2025年5月5日
富士山本宮浅間大社の流鏑馬祭に来ています。
午前中の流鏑馬式に引き続き練行が行われます。
正午から午後2時頃にかけて、神事流鏑馬式に先立ち総勢100名程の奉仕者が鎌倉時代そのままの武者などに扮し、市内一円を練り歩きます。
流鏑馬が行われる事を知らせるとともに、奉仕者自らの士気を高めていくのだそうです。
市内の道路は一時的に通行が止められますが、通行止めにはならないようです。
それでも渋滞することは避けられないようです。
宮司さんたちもオープンカーに乗って練行されるのですね。
ここで、流鏑馬の歴史と遷移についておさらいします。
流鏑馬の歴史は古く、“流鏑馬”という言葉が初めて登場したのは、平安時代後期に藤原明衡が記した『新猿楽記』とされています。
当時の流鏑馬は、公家の催しである騎射として盛んにおこなわれていたそうです。
1187年(文治3年)、源頼朝が鶴岡八幡宮で開催したことをきっかけに、流鏑馬は神事・儀式の一環として盛んにおこなわれるようになりました。
鎌倉時代以後、流鏑馬は武士にとって欠かせない武術の一つになり、各地の神社で流鏑馬がおこなわれていました。
戦国時代に入ると、鉄砲や集団戦が合戦の主役として扱われるようになります。
それに伴い、個人武芸である流鏑馬は衰退していきました。
しかしその後、江戸時代に入るとその扱いが大きく変わります。
1724年(享保9年)八代将軍・徳川吉宗の命によって、武士たちが再び流鏑馬の稽古をするようになったのです。
4年後の1728年(享保13年)には、吉宗が子どもの病気平癒を祈願して高田馬場流鏑馬を穴八幡宮に奉納しました。
これ以降、徳川家の厄除けや祈願のため、流鏑馬は神事として頻繁におこなわれるようになります。
そして、武家社会の中に流鏑馬が再び根付いていきました。
1887年(明治20年)には、徳川邸に訪れた明治天皇の前で披露されるなど、明治以降も流鏑馬は重用されました。
流鏑馬は日本に根付き、大切にされてきましたが、戦後になると開催の危機が訪れます。
武道に関する行事が、GHQの指示によって禁止されてしまったのです。
しかし流鏑馬は武道ではなく、古くから伝わる日本文化を伝える神事であると判断され、次第に全国各所で催行されるようになりました。
現在、流鏑馬は海外でもおこなわれるなど、活躍の場が広がっています。
この練行のあと、午後3時~午後4時頃にかけて、神事流鏑馬式(浅間大社 桜の馬場)がはじまります。
拝殿参拝の後、流鏑馬を奉仕します。
射手以外の諸役は氏子代表と同じく氏子より選出された方が奉仕されます。
鎌倉武士さながらの勇壮かつ華麗な流鏑馬を奉仕するのは、齋藤道場一門の方々です。
馬場入馬場入りの後、所役が所定の位置につき、馬場元役が紅の大扇を掲げ、馬場末役が白の大扇をかざしてこれに答えるといよいよ流鏑馬の始まりです。
それまで、もう少し時間がありますので、3時まで待たなくてはなりません。
























