いつかの朝メニュー

 

切り干し大根の煮物たまご落とし

茹で小松菜

梅酢もずく おかか茗荷のせ

しじみ味噌汁

黒米ごはん




母の体調はいまだ変わらず上がったり下がったりしながら、結局は「今までで一番きつい」と、「最高にしんどい記録」を更新し続けている。



先日こんなことがあった。


母がご飯を炊こうとしているときに何やら炊飯器の前で格闘している。

炊飯器のフタ内側のプレートと蒸気の吹き出し口

の汚れが気になり、私が洗うために2つを本体から外したのだ。

それが母には正確にはめられない。

頻繁に洗わないので、いつもしないので、できないのは当たり前で


それを私がやってあげたとしたら

母はこれからもできないまま。

そんな難しいことでもないのに?


その場では本人はたいそうイライラし、「これ嫌いやねん。知ってるやろ?」と私が外したことに腹を立てている。

母が困らぬように先周りするのはその場のストレスはなくなるし、一見優しいことに思えるが、

私には母をバカにさせることにしか思えない。


だいたい、お鍋でもご飯は炊けるというのに、

スイッチひとつでご飯を炊いてくれる炊飯器に対して、内フタのセットができないというなんて

どこまでバカになろうとしているのか、

と、こちらとしては真剣に、不安になるしかないのだ。


結局、その場では混乱していたので、私がセットしてその日のご飯は無事に炊け、

日をあらためて自分でしてみるように促した。

その後はなんのことはなく、時々本体から外して洗い、セットまでできている。


このことについて、

はじめに母がいやがっているとして、


①母が困らないように私が炊飯器のメンテを管理するのが親切


②母にやり方を伝え、自分でできるようにさせるのが親切


と、ひとによって正解と思う方は違う。

あくまでも上の内容は例えで、いろんなことに当てはまると思う。


私自身ずっと②と信じているのだけど

ときどき、それが不安になることがある。


私が母に任せすぎていてそれが体力的に負担となっていたら?

もし母の今の家事量を減らしたら、からだがラクになるのかも?


背骨が腰から左に曲がり、ふつうに立つと左にかたむく。


ちょうどみぞおちのあたりが曲がっているので内臓が圧迫されて息がしにくい。


だけど内科の検査はどれも完璧なのだ。


日頃の姿勢と、筋トレと歩くことが治療となると本人も理解している。


それが腰の痛みや息苦しさから、できない日が多い。


治るために必要なことができてない、ということに頭を悩ます。


私が家事などもつきっきりにフォローしてみたら改善するだろうか


今まで「私がつきっきり」を避けるようにしてきた。

いくら歳をとったからといっても自分のことなのだ。疾病利益、ということばを精神分析の本で知ったが、まさにずっとそのことを危惧している。


わたしが手をかすことは母の自立を邪魔し余計なことをするような気がして、できるだけやりすぎず、見守る姿勢を続けていた。


すぐに変化があるわけない、と焦らないようにしていたけど

でもここまで2年、様子をみて一向に改善がみられないのだから、何かやり方がちがうのかもしれないと思えてきた。

もうすこし付き添うということも検討しなければいけないのかもしれない。


だけど、、毎日のことはすべて自分でできてるので、どうしてもまた元の考えにもどる。

家事が自分でできることほど幸せなことはない。


でもいちど試すだけ試したら?

となんども自分に言い聞かせる。