卒論研究でオリジナリティを追究すれば、必ず憎悪の心が生まれる | 赤ちゃんわんこの超かわいいこいぬさん、大学時代の卒業論文を掲載!!

赤ちゃんわんこの超かわいいこいぬさん、大学時代の卒業論文を掲載!!

大学時代の卒業論文を掲載する目的で、本ブログを運営します。
2024年8月31日ブログ定期更新終了。不定期の更新は続ける方針です。

卒論研究室の魂胆が科学研究の遂行に好都合な兵隊の徴集であることは、以前のブログに述べたと思う。本来は、学部で学んだ知識・技術・思考の集大成として卒論に取り組むので、教育の機能としては、卒業実習であって良いし、本来はそうあるべきである。オリジナリティではなく、学習の成果を、実は予め結果が明かされたテーマにて挑み、試し、時には挫折し、深く学ぶのだ。それこそが、集大成のはずである。

 

ところが、昨今の大学の大半は、それを、「オリジナリティのある研究であること」などと学内規定で定義してしまうから、科研費プロジェクトの一環として、一秒でも早く結果を出し、学会発表や論文作成の駒になるように、昼夜問わず装置のうなる実験台で動き回ることになり、教授陣より激烈極まる暴圧を受けることになるのである。そこには、自然科学への探求だとか、技術革新への大志などというものはなく、素人でも一目瞭然なる、血を血で洗う闘技である。競争相手への、ではなく、研究室内での、である。教官の指示に対する飲み込みが早く、器用に実験をこなし、データを提出し、好まれる範囲での見解を述べ、こいつはずば抜けていると言われることが大事になる。いずれも科学研究のプロフェッショナルになるためには不可欠な要素だが、もし、不適格な学部生が配属されようものなら、お前から来たんだよな、となり、何もできないゴミ屑と認定され、研究報告や文献輪読で徹底的な吊し上げと誹謗中傷のオンパレードが待ち受けている。 そして、泣き崩れそうになる生け贄を見て、奴らは優越感に浸る。

 

そんな生活を数ヶ月強いられると、命を削った受験戦争に勝って、当時は入ることすら奇跡だった学部に入り勉学に励んでも、全てが時間の無駄だったように思え、しまいにその学問に嫌気がさしてくる。嫌気くらいならまだ良いが、自ら望み学んできた学問が、ハラスメントなど犯罪の温床ではないか、このような陰湿な腐敗物が社会に還元されるわけがない、という理解に達し、その学問への憎悪が生まれるのである。その憎悪の結果、私は、大学院時代、アプローチも、進め方も、まるで別世界の生活を過ごすことになった。この時間がなければ、ただの憎悪で終わっていたと思う。しかし、この時間のおかげで、憎悪を超えた愛しさを思えるようになった。この時間がなければ、学部の卒業研究のキーワードを目にしただけで、老体に発作を来していたに違いない。

 

オリジナリティを追求する卒業研究、特に実験を要する研究においては、警戒が必要である。そして、心に警報を鳴らせ。ほとんどの学生に待つのは、憎悪の心が生まれるという絶望の現場である。そして、後々の人生に、巨大なトラウマとなり、自信どころか諦観を財産にすることになる。私の脳裏には、今日も、卒論時代の教官その他の人々が、私のことをあざ笑っている。大学院時代のおかげで随分と緩和されたが、そうでなければ、鉄格子の入った精神病棟で、私はうわごとを言いながら、涎を垂らしていたことだろう。