2025年5月10日
関門人道トンネルを観光した後、門司港駅にやってきました。
レンタカーは宿の駐車場に置いています。
門司港駅は、門司レトロの代表的な建物で、駅舎は重要文化財に指定されています。
現役の駅舎で重要文化財指定を受けているのは門司港駅と東京駅丸の内駅舎だけだそうです。
日本経済新聞社のアンケートで「足を延ばして訪れて見たい駅」の全国第1位にランクされたこともあるそうです。
関門トンネルが開通するまで九州の鉄道の玄関口であり、対岸の下関駅との間に就航した関門連絡船との連絡中継駅として賑わった駅になります。
平成31年(2019)には6年にも及ぶ復元工事が終了し、大正時代の姿に復元された門司港駅がグランドオープンしています。
木造二階建ての駅舎はネオルネサンス様式といい、左右対称の造りが特徴的で「門」を表現しているとも言われています。
今も現役で活躍する駅舎構内には九州鉄道の起点を表す「0哩標」、門司港に帰り着いた引揚者や復員兵が安堵の思いで喉を潤した「帰り水」、戦時中の金属供出から逃れた「幸運の手水鉢」等、歴史のエピソードに飾られた見所がたくさんあります。
オリジナル入場券も素敵ですね。
ホームの屋根も木材がふんだんに使われ、レトロな感じを演出しています。
これが実際に素敵な雰囲気を保ちながら今でも使われているのだからたまりませんね。
現在は、関門トンネルが出来て、下関と門司駅が線路で繋がったので、本州からの移動客は来なくなってしまいました。
そのかわり端っこ駅の門司港駅はレトロを好む観光客が多く訪れる駅になっています。
でも、門司港駅は、九州旅客鉄道鹿児島本線の起点駅なんですよ。
電光掲示板が周りとマッチしない雰囲気ですが、これが無いと不便ですから致し方ありません。
ひらがなで「もじこう」と書かれた駅名表示板がいいですね。
列車が到着する度に観光客が下りてきたり乗車したりしています。
駅舎全体の写真パネルもありました、なかなか全体を写真に納められないので有難いです。
駅舎の鉄骨模型もありますね。
コンクリート壁に開いているこの穴は何でしょうか。
スピーカーのウーハーじゃありませんよ。
関門連絡船と旧門司駅の通路に設けられた監視孔でした。
その連絡船へつながる通路がこちらです。
現在は壁で塞がれていますが、ここに船が着岸したのでしょうね。
関門連絡船の生涯と書かれた説明版もありました。
関門連絡船の本州側の港だった唐戸桟橋は現在、海辺の風景とフグなどの海産物を楽しめる観光スポットになっていました。
九州側の門司港駅には、桟橋へ続く旅客通路が残っていました。
両港は民間の小型船でわずか5分ほどで行けるようです。
昭和20年の頃の話です。
終戦を迎え、多くの引揚者が門司港にも到着しました。
朝鮮の釜山からふるさとへ帰る途中の池田うた子さんもそのひとりです。
3歳の子供を連れ、大きなお腹を抱え故郷の茨城へと帰る途中でした。
しかし、故郷から遠くはなれた門司港の地で産気づいてしまったのです。
当然知り合いも身寄りもいないので困り果てているところに手を差し伸べたのが当時の門司港駅職員でした。
うた子さんをリヤカーに乗せ、3歳の子供を背負い、励ましながら病院に向かうも時刻は午後9時、医者も看護師も、もう誰もいなかったのです。
職員は自宅へと連れて行き、近所の女性に助けを借り、昭和20年8月21日、無事男の子を出産する事ができました。
その後、朝鮮半島からご主人が引き揚げてきて、家族そろって無事に故郷の地を踏む事が出来たそうです。
産まれた赤ちゃんには、「左門司(さもんじ)」と名付けました。
それから数十年後、成人した左門司さんは結婚する事となり、かつてより聞かされていた出生のエピソードから、自分の恩人である当時の駅職員を結婚式に招待したいと考えます。
既に26年の時が経ち、恩人探しは難航を極めますが、暖かい人々の善意により見つける事が出来たのです。
ぜひとも結婚式に来てほしいと招待しますが、「国鉄職員として当たり前のことをしたまでです」と辞退されました。
しかし航空券まで用意しての熱心な誘いに、招待を受けたそうです。
昭和46年6月のこと、結婚式の終了後、左門司さんの父がお礼に送ったのが楕円形をした大きな鏡でした。
当時の駅長はこのエピソードに感銘を受け、「国鉄職員の誇りである」とし、この鏡を「誇りの鏡」と名付け、駅事務所に掲げたのです。
とても素晴らしい話ですね。
観光用のトロッコ列車も走っているようです。
今回は乗りませんでしたが、次回訪れた時に乗ってみたいと思います。

























