2017年12月24日 去年の記事です。
熊野市にある「花の窟(はなのいわや)神社」に来ています。
神々の母、花の窟神社と書かれた顔出しパネルがありました。
石柱には日本最古と書かれています。
日本最古の神社の一つのようですね。
日本書紀に花の窟の由緒が書かれています。
一書曰伊弉冉尊火神(いざなみのみこと)を生み給う時に灼(や)かれて神退去(さり) ましぬ 故(か)れ紀伊国 熊野の有馬村に葬(かく)しまつる 土俗(くにびと)此神の魂(みたま)を祭るには 花の時に花を以って祭る 又鼓 吹幡旗(つづみふえはた)を用て歌い舞いて祭る」とあり、即ち当神社にして、其の由来するところ最も古く、花窟の名は増基法師が花を以て祭るより起これる名なり。
花窟神社は古来社殿なく、石巌壁立高さ45米。
南に面し其の正面に壇を作り、玉垣で周う拝所を設く。此の窟の南に岩あり、軻遇突智神の神霊を祀る。
此の神、伊弉冉尊の御子なれば王子の窟という旧藩主に於いて、此の霊地保護のため寛文9年9月、及び元禄8年11月四至限界御定書を下付し、且つ高札を建て殺生禁断を布令せられた。
それでは参らせていただきます。
参道には日本最古花窟神社の幟が続いています。
途中で、赤い鳥居を発見しました。
手水舎で清めます。
赤い鳥居の先には、「稲荷大明神」がありました。
黄色い幟には「開運黄金龍神」と書かれてますね。
その隣には、黄金龍神が祀られています。
参道に戻り、花窟神社へ進みます。
再度、手水舎で清めます。
ここを抜けると・・・・
「花の窟」は伊弉冊尊の御葬所で、季節の花を供え飾って尊を祀ったことから「花窟」といわれるようになったようです。
花窟神社には神殿がなく、熊野灘に面した巨巌が伊弉冊尊の御神体となっています。
御神体には7ぼの縄を束ねた綱がかけられています。
実物はこちらです。 木々の間から見えますよね。
横から撮るとこんな感じです。
曇り空だったので写真写りはイマイチですね。
そして巨岩のご神体の前に伊弉冊尊の御葬所がありました。
伊弉冊尊(イザナミノミコト)
日本書紀では伊弉冉尊(イザナミノミコト)と記されている。(『古事記』では伊邪那美命)
日本神話の大地母神であり、人間の寿命を司る黄泉津大神である。
同時期に生まれた国之常立神、豊雲野神、宇比地邇神、須比智邇神、角杙神、活杙神、意富斗能地神、大斗乃弁神、淤母陀琉神、阿夜詞志古泥神、伊邪那岐命と並んで「神世七代」と称される。
『記紀神話』では、伊弉諾尊(イザナギノミコト)と共に天津神に国造りを命じられ、大八島国(日本の国土)と大事忍男神ら35の神々を生むが、軻遇突智尊(カグツチノミコト)を生むときに火傷を負い、それがもとで神逝る。
こちらは、軻遇突智尊(カグツチノミコト)の御葬所です。
日本書記では軻遇突智(カグツチ)、火産霊(ホムスビ)と記されている。
伊弉冊尊が火の神である軻遇突智尊に焼かれ、臥せりながらも土神(ツチノカミ)埴山姫(ハニヤマビメ)と水神(ミヅノカミ)罔象女(ミツハノメ)を生んだ。
軻遇突智尊は埴山姫を娶って、稚産霊(ワクムスビ)を生んだ。
この神の頭の上に、蚕と桑とが生じ、また臍の中に五穀が生じた。
罔象、これをみつはと読む。
伊奘諾尊、恨みて曰はく、「唯、一児(このひとつぎ)を以て、我が愛しき妹に替へつるかな」とのたまひて、則ち頭辺に匍匐ひ、脚辺に匍匐ひて、哭き泣ち流涕びたまふ。
其の涙墜ちて神と為る。是即ち畝丘の樹下に所居す神なり。啼沢女命と号く。遂に所帯せる十握劍(とつかのつるぎ)を抜きて、軻遇突智を斬りて三段に為す。此客神と化成る。
日本書紀は難しいですね。
参拝させていただいたので戻ります。
神生みの舞台がある、熊野は日本の原郷のようですね。
新年最初の花火大会の募金を受け付けていました。
皆の願い事が書かれた絵馬がびっしりと並んでいます。
それぞれの願い、叶うといいですね。
「花の窟神社」の前にあるのが「お綱茶屋」です。
ここのみたらし団子は、 古代米を混ぜてつくられたオリジナルです。
何故か団子が4つです。
熊野名物のさんま寿司もありますし、奈良名物の柿の葉すしもありました。
古代米のいざなみ米も売られてますね。
適当に見繕って買いました。