Gerry Wilson博士の残したもの
Tom Thompson
2011-03-31 13:00:00
ウィニペグ生まれで、長年そこに住んだ者として、ウィニペグを訪れた時にWinnipeg Free Pressの死亡記事欄を見るのが習慣になっている。そして、月曜日(3月28日)にGerry Wilson博士の死亡記事を見て、ショックを受けた。享年73歳、モントリオール・カナディアンズのジャージーを着てのheadshot(*意味不明)だった。
私はまだ幼かったので、Wilson博士がカナダで最も有望な少年ホッケー選手であった時代や、Memorial Cup決勝における彼の武勇伝、そして、5年連続優勝する初期段階のモントリオール・カナディアンズで十代でプレーしたこと等は覚えていない。また、あまりに早く彼の選手生活を終わらせた重大な膝の負傷についても覚えてはいない。
私のWilson博士の思い出は、スポーツ関連の負傷治療を専門にする著名なウィニペグの外科医としてと、いずれもホッケー選手だった4人息子の誇りに思っている父親としてのものだ。Cary Wilsonは、主としてカルガリー・フレームスで活躍した。そしてCaryの息子、Colinは現在ナッシュビル・プレデターズのエキサイティングな若い選手である。
Wilson博士はホッケーにとても情熱的だった。ゲームについていろいろな方面から知的に話すことができた。また、国際的なスポーツとしてのプロ・ホッケーの発展へ重要な貢献をした。1973-74年にはスウェーデンで研究するために自身の医療行為から1年間離れ、何人かの一流ホッケー選手を見ながら助言を行った。そして、ウィニペグに戻った時、何人かのスウェーデン選手にワールド・ホッケー・アソシエーション(WHA)で3年目のシーズンを迎えようとしているウィニペグ・ジェッツと契約するよう勧めた。Wilson博士も新しいオーナーの下にあったジェッツの幹部らを説得しなくてはならなかった。確かに、北アメリカで未知の存在である多くの「弱虫スウェーデン人」は西半球で成功しているプロのホッケー・フランチャイズに相応しいとはみなされなかった。
しかし、あとは歴史が示す通りだ。Anders Hedberg、Ulf Nilsson、Lars-Erik Sjoberg等のスウェーデン人のスター達はすぐにWilly Lindstrom、Kent Nilsson、Thommie Bergman、および更に多くの仲間に加わった。そして、Bobby Hull、Ted Green、Morris Lukowich、Terry Ruskowski等の北米のスター達と共に、4年間で3回のAvco Cup(*WHAの優勝カップ)を勝ったチームの基礎を形成した。残念ながら、4年目は決勝戦の第7戦で敗れた。また、ジェッツはソ連のソビエト・レッド・アーミーを破った最初の北米クラブになった。
最も意義深いことは、このチームがホッケーの新しいブランドを北米のファンに紹介したことだ。それは北米とヨーロッパの良いところをミックスした混合チームだった。このチームはどこへ行っても確実に観客を楽しませた。私は1984年春の夜、エドモント・オイラーズが最初のスタンレー・カップに勝った時に、オイラーズのGM兼コーチのGlen Satherが集まったメディアと世界のファンに最初に言ったことが忘れられない。彼はこの若いチャンピオン・チームを作るのにかつてのライバル、WHAのウィニペグ・ジェッツを参考にしたと述べたのだ。
当時のエドモント・オイラーズはNHL史上最も試合が面白かったとされている時代の看板チームになっている。近年討論され、施行されている多くのルール改正はその時代のホッケーを回復しようという試みなのだ。
そのホッケーの本質的特質は何だろうか。パック保持、迅速なパス回し、ニュートラルゾーンを通過する速度、見事なパス・プレーからのゴール、試合全体のスピードアップ。
多くの選手、コーチ、およびNHLの幹部がこのタイプのホッケーを創りだすことに貢献した。以前は北米のファンが楽しんだものとヨーロッパのファンが楽しんだものとは異なっていた。そして、そこに夢見る人がいたために根本的な変革が起ったのだ。
Gerry Wilson博士はホッケーの夢を叶える役割を果たした。彼は世界中のホッケーの最も良い点を混ぜ合わせたらできあがるだろうと思われていたタイプのゲームを思い描いていた。Wilson博士よ、永遠なれ。全てのホッケーファンがあなたに感謝しています。
- end -
Tom Thompson
2011-03-31 13:00:00
ウィニペグ生まれで、長年そこに住んだ者として、ウィニペグを訪れた時にWinnipeg Free Pressの死亡記事欄を見るのが習慣になっている。そして、月曜日(3月28日)にGerry Wilson博士の死亡記事を見て、ショックを受けた。享年73歳、モントリオール・カナディアンズのジャージーを着てのheadshot(*意味不明)だった。
私はまだ幼かったので、Wilson博士がカナダで最も有望な少年ホッケー選手であった時代や、Memorial Cup決勝における彼の武勇伝、そして、5年連続優勝する初期段階のモントリオール・カナディアンズで十代でプレーしたこと等は覚えていない。また、あまりに早く彼の選手生活を終わらせた重大な膝の負傷についても覚えてはいない。
私のWilson博士の思い出は、スポーツ関連の負傷治療を専門にする著名なウィニペグの外科医としてと、いずれもホッケー選手だった4人息子の誇りに思っている父親としてのものだ。Cary Wilsonは、主としてカルガリー・フレームスで活躍した。そしてCaryの息子、Colinは現在ナッシュビル・プレデターズのエキサイティングな若い選手である。
Wilson博士はホッケーにとても情熱的だった。ゲームについていろいろな方面から知的に話すことができた。また、国際的なスポーツとしてのプロ・ホッケーの発展へ重要な貢献をした。1973-74年にはスウェーデンで研究するために自身の医療行為から1年間離れ、何人かの一流ホッケー選手を見ながら助言を行った。そして、ウィニペグに戻った時、何人かのスウェーデン選手にワールド・ホッケー・アソシエーション(WHA)で3年目のシーズンを迎えようとしているウィニペグ・ジェッツと契約するよう勧めた。Wilson博士も新しいオーナーの下にあったジェッツの幹部らを説得しなくてはならなかった。確かに、北アメリカで未知の存在である多くの「弱虫スウェーデン人」は西半球で成功しているプロのホッケー・フランチャイズに相応しいとはみなされなかった。
しかし、あとは歴史が示す通りだ。Anders Hedberg、Ulf Nilsson、Lars-Erik Sjoberg等のスウェーデン人のスター達はすぐにWilly Lindstrom、Kent Nilsson、Thommie Bergman、および更に多くの仲間に加わった。そして、Bobby Hull、Ted Green、Morris Lukowich、Terry Ruskowski等の北米のスター達と共に、4年間で3回のAvco Cup(*WHAの優勝カップ)を勝ったチームの基礎を形成した。残念ながら、4年目は決勝戦の第7戦で敗れた。また、ジェッツはソ連のソビエト・レッド・アーミーを破った最初の北米クラブになった。
最も意義深いことは、このチームがホッケーの新しいブランドを北米のファンに紹介したことだ。それは北米とヨーロッパの良いところをミックスした混合チームだった。このチームはどこへ行っても確実に観客を楽しませた。私は1984年春の夜、エドモント・オイラーズが最初のスタンレー・カップに勝った時に、オイラーズのGM兼コーチのGlen Satherが集まったメディアと世界のファンに最初に言ったことが忘れられない。彼はこの若いチャンピオン・チームを作るのにかつてのライバル、WHAのウィニペグ・ジェッツを参考にしたと述べたのだ。
当時のエドモント・オイラーズはNHL史上最も試合が面白かったとされている時代の看板チームになっている。近年討論され、施行されている多くのルール改正はその時代のホッケーを回復しようという試みなのだ。
そのホッケーの本質的特質は何だろうか。パック保持、迅速なパス回し、ニュートラルゾーンを通過する速度、見事なパス・プレーからのゴール、試合全体のスピードアップ。
多くの選手、コーチ、およびNHLの幹部がこのタイプのホッケーを創りだすことに貢献した。以前は北米のファンが楽しんだものとヨーロッパのファンが楽しんだものとは異なっていた。そして、そこに夢見る人がいたために根本的な変革が起ったのだ。
Gerry Wilson博士はホッケーの夢を叶える役割を果たした。彼は世界中のホッケーの最も良い点を混ぜ合わせたらできあがるだろうと思われていたタイプのゲームを思い描いていた。Wilson博士よ、永遠なれ。全てのホッケーファンがあなたに感謝しています。
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