ドイツ映画 「白バラの祈り - ゾフィー・ショル、最後の日々」 | 高知・コスタリカ友好交流を創って行く会

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 この会の趣旨目的は、平和学の調査研究です。特に、国連平和大学の「ジェンダー&ピースビルディング」つまり「人間関係学」と「修復的司法」をテーマに研究中です。
   「良きコミュニケーションのあるところに、平和は生まれます」
























http://s.webry.info/sp/eigajigoku.at.webry.info/200602/article_1.html より転載

http://www.shirobaranoinori.com/

1943年2月18日、反ナチ活動グループ“白バラ”のメンバー、
 ゾフィー(ユリア・イェンチ)とその兄のハンス(ファビアン・ヒンリヒス)が、
 大学構内で反戦ビラを配ったために密告を受けて逮捕された。
 ベテラン尋問官モーア(アレクサンダー・ヘルト)との取り調べの中、
 ゾフィーはなんとか自分たちの無罪を主張するが、
 ゲシュタポの捜査により決定的な証拠を突き付けられてしまう。
 モーアは、厳しい尋問にも屈せず信念を貫こうとする、
 彼女の姿勢に少なからずシンパシーを覚え、「仲間を売れ」と取り引きを提案するが、
 自分を裏切るぐらいならとゾフィーはあえて死を選び、2月22日、
 人民法廷の下した「大逆罪」によって、仲間たちとともに即日斬首刑に処せられる……。

結論からいうとこの映画は、
過去に実在した偉人を紹介する“伝記”としては力作かもしれないが、
その素材に“今”を撃つような、現代を訴えるような力強さがまるでない。
またゾロおかしなことを言っていると思われそうだけど、
要するに、「ナチスは過去の話」、
そして「当時、こんな女性がいました」という2つの“前提”が、
観る者に要らぬ予定調和と安心感を与えてしまい、
ゾフィー・ショルたち白バラのメンバーが、
そして当時のドイツに暮らしていた人々の感じていた恐怖が、
今にも通じる恐怖としてコチラにまるで伝わってこないのである。

もっと噛み砕いていえば、2時間強の長尺のワリに、
ゾフィーたちや市井の人々の目に映っていたハズのナチスの政治的恐怖を、
“前提”で終わらせて描いていないモンだから、
白バラの動機や心情に主観的に迫ることができず、
結果、スクリーンと客席の間に予想以上の距離が開いてしまっているということ。
つまり、この映画には“余裕”があり過ぎて、
その余裕がきっと等身大のフツーの女のコだったに違いないゾフィーのことを“神格化”させすぎてしまうのだ。

難しい話なのかもしれないが、『ヒトラー』 でも感じたのと同様、
この後に観る 『オリバー・ツイスト』 のロマン・ポランスキーが、
『戦場のピアニスト』 で克明に描いたような、
ナチスによる人間性皆無の“無機質な恐怖”をドイツ人の目から描けない限り、
これらの素材はドイツで映画にしても本当の意味をなさないとボクは思う。
(別に今のドイツをどうこう言っているワケじゃない。念のため)

“前提”なんてわかり切ったことを描いても仕方がない? それは違う。

ナチスそのものは特殊な存在だったかもしれないが、
その根底に潜む偏った思想は、
今の世界にだって至るところに存在しているもの…。(そうは思わないか?)
例を挙げれば、大暴動が起きたドイツの隣国で、
移民の若者たちを差別しまくったあの政治家たちの姿なんてまさにナチそのもの。
コスチューム・プレイとしての時代劇ならともかく、
今の時代の教訓となるような( 『ホテル・ルワンダ』 みたく)普遍性を持たせて描かなければ、
史実を映画で扱う意味はない。

だから、ゾフィーとモーアによる1時間以上にも及ぶ尋問のシーンにはまるで緊張感を感じず、
というよりもっと容赦なくいえば役者と演出の自己満足にしか見えず、
ゾフィーたちが人民法廷で死刑判決を受けてからの展開も、
客を感動させる(泣かせる)には直截な演出だったかもしれないが、
前提扱いによる必要以上にヒロイックなゾフィーの死にゆく姿に、
ボクはまるで生身の人間を感じなかった。

もちろん、観る価値のない映画だなんてひと言も言っていない。
キャストは本格派揃いでみな熱演には違いないし、
こういう若者たちがかつて存在したその事実だけでも、
忘れてしまわないためにその記憶として映画は機能してゆくべきだと強く思う。

でも、この力強い実話を過剰に“過去”として神話化してしまうには、
(戦後)60年という年月はそんなに昔の話じゃないとボクは思うのだが……。