六百メートルを超えて世界一の高さになった東京スカイツリー。見物客で溢れる墨田区業平や押上も、66年前の東京大空襲では大打撃を受けたことを知る人は少なくなっている。ツリーの真下は東武鉄道の操車場で、戦前から子供たちの遊び場だった。逆さツリーが写ることで有名な北十間川には木材がたくさん浮かんでいた。当時の業平は、浅草通りに映画館や芝居小屋、寄席が軒を連ねる「業平座」があった。また、メリヤスや石鹸工場も多く、労働者の若者でにぎわっていたのだ。昭和の名人、古今亭志ん生が昭和3年から8年間住んだなめくじ長屋(当時は本所区業平橋一丁目十二)もまだ残っていた。

 あの3月10日未明の東京大空襲で、押上や業平あたりで2万5千人が死亡。ツリーが立つ操車場内では列車120両が焼けた。もちろん、押上駅も業平橋駅も全焼。私がよく焼きたての食パンを買いに行くキムラヤさんの並びに白鳥ビルがある。一階は花屋さん。そのビルのオーナーである白鳥箭之助(81)さんが東京新聞に証言している。

あの夜、ラジオの空襲警報にとび起きて外に出たらもうB29が夜空を埋めていた。向島方面に火柱が上がり炎も迫ってくる。父親と家の裏にある業平国民学校(業平小学校)に逃げた。体育館はすでにスシ積め。近くまで火がまわってすごい熱気。ここにいたんじゃ焼け死ぬと思った白鳥さんは父親と学校から退散した。父の真治さんは「どうせ死ぬんなら、もう少しだけ頑張ってみようか?」と我が子に声をかけた。いつの間にか四方は炎に包まれていた。東京大空襲で、米軍は下町を周囲から囲むように爆撃して住民を焼き殺す作戦だった。例えが心苦しいが、もんじゃ焼きでまず土手を丸く作る。まず、あの土手だけに焼夷弾を雨のように降らせたのだ。爆死させるのではなく、建物を燃やし人間を焼き殺す。人は炎を上げて燃える方向ではなく逆に逃げる。それは炎の円内なのだ。あの夜、北風がものすごく強く、炎は逃げ回る人々を追いかけるようにして建物と人間を燃えつくしていった。一夜にして10万人が焼死。こんなむごい空爆はない。人間じゃねえ残虐な作戦を指揮したカーチス・E・ルメイ少尉に対して、戦後、勲一等旭日大綬章なる勲章を与えた日本政府に、私は今でも腸わたが煮え返るような憤りを感じる。理由は「日本の航空自衛隊の育成への貢献」だと当時の佐藤栄作首相、そして防衛長官だったのは小泉純也(小泉純一郎元首相の父親)は答弁している。

女優・吉永小百合さんの母親はパンパンに膨らんだお腹で深夜の代々木を逃げまわった。お腹には小百合さんがいた。自宅の百メートルまで下町の火が迫ったが町内のバケツリレーで何とか消しとめた。家の庭には防空壕が掘られていてそこへ隠れた。まだくすぶり続ける焼け跡の中、三日後の3月13日に小百合さんは生まれた。

「戦後何年とか、東京大空襲から何年はそのまま私の誕生日なんです」と、女性にとってあまり公表したくない年齢について、会うたび苦笑いされていた。

さて、白鳥さん親子は小学校近くの工場の塀を乗り越えた。そこに貯水池があったので中に入り全身を水で塗らした。そして、東の方面に逃げると防空壕があり、そこへ転がりこんだ。業平国民学校は燃えて、校門の前には赤ん坊を抱いた母親がまっ黒の炭になっていた。北十間川には、数ケ月たっても隅田川から流れこんでくる死体が浮いていたそうだ。浅草へ通じる吾妻橋や言問橋でも大惨事が起きていた。墨田区、そして台東区から逃げてきた市民がぶつかりあい身動きできない状態となった。そこへ強風にあおられた炎は竜巻を起こして隅田川の上を走り抜けた。橋の上を炎が吹き抜けた。衣服が燃えて熱さにたまらず隅田川に飛び込む。人が次々とおり重なって溺死。死体で隅田川が消えた。

戦後の大ヒット曲となった「リンゴの唄」の歌手・並木路子さんは、新大橋近くから隅田川に母親と飛び込んだ一人。溺れかけたところを運よく男性が岸から引き上げてくれた。だが、母親は三日後に遺体で上がった。でも水は飲んでおらず心臓麻痺で顔は生前のままだった。渋谷にあった並木さんの店のピアノバー「ブルースポット」で大きな瞳に涙をたくさん浮かべて体験談を聞いたことがある。私は、あれから「リンゴの唄」が苦手だ。並木さんも、家族をすべて戦争で亡くし一人暮らしだった。ある日、自宅の浴槽で亡くなっていた。肉親はみな水難死。並木さんも、最期は水に浸って逝った。

業平一丁目には本所税務署や日本たばこ産業がある。今も小さな家内工場や足袋職人さんが住む家内工業もわずかだが残っている。。業平小学校の校庭はコンクリートになっているが、この当たりの地面の下には、まだまだ数多くの無念の屍が埋まっていると思う。見上げるスカイツリーの下で、無残に死んでいった人々がいたことを絶対に忘れてはならない。

「復興もここまできたかって感無量です。空襲で死んでいった子供たちが見たら喜ぶだろうなあ…」白鳥さんの思いは、都民として語り継いでいかなくてはならない。

「東京大空襲を記録する会」を1970年に編纂した作家・早乙女勝元さん。その中に、一人の母親の体験記が忘れられないと「初心そして…」(草の根出版会・2008年)という自伝本に書いている。

「森川寿美子さん、当時24歳。墨田区の避難先で、三人の幼な児を失った。激流のような火の粉の下で、四歳の長男は『おかあちゃん、熱いよ。赤ちゃん、だいじょうぶ?』と、妹たちの身を案じ続けたという。手にした原稿には別に手紙が添えられていた。『あと何年かたって、日本中が戦争を知らない世代ばかりになったとき、あの子たちの死んだことが、だれの心にも残らないとしたら、母として子供たちにすまない気がして書きました』原稿枚数は規定より多かったが、題名を『敦子よ涼子よ輝一よ』と勝手につけた…」

 森川寿美子さんは2006年に85歳で亡くなられたが、こんな歌を残された。

-地獄の夜 幼きながら耐えし子の 健気さ思い涙垂りくる-

-差し伸べる 我が手はらいて幼らは 消えて覚めれば夢に泣きたり-

-くり返し 我れ叫びたしふたたびを おかしてはならじ戦争の愚を-

 母親は死ぬまで我が子を決して忘れられない…。東京大空襲の死者の霊は、両国の東京都慰霊堂に眠る。ここは、関東大震災の殉難者の場所で、居候している形だ。99年、平和祈念館建設計画を東京都は凍結した。早乙女さんたちは、民間で「東京大空襲・戦災資料センター」を、江東区北砂に立ち上げた。用地は、さる篤志家が無料提供した。

東京マラソンより、東京大空襲を語り継ぐことにお金をかけるべきじゃなかったの、石原都知事さん!