸不動産をたくさん持っていて、相当な収入と資産がある。なぜお金で不安なのか、お金があっても実は不安は消えないのです。毒蝮さんは暇だからそんなことを考えてしまうのだから、仕事でもすれば良い。仕事をすればそんな不安を抱える暇はない、と答えたそうですが。

お金があっても権力があっても人気があっても幸せにはなれないらしい。
私は空が一番良いと思っています。 

素晴らしいそれを見ると脳内に必ず何かが分泌される。