六百メートルを超えて世界一の高さになった東京スカイツリー。見物客で溢れる
あの3月10日未明の東京大空襲で、押上や業平あたりで2万5千人が死亡。ツリーが立つ操車場内では列車120両が焼けた。もちろん、押上駅も業平橋駅も全焼。私がよく焼きたての食パンを買いに行くキムラヤさんの並びに白鳥ビルがある。一階は花屋さん。そのビルのオーナーである白鳥箭之助(81)さんが東京新聞に証言している。
あの夜、ラジオの空襲警報にとび起きて外に出たらもうB29が夜空を埋めていた。向島方面に火柱が上がり炎も迫ってくる。父親と家の裏にある業平国民学校(業平小学校)に逃げた。体育館はすでにスシ積め。近くまで火がまわってすごい熱気。ここにいたんじゃ焼け死ぬと思った白鳥さんは父親と学校から退散した。父の真治さんは「どうせ死ぬんなら、もう少しだけ頑張ってみようか?」と我が子に声をかけた。いつの間にか四方は炎に包まれていた。東京大空襲で、米軍は下町を周囲から囲むように爆撃して住民を焼き殺す作戦だった。例えが心苦しいが、もんじゃ焼きでまず土手を丸く作る。まず、あの土手だけに焼夷弾を雨のように降らせたのだ。爆死させるのではなく、建物を燃やし人間を焼き殺す。人は炎を上げて燃える方向ではなく逆に逃げる。それは炎の円内なのだ。あの夜、北風がものすごく強く、炎は逃げ回る人々を追いかけるようにして建物と人間を燃えつくしていった。一夜にして10万人が焼死。こんなむごい空爆はない。人間じゃねえ残虐な作戦を指揮したカーチス・E・ルメイ少尉に対して、戦後、勲一等旭日大綬章なる勲章を与えた日本政府に、私は今でも腸わたが煮え返るような憤りを感じる。理由は「日本の航空自衛隊の育成への貢献」だと当時の佐藤栄作首相、そして防衛長官だったのは小泉純也(小泉純一郎元首相の父親)は答弁している。
女優・吉永小百合さんの母親はパンパンに膨らんだお腹で深夜の代々木を逃げまわった。お腹には小百合さんがいた。自宅の百メートルまで下町の火が迫ったが町内のバケツリレーで何とか消しとめた。家の庭には防空壕が掘られていてそこへ隠れた。まだくすぶり続ける焼け跡の中、三日後の3月13日に小百合さんは生まれた。
「戦後何年とか、東京大空襲から何年はそのまま私の誕生日なんです」と、女性にとってあまり公表したくない年齢について、会うたび苦笑いされていた。
さて、白鳥さん親子は小学校近くの工場の塀を乗り越えた。そこに貯水池があったので中に入り全身を水で塗らした。そして、東の方面に逃げると防空壕があり、そこへ転がりこんだ。業平国民学校は燃えて、校門の前には赤ん坊を抱いた母親がまっ黒の炭になっていた。北十間川には、数ケ月たっても隅田川から流れこんでくる死体が浮いていたそうだ。浅草へ通じる吾妻橋や言問橋でも大惨事が起きていた。
戦後の大ヒット曲となった「リンゴの唄」の歌手・並木路子さんは、新大橋近くから隅田川に母親と飛び込んだ一人。溺れかけたところを運よく男性が岸から引き上げてくれた。だが、母親は三日後に遺体で上がった。でも水は飲んでおらず心臓麻痺で顔は生前のままだった。渋谷にあった並木さんの店のピアノバー「ブルースポット」で大きな瞳に涙をたくさん浮かべて体験談を聞いたことがある。私は、あれから「リンゴの唄」が苦手だ。並木さんも、家族をすべて戦争で亡くし一人暮らしだった。ある日、自宅の浴槽で亡くなっていた。肉親はみな水難死。並木さんも、最期は水に浸って逝った。
業平一丁目には本所税務署や日本たばこ産業がある。今も小さな家内工場や足袋職人さんが住む家内工業もわずかだが残っている。。業平小学校の校庭はコンクリートになっているが、この当たりの地面の下には、まだまだ数多くの無念の屍が埋まっていると思う。見上げるスカイツリーの下で、無残に死んでいった人々がいたことを絶対に忘れてはならない。
「復興もここまできたかって感無量です。空襲で死んでいった子供たちが見たら喜ぶだろうなあ…」白鳥さんの思いは、都民として語り継いでいかなくてはならない。
「東京大空襲を記録する会」を1970年に編纂した作家・早乙女勝元さん。その中に、一人の母親の体験記が忘れられないと「初心そして…」(草の根出版会・2008年)という自伝本に書いている。
「森川寿美子さん、当時24歳。
森川寿美子さんは2006年に85歳で亡くなられたが、こんな歌を残された。
-地獄の夜 幼きながら耐えし子の 健気さ思い涙垂りくる-
-差し伸べる 我が手はらいて幼らは 消えて覚めれば夢に泣きたり-
-くり返し 我れ叫びたしふたたびを おかしてはならじ戦争の愚を-
母親は死ぬまで我が子を決して忘れられない…。東京大空襲の死者の霊は、両国の東京都慰霊堂に眠る。ここは、関東大震災の殉難者の場所で、居候している形だ。99年、平和祈念館建設計画を東京都は凍結した。早乙女さんたちは、民間で「東京大空襲・戦災資料センター」を、
東京マラソンより、東京大空襲を語り継ぐことにお金をかけるべきじゃなかったの、石原都知事さん!