先日、杖をついてやっとのことで、歩いてらっしゃる丸顔のおじいさんが奥さんや娘さんと一緒に、うちの店に来店されて、Tシャツをご覧になっていたので、お声かけしたのでした。
   セールになったTシャツで波と島のイラストが大きくプリントされたものがあるのですが、おじいさんは何故だか、そのプリントのTシャツを欲しそうに一生懸命見ていらっしゃって、奥さんと娘さんがその様子を見て「お父さんは、最近ハワイにご執心なのよね。また、ハワイに行きたいんだよね」と笑顔でおっしゃっていたのです。
   おじいさんは、少し照れ臭そうに笑っていらっしゃいながらも、やっぱりそのTシャツに描かれた島々と海をじっと見つめているご様子。
   そのおじいさんのお姿を見ていたら、こちらにまでハワイを懐かしむ気持ちが伝わってきて、僕の記憶の中のハワイの美しい風景と、潮の香り、ホテルのロビーの香水の匂い、部屋の窓から見える夜の水平線と遠い船の灯りのまたたきまでも、目の前に広がってくるような気がしたのです。
    みんなが大好きなハワイ。
    もうご高齢だから、もしかしたら、もう二度と行けないかもしれないハワイを、生活の中でそんな風に小さく懐かしみ愛している、おじいさんを見ていたら、おじいさんも、この世界も素敵だなって、心から思ったのでした。


    うちの店には、長年かけて作ってきたお得意さんやリピーターのお客さんが、多分数えたら百人以上はいらっしゃると思うのですが、僕は店員として、ひとつだけ、お客さんとの距離の保ち方に気をつけています。
   お客さんとは、どんなに懇意にしていただいても友達みたいには決してならず、あくまでも、あの店に行けば、服のことを相談できて信頼できる、そして、いつでも感じよく話が出来る人がいる、というくらいの存在を目指していて、それ以上にもそれ以下にもならない、と心がけています。
   よく販売員の人で、お客さんと世間話とかをいつもして、友達みたいになっちゃう人がいるのですが、それは違うなと思います。
   お客さんとの関係について、うんと考えてみると、やっぱり適度な距離を保った関係というのが、本当はいちばん、どこかで人の気持ちを救えるような気がするからです。
   だから、自分の中に、お客さんに対して超えちゃいけない一線というのが、ずっとあります。


   さて、これは、また別の或る日、お得意さまのおじいさんとおばあさんのご夫婦がお二人並んで、ご来店されました。
   確か以前は、お二人とも普通に歩いてらっしゃったのですが、見ると、その日は、おじいさんの方が杖をついていらっしゃる。
   「うちの主人、足がわるくなっちゃったの」と、おばあさんが、そうおっしゃるのでした。
   「じつは、主人が最近太っちゃって、家にあるズボンがどれも小さくて入らなくなっちゃったので新しいのを買いに来たの」
    おばあさんの言葉に頷いて、僕はすぐにおじいさんのウェストをメジャーで測り、足が御不自由でも履きやすそうな、夏向きのストレッチの効いたパンツをお勧めして、履いてみてもらうことにしたのでした。
    中に椅子も置いてある試着室にご案内して、ご試着のパンツをお渡しして普段のようにカーテンを閉めました。
    けど、おじいさんは、足がご不自由なので、ひとりでは脱ぎ着が難しいらしく、おばあさんがカーテンをゴソゴソ開いて、大柄で体格の良いおじいさんの体を一生懸命支えてパンツを履き変えさせようとされてるんだけど、なにぶん大きくて足がご不自由なおじいさんを支えられなくて難儀しているのを僕は見てしまったのです。
    今までは、ご家族が伴われている場合は、いくらお体がご不自由でもご試着のお手伝いまでは、される側も快く思われないかもしれないし、出過ぎたマネかもしれないと思って遠慮していたのだけれど、目の前で、どう見てもおばあさんひとりでは、おじいさんのパンツの脱ぎ着をさせるのは無理な現場を目撃してしまったら、反射的にスイッチが入ってしまいました。
    「あの…お手伝いさせていただいてもよろしいでしょうか?」とお尋ねしたら、おばあさんが快く「手伝ってもらえたら有難いわ」とおっしゃってくださったので、おばあさんと交替し、そのままカーテンをバッと開けさせてもらい、(幸い奥まった場所で他に誰も通らない試着室だったので)カーテンは開けたまま、試着室の中にひざまづいて、おじいさんの両手を取ると、僕の両肩に置いてもらい、「僕の肩につかまってください」と言って、おじいさんの体を支えてパンツを履き変えてもらったのでした。
    見ると、おじいさんは、足だけがひどく痩せてしまっていて、オムツをしているのでした。
    僕の後ろでおじいさんの試着を見守りながら、おばあさんが「もうねえ、私も主人もトシとっちゃって、私が80歳で、主人は83歳なの…」とおっしゃったら、僕の肩に一生懸命つかまりながら、僕のちょうど耳のところで、おじいさんが「トシとっちゃった…」と、子どもみたいにそう言うのが聞こえてきて、本当に、ついこないだまで子どもだったはずなのに、気がついたら、いつのまにオムツをしたおじいさんになってしまっていた…という感慨のようなものに溢れた、そのおじいさんの声が忘れられないのでした。
    おじいさんは、試着されたパンツをとても気に入られて、色違いのものと二本買ってくださいました。
    お会計をしている間も、おばあさんが、ずっと「今日あなたがいてくれて本当に良かった」と繰り返しおっしゃってくださって、何回も何回もお礼を言って帰っていかれたのでした。
   おばあさんは、おじいさんがすでに元のパンツにちゃんと履き替えているのに「あら、あなたが家から履いてきたパンツはどうしたの?」と混乱して何度もおじいさんに同じことを尋ねてらして、とても切ないのでした。

    杖をつきながら、元きた道を帰っていくおじいさんと、寄り添って支えるように歩いていくおばあさん。
    いつも思うことだけど、人間って、生まれた時から今日まで、ずーっと長い距離を文字通り歩き続けてきたんだなあ、と、ここでもまた改めて感じるのです。
   道の途中では現実の目に見えるドアも無数にくぐってきたし、目に見えない心の中のドアもいっぱいくぐり抜けてきたのだと思います。
   僕が、その時がむしゃらになって、試着室に飛び込んでおじいさんを支えたあの瞬間、僕が感じていたのは、言葉にするなら、それは、まさに何かのドアが開くような感覚でした。
   お客さんのお体がご不自由な場合は、お客さんがもし嫌でなければ、ご試着を手伝ってもいいんだ! という、またひとつ新しいドア。
   そして、やっぱり、目の前で困っている人がいたら、反射的に手を差し伸べてしまうものなのだな、という気づきのドアです。

   それらのドアはいつだって、他者がいて初めて開くドアなのだということに、改めて思いを馳せるのでした。