長野オリンピックと聞いて多くの日本人が思い出すのは、雪が降りしきる中でのスキージャンプ、原田雅彦選手の「フナキ~」、スピードスケートの清水宏保選手、同じく岡崎朋美選手の「朋美スマイル」などではないでしょうか。

一方で、ホッケー界ではこのオリンピックは特別な意味を持っていました。というのも初めてプロ選手のオリンピックへ参加が認められたのです。各国ともNHLのスター選手を中心としたドリームチームで、大会そのものがドリーム・トーナメントと言ってよかったでしょう。

カナダはウェイン・グレツキー (Wayne Gretzky) やパトリック・ロワ (Patrick Roy) など、そうそうたる顔ぶれで「これで優勝できないわけがない」と誰もが思っていたのではないでしょうか。

ソ連対チェコスロバキアによるオリンピック決勝を観たいという長年の夢とこの顔ぶれによるカナダのオリンピック優勝を観たい。ふたつの願いのうちそのどちらかしか叶わない。とても複雑な気持ちでした。

 

カナダは滑り出しはその強さを見せつけていたものの、どの試合も、私の気のせいか、なんだかパッとしないように感じていました。

そして、初めて生で見るNHLのスター選手たちに胸をときめかせながらの準決勝、対チェコ戦。1対1の同点のままシュートアウト(サッカーでいうPK戦)となり、カナダがこれを失敗したら敗退という最後の一人は観ていられない思いでしたが、指の間から覗くようにして、どうにか見届けました。失敗。

翌日の3位決定戦も精彩を欠くカナダはフィンランドに敗れました。

 

(ファンの応援も虚しく...)

 

(カナダ対チェコ)

 

NHLのほとんどの記録を持っていたようなグレツキーが唯一持っていないのはオリンピックの金メダルと言えるかもしれません。そのグレツキーを生で見ることができたのは私にとって大きな財産です。そのあらゆる面での素晴らしさは私が説明するまでもありません。ただ、残念だったのはそのグレツキーが十分にその真価を発揮できなかったのではないかと思ったことです。グレツキーが予想もしなかったところに走っても、そこにパスは来ない。エドモントン・オイラーズ (Edmonton Oilers) でいつも組んでいるチームメイトだったらそこにパスを出していたのではないか、と思う場面が何度もありました。自分がパスを送る相手よりもその相手が次にどういう動きをするか、その相手本人よりも分かっていると言われたグレツキー。グレツキーのそういうパスが得点に繋がる場面はなかったように思います。

 

もう一つの準決勝ではロシアがフィンランドに勝って、決勝に進出しました。

決勝はチェコ対ロシア。

チェコスロバキアとソ連によるオリンピックの決勝戦を観るという長年の夢。それぞれ国は変わってしまいましたが、夢が実現したのです。

試合は期待通り、ではなく、期待とはまったく異なるものでした。私の中では…

1対0の結果でしたので、おそらく両チームとも一歩も譲らない息詰まる熱戦だったのでしょう。この試合を観ていた友人も「チェコに勝たせたかったから、いつ点を取られるかとヒヤヒヤしてたよ」と言っていました。私もそのような熱戦を観たいと思っていました。しかし、実際にはまったく違う気持ちでいました。流れるような選手の動きに惚れ惚れとし、ゆったりした心地良さの中で、いつまでもいつまでもこの美しい音楽を聴いていたい。いつまでもこの絵画を眺めていたい。そんな気持ちでいました。気がつけば、その美しさに試合の途中で涙がこぼれていました。それは夢が叶ったという嬉しさではなく、この美しさへの感動によるものと言って良いでしょう。

応援するチームが優勝した嬉しさで涙することはあっても、激しいホッケーの試合を観て涙が出てしまうなんておかしいですね。

 

試合前のリンクサイドにはロン・マクリーン (Ron Maclean) とドン・チェリー (Don Cherry) の姿がありましたが、この二人がどういう人かを知る人はいないようでしたので、楽にサインをもらうことができました。後にカナダの友人から「カナダだったら人だかりがして大変だよ」と言われました。

カナダではホッケーの試合中継が「ホッケー・ナイト・イン・カナダ」(Hockey Night in Canada)という一つの番組になっています。スタジオにお馴染みの司会者とコメンテーターが何人かいて、試合の前後や休憩時間に試合や選手、得点場面の振り返りなどについて解説します。その司会者がロン・マクリーンで、1986年からといいますから、もう40年近くになります。カナダのホッケー中継の顔と言って良いでしょう。そして、その休憩時間の名物なっていたのがドン・チェリーによる5分ほどの “Coach’s Corner” でした。元ボストンのコーチとして知られているこの人の毒舌による解説と奇抜なスーツ姿が人気でした。今はもうやっていません。

 

 

勝敗でも、点数でもなく、ただ純粋にホッケーという競技の美しさに感動した日でした。

 

成田空港のあちこちに掲げられた歓迎の看板を目にし、長野へ向かう前からすでに「オリンピックの空気」に包まれているような気持ちでした。

 

このオリンピックには1979年にモントリオールで出会い、50年近く経った今でも親交を続けているホッケージャーナリストのデニス・ギボン (Denis Gibbons) さんがアメリカの放送局CBSの一員として来日しました。ギボンさんとはその後の1993年にモントリオールで会って以来5年ぶりの再会です。

 

ギボンさんが到着する日、成田空港に行きました。

到着出口から続々と出てくる人人人…おそろいの上着や首から下げているカードなどから、ギボンさんと同じくCBSの関係者だと思います。その全員が送迎バスに向かって進むなか、その流れから離れて真っ先に出迎えの人を見回す男性。ギボンさんでした。

関係者の東京行きのバスに私も乗せてもらえるようギボンさんが交渉してくれましたが、もちろん許されませんでしたので別々に東京都内へ行きました。

そして、夕食を共にし、翌日それぞれ長野へ向かいました。

 

私は長野に2泊3日で行きました。

新幹線の長野駅はオリンピック一色でしたが、駅の周りを見渡すと大きな街ではなさそうでした。世界中の視線が集まる大会なのに駅前の土産物店はプレハブやテントで、どこにでもよくあるお祭りや縁日のようでした。その素朴さに肩すかしを食った気がしました。

 

そして「オリンピックがなければ閑散としているのかな」、「オリンピックが終わったらどうなるんだろう」などと余計なことを考えてしまいました。

 

オリンピックではIBC (International Broadcasting Center : 国際報道センター)というものが設置されます。懇意にしていた放送関係者の好意で中に入れてもらったのですが、報道に必要なありとあらゆる設備が整っています。各放送局のスタジオ、データを調べられる端末、誰でも使えるPC(まだ誰もがPCを持ち歩く時代ではありませんでした)、レストラン、郵便局などなど。一つの街という感じでした。

 

試合を観る合間に善光寺に行きました。

その境内に、明らかに寺の歴史とは無関係な塔が建っていました。なんだろうと思って近づくとそれはアメリカの放送局のスタジオだったのです。そこで善光寺本堂を背景にして毎日オリンピック放送をしていたのでしょう。また、CBS放送はこのオリンピックに1,000人以上の関係者を送り込んだそうです。

放送用の塔を境内に建てることを善光寺が簡単に承諾したのかどうかは知りませんが、そこまでやってしまうオリンピック。その規模の大きさやさまざまな面での重要さを実感したのでした。

オリンピックは回を重ねるごとに参加する国や地域が増え、施設や設備も膨れ上がっています。1964年の東京、1972年の札幌は、いずれも開催を機に街が発展しました。しかし今は、もはや発展途上の都市がオリンピックを招致することはほぼ不可能なほど規模と費用が必要になっています。長野のその後はどう考えるべきなのでしょう。

 

長野での三日間、ギボンさんと毎日会いました。取材で忙しい中、時間をとってくれました。

 

ギボンさんはヨーロッパのホッケー事情に通じているので、このオリンピックだけでなく、他のさまざまな大会でもヨーロッパ・チームの情報を放送関係者に提供したり、自身でホッケー関係の記事を書いたりしています。堪能な語学を活かして各国の言葉で取材ができるのがギボンさんの強みです。

私にもヨーロッパのホッケーのことをいろいろ話してくれ、また各国が報道関係者用に発行する選手のことなどが書かれているメディアガイドや終わった試合のスコアシートなどをくれました。

 

余談ですが、善光寺に行ったときに、人だかりがしていたので見に行くと、前夜女子フィギュアで金メダルを獲得したリピンスキー (Tara Kristen Lipinski) 選手がいました。

 

金メダルのお礼をしに行っていたのでしょうか?ご本尊が英語を理解できるのかどうかは分かりませんが…

 

香港に赴任して5年目の1998年に日本の長野で冬季オリンピックが開かれました。

ホッケーに目覚めてから、ヨーロッパのホッケーにも関心を持つようになりました。

ロシア、チェコ、スエーデン、フィンランドなどの国の選手がNHLで活躍するようになっていたもののまだ国ごとの特徴があったと言って良いでしょう。

 

1968年のグルノーブル・オリンピックで名勝負を演じたと言われるソ連対チェコスロバキアによるオリンピックの決勝戦を観ることが一つの夢になっていたので、それを叶える絶好の機会でした。

その当時、ソ連はオリンピックと世界選手権で32試合負け無しという圧倒的な強さを誇っていました。また同じ1968年には、「プラハの春」と呼ばれるソビエトの軍事侵攻が起こり、チェコスロバキアのソ連に対する敵対感情が高まっていました。このグルノーブル・オリンピックで、チェコスロバキアはカナダに敗れ、スエーデンと引き分け、金メダルはソ連が獲得しましたが、ソ連に対しては5対4で勝利をあげたのでした。

 

長野オリンピックには「プラハの春」で父親を亡くした悲しみと、その出来事を決して忘れないためにNHLで背番号68をつけていたヤロミール・ヤーガー (Jaromir Yagr) 選手もチェコ・チームの一員として参加していました。

そのような因縁のある両国の対戦を観たいと思い続けていました。

もちろん、「ソ連」と「チェコ」が決勝に進むかどうかは分かりません。しかし、オリンピックのホッケーを生で観られるだけで、私にとっては十分嬉しいことでした。

 

欧米でのオリンピックやカナダカップ(他のスポーツのワールドカップに相当します)は、行くのが大変なこと以上に、切符を手に入れることはまず不可能と言って良いでしょう。しかし、ホッケーへの関心が薄い日本なら切符が手に入るかもしれない。日本で関心が高いのは日本人選手が活躍しそうなフィギュアやジャンプです。そこで、取引先の広告会社や旅行業者を手当たり次第あたったところ、幸いにも決勝と準決勝2試合の切符を手に入れることができました。決勝戦は東京からのバスの往復付きの観戦ツアーでした。日本で一緒にホッケーをやった仲間たちもこのツアーで決勝を見に行くことになっていたので、彼らに会うも楽しみでした。

 

オリンピックのホッケーを観ることができるのはおそらく私にとってこれが最初で最後の機会でしょう。ですので、試合を万全の状態で観るためにアメリカのテレビ放送局のウェブサイトに載っていたこのオリンピックのホッケー関係のページを片っ端から印刷し、準決勝に進みそうなチームの情報を頭に入れました。カナダ、アメリカ、ロシア、チェコ、スェーデン、フィンランド。

 

その印刷物をバインダー1冊にまとめ、1週間の休暇を取り、日本に向かいました。