ボランティア二日目


初ボランティアは、大島で個人宅の瓦礫分別。二つの班で。

すこし早い時間に起床し、コンビニで昼食を購入して気仙沼のフェリー乗り場へ。

みんな起きるのが早いんだ。
俺は前日徹夜明けなのもあって、アラーム鳴ってもなかなか起きず。


気仙沼の港近くはひどい有様。

二日後に見ることになる陸前高田に比べれば随分軽いといえば軽いが、
壊滅的打撃といえるくらいのダメージを受けていた。

復旧なんて全然だが整理は進んでいて、

無事な建物と、瓦礫の退けられた更地と、取り壊しを待つ無残な建物の3種類に分かれている感じ。

道路は通れない場所もまだあった。

海からの生ごみのような匂いも漂っていた。我慢できないほどではないが。


大島の港からすぐ近くの場所に依頼人の家はあった。
おそらく70~80くらいの主人とその奥さん。

家屋は隣家の土地まで流され、家があった土地には大きな瓦礫の山が一つと、分別された6つほどの山。
大きな山はブルドーザによって一気に寄せられたもので、
前日までにほかのボランティアがその大きな瓦礫山を分別して
6つの山に組み直す作業をしてきたのを同じように進行するのがこの日の仕事。


瓦礫の種類は木材が最も多いが、
農業漁業をやっていたそうで、木材以外の重たい瓦礫もかなり多かった。
何に使うのかよくわからない金属の何かや、網など。
運ぶことよりも、木材と金属がくっついているのをバールではがす作業が一番力を使った。
水を吸った衣服はずしりと重くて、かなり苦労した。

大きな瓦礫山の外側はもう乾いていたけど内側は水分が多いため、ハエがたくさん出てきた。
日差しが強く、長袖長ズボンに帽子で僕は防備していたが、防備していない他の男性陣は真っ赤に焼けていた。



ご主人はとても気持ちの良い人だった。
午前と午後でアイスを二個もいただいたし、おにぎりやジュースも。
冗談が好きな人で、5秒に一回はジョークを飛ばしていたような気がする。

目の前にある家の老人は津波に流されて亡くなってしまったそうだ。
甘く見たのか、高いところに上らず小屋の中に立て籠もってしまったらしい。

地盤沈下により、陸だったところが水に遣っていた。
1~2メートル、沈んだようだ。不思議な光景だった。


男性陣はおとなしそうな人も厳つい人も雑把な性格の人もいたが、
誰もが手を抜かずきちんと作業していた。

女性は、手を抜いているという感じではないが、マイペースに作業していた。

ボランティア参加者は女性が多い。
それは、よくもわるくもマイペースだからなのだと思う。
よくも、わるくもだ。


僕はといえばずっと不安を抱えながら作業していた。

自分は他の人以上に頑張れているのだろうかと。
他の人が走らないところで走ってみたり
ちょっとした「あがき」をしながら作業をしていた。


規則によって、3時までしか作業はさせてもらえない。
全体の休憩時間には自分も休憩しなければならない。
パワーや作業効率では僕はほかの人に勝れないと思うから、僕にとっては嫌なルールだった。


3時になり、ご主人の要望でビニールシートにみんなでメッセージを書いて家を後にした。

フェリーに向かって自宅から手を振ってくれていたのには感動した。ドラマみたいな風景。


フェリーでも眠りに落ちた。

今朝の寝坊(集合時間に遅れたわけではないので遅刻ではない)のせいもあって
僕は「よく寝るキャラ」になったようだ。


一度宿泊所に帰ってから、準備して風呂アンド食事へ出る。
昨日と同じまきばの湯へ。

風呂上りは、昨日よりも多く雑談をしたような気がする。
運転が昨日よりも上手くなったと高城さんに褒められた。
やさしくて、ふくらまない運転になったそうだ。

奥田さんには「独創的な料理をつくりそうだね」と言われた。
はやくもそのキャラか。まだあんまりしゃべってないのに。はやいな。


そしてお風呂を出て「ヒルトップ」というステーキ屋さんへ。

目の前でステーキを焼いてくれた。すんごくおいしい。
サラダ・ライス・スープは食べ放題で千円。
今回のボランティア期間の食事の中でも最も印象に残った。



宿泊所ではだんだんと藤本との会話が弾むようになってきたか。
他の人にはまだ顔見知りしたままな感じ。

夜は一人で外に出てたそがれる。
とはいえよく人が通るから、一人になりきれない感じではあるけど。


小学校のころからの友人から突然電話がかかってきた。
酔っぱらって、なんとなくの勢いでかけてきたらしい。
来年から緑色の銀行に就職することになったらしい。
なんだか少し、変な性格になっていた。
昔からそうだったのかもしれない。
俺は彼のことをこうしてきちんと眺めることがすくなかったのかもしれない。
同じ業界に行くもの同士、また仲良くしていきたいな。



板巻さんに祖父のことを話してしまった。
何となく、勢いで。
人に知ってほしいんだよなやっぱ。

いたく感動された。
おじいちゃんも喜んでるよと言ってもらった。
ある意味では定型文。予想通りの言葉が返ってきただけ。
それでも
安心するよ。
72のおじいちゃんが言うんだから
88のおじいちゃんもそう思ってるんじゃないかって思える。


ボランティア一日目

少し時間に追われながら家を出る。


コンビニで足りない物資を少し購入して
新宿の集合場所までは歩いて行った。
途中でタクシーを拾うことも考えたが
汗をかき早足になりながら結局歩いて行った。


集合場所で友人に会い安心した。知り合いがいる、と。
会社の休暇制度でボランティアに参加したため

会場内には同期がたくさんいたが、知り合いはさほど多くなかった。

会社主催のボランティアではないので一般の方もたくさんいた。

参加者はおよそMHが半分、一般が半分という割合だ。

2つ前のクールに参加した友人からフリーターが多いと聞いていたが、
実際今回はそんなにいなかったようだ。


はじめに会社のメンバーで集合かけられた後、
軽めの開会式をしてバスに乗り込む。


みっちぇると同じ班になったことには少し戸惑った。

入社後最初の研修合宿で同じ班だった女の子。

いっしょの班でボランティアに取り組むには近すぎる間柄というか

同じ班の他の方々からしたらどう見えるのだろうかと。
まあ知り合いがいることのメリットデメリット、どちらかといえば、
メリットのほうが大きいと思った。


同じく参加していた同じ支店のKを見つけて
いかにも普通を装って話しかけた。
祖父の件で迷惑をかけたことについても普通に謝意を伝えた。

考えすぎかもしれないが、
なんとなくいやな距離を感じた。
「死」のこととなると
問題は解決を持たない分、ややこしい。


同じ班のメンバーはみっちぇるのほかには
30代前半のイケメン高城さん(仮名)
49歳(これはあとで聞いて驚いた)のボランティア2回目、金髪主婦奥田さん(仮名)
72歳の元報道マンでこれもボランティア経験ありの板巻さん(仮名)
合計5人で6日間を過ごすこととなった。

行きのバスはみっちぇるの隣になった。

バス出発後はまず班での自己紹介。
高城さんがリーダーに自ら立候補。
免許を持っているのが高城さんとみちぇると俺の3人で、
リーダーはドライバーとの兼任禁止、みっちぇるはペーパーということで俺がドライバーということに。

仕事が与えられるのは正直うれしい。
少なくとも運転という面で役に立てる。


およそ8時間の道のりの中で
1~2時間くらいは寝たけど
それ以外はずっとみっちぇると話してた。

何の話をしただろう。
祖父のことは話してしまった。
誰かに話したかったのもあるし
隠すほうが、心への負担というか疲労が重い気がして。
というかある程度明るく飄々と話せる自信があったんだ。
切り替えができてると。
まあ多少空気が暗くなってしまいはしたけど、話せてよかったと思う。


4月の合宿の話や、支店の話や、
お互いの家族の話とか、
学生時代の話とか。
ノーベル賞の話をしたことがみっちぇるの印象にはけっこう強く残ってたらしい。


拠点である一関市に到着して、まず団長副団長等の決定。
高城さんは副団長になった。
団長はバリバリの仕事ウーマンな印象のおばさん。はっきり言ってしまうと、エラそう。

宿泊所には3つの班が宿泊。
宿泊部屋はとても広く、男八人には十分すぎるスペース。


荷物だけ置いて、班のメンバーでお風呂と食事のため車で外出する。運転は、僕。
6キロほどの山の上にある、まきばの湯という銭湯へ。
くねくねと長い山道で少し苦労したし本当にこの上に風呂があるのかと不安にもなったが、無事到着。

とても雰囲気のいい場所だった。
高原の景色がきれいで、風が気持ちよくて。
風呂上りに話しながら、
板巻さんが某キー局の元社員で、ベトナム戦争のとき日本のメディアで一番に現地入りした人だと知った。
4月にボランティアに行ったときは一週間風呂に入らなかったらしい。


夕飯はコンビニ弁当を買って帰り、男部屋で班みんなで食べた。

リーダーミーティング終了後、班でのミーティング。そして就寝。


じいちゃんが今日、灰になったっていうことはなかなかイメージしてもピンと来なかった。
灰になるっていうのがどういうことなのかもよくわからない。


今年の僕を一番揺るがしたのは祖父母の死で



記しておかないといけない気がする

人の目に触れられる場所に残しておかないといけないような気がする

そんな気がしたからわざわざこんな場所にブログを開いたけれど

どうしても自己満足に終わってしまいそう。


とりあえず数日かけて書いていく。


花は枯れるけれど

花の匂いは枯れない


例え貴方がこの世を去ろうとも

あなたが残した声や思いは今も私の心の中には鮮やかに残っている

それは繊維に染みついた花の香りのように枯れることはない


ただ私が悲しいのは、その香りが薄れてしまうことなんです





今年の七夕


祖父の危篤の知らせが届いた。


帰ろうと準備していたロッカーの前で母の留守電を聞いた僕は


混乱してまず何をしていいかわからなくなった。


危篤だ、ということだけを伝える3時間前のメッセージ。


全然、元気だったはずなのに。


すぐに電話する人はすぐにするのだろうけど

心の整理が全然、全然できなくて

1分間、電話を手にしながらロッカールームを歩き回っていた。


1分後、男の同期が二人、部屋に入ってきた。

何も悟られないように

笑いながら「今日は先に帰ってて」と言いロッカールームを逃げ出て

誰もいない食堂に逃げ込んだ。そこで母に電話した。


まだ生きているということがわかった。

だけどもう絶対に、今回の「コレ」で、祖父は死ぬんだということがその電話でわかった。


一人で運転中に脳出血を起こして事故になり、、

そのまま病院に運ばれたそうだ。




会社を出るとき、同期の女の子Kのために誕生日プレゼントをその日の朝買ってきていたことを思い出した。


僕は祖父が危篤中で、Kは僕の祖父の危篤を知っていて、


そんな状況で僕はKに、実写版宇宙戦艦ヤマトのDVDを手渡した。


プレゼントのばかばかしさに、そのときだけは気持ちが軽くなった。

Kは優しかった。





翌日は会社を休み、朝9時頃、病室に着いた。


カバンには、着替えといっしょに葬式用のスーツをぶちこんで行った。


祖父は生きていた。


祖父の周りを、両親と、母の姉二人と、従姉妹のお姉さんと、そして兄夫婦が囲んでいた。


僕が来たのを見て、みんな泣き出した。


じいちゃんよかったね、こうたろうが来たよ


こうたろうよかったね、じいちゃんまだ生きてるよ、こうたろうを待ってたんだよ


みんなもうすでに散々泣いていただろうに、それでも泣いた。


そこは病室ではなくまさに「治療室」という感じの場所だった。


いつでも見える場所に医師がいて、何度も機械をいじったり体温を測ったりしていた。


死ぬとわかっている人を一定時間死なせない場所。




あとのご家族は、何時ごろに到着する予定ですか?と


医師が母に聞いていた。


彼がそんなことを尋ねる理由を、誰もがわかっていた。


僕が来て10分もすると、場はとても和やかになった。

世間話や冗談もたくさん交わしていた。

じいちゃんこんな顔だったっけ?
こうたろうはもう東京の暮しには慣れた?
こないだ職場の上司がさ、、、

そんな会話ばかりしていた。


1時間ほどして、東京に住む別の従兄が駆けつけた。

僕が来た時と全く同じように

間に合ってよかったねと感動し

みんなで泣いた。


そして世間話に戻った。


そしてまた別の従兄が駆けつけてみんな泣きだし、、、と


それが3回ほど繰り返されて、すべての近しい家族が集まった。


じいちゃんは血圧も脈拍もとても不安定になりながら


それでも予想よりかなり長いこと生きていた。




夕方5時くらいになり

僕は会社の上司に報告の電話をかけなければならなかった。


なんと報告していいのだろうか?

僕は、ありのままを伝えてしまった。


「まだ生きてるけど、もう死にます。」という主旨のことを。


「もう死ぬんです」ということを口にするよりも、


「もう死ぬって…でもまだ死んでないんでしょ?」と聞いてくる上司に


「ええ、まだ生きてます」と答えるほうが辛かった。



祖父は、その電話の1時間くらいあとに死んだ。


急にゴールを見つけたかのように

脈拍も血圧もゆっくり一定のペースで下がりだして

そのまま一直線に死んだ。


死ぬ直前が、心電図がほとんど直線に近づいてしまったときが一番悲しくて

涙が止まらなくて死んでほしくなくて声を出して


本当の直線になった瞬間は、ああ終わったか、と思うだけだった。



死んだ夜は

兄と銭湯に行った。

露天に浸かりながら

「ほんとに死んだんだね」「実感わかないね」と

セリフのような会話をして

そこで死の事実を自然と受け入れられたような気がする。


悩みがあった。


僕には翌々日から1週間、東北にボランティアに行くという予定があった。

祖父の葬式に出ると、ボランティアに行けなくなる、という問題。


僕の中では早い段階で、やりたいことははっきりしていた。

ボランティアに行きたい。


祖父はもう死んでて

葬式に行ったって、僕は何もできやしない。


兄をはじめ、何人もの従兄が鹿児島に残って葬式なんかの手伝いはしてくれるし


僕が祖父の葬式に出ても、できることなんて、何もない。


ボランティアに行かなかったら、欠員が出た分誰かが苦労するだろう。


ボランティアに行ったら、誰かを助けられるかもしれない。


それなのになぜ祖父の葬式を優先する?

祖父はもう苦しんでなんかいないし

そもそも葬式ってなんなんだ?何のためにやるんだ?



僕には、祖父の葬式に出ることのほうが正しいってわかってた。


ボランティアを休むのはもちろん
大事な仕事を休んで祖父の葬式に出る人も、
何を犠牲に祖父の葬式に出る人も、必ずその行いは正しい。

誰も悪く言うわけがない。
必ず善人だ。



祖父の葬式を休んでボランティアに行くのはどうだ?

何人かは賛成してくれるかもしれない。

だけど反対する人が必ず、たくさんいる。



たかがボランティアじゃないか。

良い経験ができたらいいな、という程度の考えで申し込んだんだろ?

祖父の葬式より優先するようなものか?



批難というより


不可解そうな反応をした人が多かった。


反射的に「どうして?」と聞かれた。



僕は誰にも胸を張って言えなかった。
死んだじいちゃんにだって顔を合わせられないと思った。
それなのにそれでも、ボランティアに行かなきゃ絶対に後悔すると確信していた。


葬式の理念は、「恩」だと思う。
恩を感じている人はふつう、葬式に出席する。

だから出席しない僕は恩知らずで、恥知らずな男だ。
そのレッテルを背負う覚悟をしてまで、僕はボランティアを選ぼうとした。


バカみたいな話だが、僕自身がやはりそれまで、ボランティアをなめていた。
だけどじいちゃんの葬式と天秤にかけようとしたとき、
ボランティアというものに対する見方が一変してしまい、
ここでボランティアを選ばないのは、自分に反していると感じてしまった。
じいちゃんの死は、命よりも重たいものはないと教えてくれたけど
ボランティアと祖父の葬式ならボランティアのほうが、「命を大切にする」に近いんじゃないかと。



変人だ。


だけど、人に軽蔑されることはどうしても怖くて、たまらなくて
もしボランティアが取るに足らない、誰の力にもなれないつまらないものだったらどうしよう
そしたら僕はどうなるのだろうか、と
不安でしょうがなかった。

こっちはじいちゃんの葬式サボってボランティア行くのに
「良い経験ができたね」程度で1週間が終わったら間抜けだ。


祖父の死の翌日、通夜を途中で抜け出して東京に戻り

ボランティアに参加した。