番場宿と蓮華寺を歩く | cotsplaceのブログ

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2017年12月9日

 

醒井宿から鳥居本宿への中山道を歩くさわやかウォーキングに参加しています。

 

醒井宿を後にして、中山道を歩いています。

 

 

柿の木に、柿がびっしりと実ってます。

所々に鳥がついぱんだ跡が見られます。

 

 

道中に史跡案内図がありました。

米原インターチェンジの近くを歩いているようですね。

 

 

中山道の石碑が立っているのは、一里塚の跡のようですね。

 

 

名神高速道路を通るときによく見えた、アイリスオーヤマの工場も見えてます。

 

 

中山道は、小気味よいカーブの道が続きます。

 

 

中山道62番の番場宿にやってきました。

 

 

番場宿は、「瞼の母」の主人公、番場の忠太郎が生まれた故郷ということで知られています。

「瞼の母」=長谷川伸の戯曲

 

 

道の両脇の建物には、問屋場跡の石碑が立ってます。

 

 

 

とっても静かな番場宿を通り過ぎていきます。

 

 

番場宿の近くに蓮華寺がありました。

1400年ほど前に聖徳太子が創建した「法隆寺」がありましたが落雷で焼失し、鎌倉時代になって一向上人迎えて「八葉山蓮華寺」と改称して開山したようです。

 

 

今は静かな蓮華寺ですが、南北朝の悲劇の舞台となったのは元弘3年(1333)の事です。 

 

 

六波羅探題・北条仲時は、足利尊氏に京都で敗れ、北朝の天皇、上皇を奉じて中山道を下り鎌倉へ向かいます。

 

 

番場の宿場に着いた時、南朝軍に囲まれ奮戦するも及ばず、ここ蓮華寺本堂前庭で仲時以下四百三十余名が自刃してしまいました。

 

  

時の住職がその菩提を弔い、名前や年齢、法名を記したのが「 陸波羅南北過去帳 」で重要文化財として所蔵されています。

 

 

仲時以下四百三十余名が蓮華寺本堂前庭で自刃した時、

血が川の様に流れたそうです。

 

 

斉藤茂吉(歌人・精神科医)は、蓮華寺49世佐原和尚の門弟で、何度もここを訪れ病床の和尚の世話もされていたそうです。

 

 

斎藤茂吉といえば、私が学生の頃読んでいた作家の北杜夫(どくとるマンボウ)さんの父親ですね。

 

 

勅使とは、天皇などが出す使者のことで、勅使門は天皇や勅使が来山の折に限って開かれる門でした。

 

 

歴代天皇の帰依厚く、花園天皇より勅許を賜り寺紋として菊の紋を下賜されております。

 

  

由緒あるお寺には、新しい道場も建てられていました。

  

 

悲劇の歴史を持つ蓮華寺ですが、春には背後の山に自生するミツバツツジの群生が満開となりとても綺麗だそうです。

 

つづく