今年は

人の死について

考えることが多くなったし

ときどき友人にそういう話をするようになった



自分なら絶対にボランティアよりも葬式に行った、と言い切ってくれた友人がいた。

母親と同じくらい自分を世話してくれた人だから、と。

確かに僕にとって祖父は、父や母ほど大切な存在ではなかった。

僕は、両親の葬式だったら絶対にボランティアには行かなかった。

言い切ってくれるほど祖母を愛していて

僕に遠慮しないでそれを言ってくれる、それがありがたかった。



祖父の死の一連の話を聞いて、泣いてくれた友人がいた。

その人は僕が卒業して大阪を離れる最後のときも、泣いてくれた人だ。

もし自分の祖父母が死んだらと、重ね合わせたんじゃなくて

単純に、僕が苦しんでいたということに対して泣いてくれていたような気がする。



自分は祖父母が死んだとき、泣けなかった。

という友人がいた。

人の死に涙できなかったということに悩んでいるようだった。

その子はとても純粋な女の子で

僕なんかよりずっと心もきれいだから

泣けなかったということを思い出させてしまって申し訳ないな、と思った。



震災で親友が死んだ、という友人がいた。

海外に卒業旅行中に死んでて連絡も取れなかったから、葬式にも出れなかったそうだ。

中学時代か高校時代に、テニス部でペアだったそう。

僕には到底理解できない甚大な苦しみと覚悟を彼はきっと所有していて

その彼の日記を読んで、自分も祖父母の死について書く意義があるんじゃないかと思って

それで今回僕もこのような日記を書いた。



ばあちゃんの死を知ったのは、休日の朝だった。

9月19日のこと。


母からの着信があることに気づいて、折り返したら、ばあちゃんが死んだ、とのこと。


「あのね、ばあちゃんが死んだ。」


母の最初の一言目はそれだった。

言葉が出なくなった。

頭がまっ白になった。



ばあちゃんは実は数年前から施設に入ってて

呆けが進んで、ほとんど僕のことなんて認識できてなかった。

そう、人間としては生きていても、祖母としてはある意味もう死んでいた

僕にとってはばあちゃんはばあちゃんだけど、

ばあちゃんにとって僕は孫ではなかった。

じいちゃんも夫ではなかった。

じいちゃんは「よく怒る人」で、僕の母は「よく世話をしに来る人だった」


年に数回しか来ない僕は、誰でもなかった。


ボケの進んだばあちゃんの話す言葉は、敬語が多かった。

誰もが、祖父よりも先に祖母が死ぬだろうと思っていた。

それもあって、7月の祖父の危篤は衝撃的だったのだ。



声が出せないまま10秒くらいして


「大丈夫?」と母が聞いてきた。


「うん」と声が出た。


経緯と、事務的な情報を聞いて、電話を切った。


ばあちゃんが、死んでいる。

それで僕はどうすればいいんだろう?

何も答えが見つからなかった。




ばあちゃんは、前日の夜から容体が悪かったらしい。
死ぬと確信できるほどに。

それなのに!夜には僕に連絡が来なかった。

じいちゃんのときにはすぐ連絡が来たのに。

でもそれは母の優しさだとわかっているし

なんだかその問題は何となく理由がわかってて

でもそれを言葉にしようとすると複雑すぎて

何よりも、もう祖母は死んでいるから、

何も思えなかった。

空しすぎて


祖父が死んだときは、劇的だった。
人間の命の、その重みを知る出来事だった。

そう、命は重いはずなのに、
「気づいたら死んでた」なんて

軽すぎるじゃないか。



葬式は、本当に近しい家族だけで小さく行うとのことで

僕は鹿児島に行くかどうか迷い、

行かないことにした。

親戚の多くも行かないとのことだった。


祖母の死に関しては誰にとっても予定調和で

もちろん今日死ぬ死なないなんて誰も知らないけど

これまでにも何回か重態になったこともあって、近く死ぬとわかっていたし

ある意味で祖母はとっくに死んでた、というのは母でさえも抱いていた認識なのだ。

「難病」でもなく「意識不明」でもなく、「認知症」だから。それは死に等しく、早く死んだほうが楽なのだろう。

僕らにとってそういう認識だった。かなり極端に、言えば。


自分ならこういう風に長生きしたくない、と思ってしまう。
人間にとって一番残酷な生き方なんじゃないか?と。

苦しまずに死ねたらいいね、と心のどこかで思いながら、帰省のたび施設の祖母を訪れていた。

それなのに、毎回、元気な姿を見て本当に安心もしていたのだから、人間というのは不気味なものだ。



知らせを聞いた数時間後

兄から電話が来た。

「お母さんが、こうたろうが元気なくしちゃったと言ってたから」

という電話。

ばあちゃんは苦しみながら死んだんだ、ということをここで聞いた。

泣きながら、涙声になりながら会話した。



翌日、祝日明けの火曜日の朝
僕は会社で、カレンダーを見た。

月曜日が、何の日だったかを知った。

「敬老の日」だった。


見た途端

反吐が出るような、最悪な気分が滝のように僕を襲った。


ばかばかしい

ばかばかしいばかばかしいばかばかしいばかばかしいばかばかしいばかばかしい


最悪な言葉が一日中、頭に流れ続けた。


気づいてしまった。

祖父の死のときは、僕を救ったものが二つあったのだ。

一つは、祖父の最期を見届けられたということ。

そして自分は何よりあのとき、ボランティアに救われていたんだと。

祖父が死んですぐ、別の人を救えたという経験が

僕をとてもとても救っていたんだ。


今は僕は誰も救えないし

何も、誰も、僕を救ったりしない。

最悪な僕が、残るだけだと気づいてしまった。



頭を巡った無数の「ばかばかしい」は、自分に対しての嫌悪。


「敬老の日に祖母の葬式に行かないことを決意」してしまった自分。

これまでの人生で、こんなに最悪でばかばかしい「決意」があっただろうか。

自分を納得させられないことに、気づいてしまった。

悲しみが、自分への嫌悪感に変わった。

カレンダーを見る前まで納得してた自分の最悪さに気づいた。

一生の恥とは、このようなことを言うんだろう。

誰に話しても、「なんで?」と言われるだろう。
そして答えることは、できない。

「葬式を軽く見たからです。」と答えなきゃいけないけど、

きっと僕はそんな正直に答えられない。


あの日の僕は永遠に最悪なままで僕の記憶に残り続け、

僕はそれを他人の記憶に入れないようにこそこそし続けるだろう。




木曜日、台風で多くの電車が止まった日。

帰れなくなった同期と二人で、新宿で酒を飲んだ。

このとき僕はようやく、家族以外の人に祖母のことを話した。


彼は、ただただ僕の話を聞いてくれた。

「大変だったんだな。なんて言っていいかわからないけど、、、」と言っていたが

僕のほうは、人に話せたということだけですごく気が楽になってしまって

それまで三日間まったくってほど出なかった本物の笑顔が、出てきた。

突然世界が明るくなって


次の日からは驚くほど自然に、人と会話を楽しむことができるようになった。

きっとこのとき、二人きりという環境じゃなかったら僕は絶対何も祖母のことを話さなかったと思う。

二人きりというのが僕にとって大切だった。

台風とか、いろいろな偶然のおかげで救われた。


それからまったく彼とその話をすることはなかったし、

二週間くらいは、彼以外の人間には誰にも祖母のことを伝えることないまま時間が過ぎた。




それと時間はさかのぼるけど祖母が死んだ月曜日の夜、

大阪の友達から急に電話が来た。

その日の後ろ向きな僕のツイートを見て、電話をかけてきたらしい

「仕事たいへんなん?」って。

実は祖母が死んだんだなんて微塵も予想してないんだろうな、と思いながらもやっぱりうれしくて

フフっと笑えるような、澄んだ気持ちにさせてもらえた。


祖母の死でもやっぱり、沢山の友達に救われた。

知りもしない友人たちが無意識に僕を救った。

死に立ち会えず、ボランティアもなかったけど

家族と友達はあのときと変わらず僕の心のそばにいて、僕を救ってくれた。


次の週、両親が前々から予定していた東京観光に予定通りやってきて

明るく祖母の話もして

僕は苦悩の洞窟から抜け出せたことを確信した。



ボランティア6日目


早起きして、宿泊所の掃除。
担当の役割や場所が決められているわけではないので、
自分で仕事を探すっていうのがけっこう大変。
そういうのが得意な人ってやっぱいるよなって思う。
それはリーダーシップのひとつでもある。



掃除の後は
全グループが宿泊所に集合してちょっとした閉幕式があり
各班のリーダーが一言ずつ振り返りをした。
高城さんがそこで、僕と祖父の話をした。
僕の名前は伏せて。
これも板巻さんのときと同じように、事前に了承済みで。
今朝の掃除中に、話してもいいかと聞かれて。


高城さんは、話し出すや否や涙ぐんでうまくしゃべれなくなり
早々に板巻さんにチェンジした。
陵南の魚住が引退する時の、あのままな感じで。


板巻さんが話すと
僕はいかにもパワフルな熱血漢のように表現された。
「そのとき、彼は迷わずボランティアを選びました」
というのは、本当ではないな、と思う。




高城さんがそうやって僕のことをみんなに伝えようとしてくれた、
そして泣いてくれたっていうのが
すごくうれしかった。
まるで初めからその思いがほしかったかのように
高城さんのその話のあと、僕はしばらく涙が止まらなかった。


不思議な涙だった。
堰を切ったようにあふれ出る涙じゃなくて
涙腺が機能しなくなって勝手に出てくるような涙。
それと、鼻水が涙以上にどんどん出てきた。



高城さんには、ボランティアの最後にバレたからよかったんだと思う。


僕の選択がいかにも立派そうだったとしても、


僕がボランティアにしっかりと取り組んでいなかったら全然感動するわけがない。

涙が出るわけがない。


僕は最終日までボランティアをして


そしてその姿を見ていた人が、僕の選択に涙を流してくれた。


それですごく安心した。


自分が頑張ってるのかどうか、自分でわからなくてずっと嫌な気持ちだった。


だけど高城さんの涙を見て、ああ、自分はきっとがんばれてたんだな、と思えた。


じゃなきゃ僕のためにこんなに泣いてくれる人がいるわけがない。




閉幕式後、高城さんのところに行こうと思っていたが、


高城さんは他の人と話し込んでいて


僕も直ちにレンタカーを一関駅まで返しに行かなければならなかったので


高城さんとようやく話したのは一関駅でだった。
「高城さんたちに知ってもらえてよかった」ということを
ちゃんと伝えた。

それに、家族や、みっちぇるやKにも決して言わなかった思いというか
ずっと感じていた悔しさみたいなものも伝えた。


高城さんは本当に素敵な人というか
かっこいい人だ。
クールで責任感があるし
それでいて自分の感情を外に出してくれて
何より優しくて純粋。
子どもみたいなところがあるのがいい。
奥さんと子どもは幸せだと思う。


一関駅では、運転手以外のみんなを乗せたバスが僕らを拾いに来るまで暇なので
他の班の運転手たちとラーメンを食べて、
あとはコンビニで立ち読みして過ごした。


バスではまたみっちぇるの隣。
やはりずっと話してた。
お互い一時間くらいだけ寝たけど残りはずっと。


ボランティアとは関係ないけど
大学のときからひそかに抱いていた決意の話もした。
当然、反論された。
この話は誰にも賛同されたことなんてないんだけど
わかってるからそうそう人に話すこともないし
大学の友人の中でも3~4人くらいにしか話したことはなかった。
同じ会社の人には誰にも。


この話をみっちぇるにしようと思ったこと自体が
僕がよっぽどこのときみっちぇるに心を開いていた証拠なんだろう。



20時半ごろに東京に到着したら
簡単なセレモニーをして解散。


班のみんなで記念撮影をして、
そして一人ずつ、あいさつをして抜けて行って
僕とみっちぇるだけになったところで、ボランティアに参加した同期での飲み会へ。

この飲み会はひたすら楽しんだ。
大声出して笑って下ネタ飛ばして
バカになれて楽しかった。
二つテーブルがあったんだけど、
僕のいたテーブルは真面目な話なんて一つもしなかった。
それがよかった。


解散して
大久保駅から寮に歩いてく途中で母に電話。


電話の向こうの母には気づかれてなかっただろうけど
ここでもぽろぽろ泣いた。
とにかく自分が、
ボランティアを選んでよかったということ
それは「良い経験」ができたからとかそんなチャチな理由じゃなくて
「希望の実現の助け」になれたからに他ならないんだってこと。


すごくいいボランティアだった。
間違いなく。