共感求めて小説書く奴ほど信用できない奴はいない
あんたはなんで小説を書いているんだい?
あんたはなんで小説を読んでいるんだい?
そう問われた時それぞれに尤もらしい言葉が出てくるのだろうなぁ。
身も蓋もないことを書くようだけど、私の場合は、『神様、僕に夢をみせないで…』を書くために小説を書きはじめたと言えるのである。
ブッチャケの嘘偽りのないところ、これ以外に理由はない。2011年にダ・ヴィンチの「サルバトールムンディ」という作品に出会い、その後数年ほど経って、なんとなくこれを言葉にしなければならない義務感に苛まれ、何度も書いては捨て書いては捨てを繰り返してきた。日本の美術史家はみんな口を閉ざしていた。
これがオモシロくてね。何故、みんな感じているのに口を閉ざしているのだろうと(笑)
何故、日本人の美術史家であり美術評論家は「なぞる」に留め、何故日本人からの言葉にしないのだろうと。答えは私の中では分かっていたけどね。その時に感じたことは学問を不自由なものにしているのは貴方たち自身なのだよという処に帰結した。
本来、学問は自由であるべきなのだ。答えは感性でよい。しかし手立ては理論である。これはわたしの言葉であるが、残念だが、現代の芸術系の学問を眺めたときに、手立てから答えまでを理論で括ろうとしている思惑が見て取れる。
この辺が、芸術を不自由なものとしていることに気が付いていない。例えばコンプラにしてもそうだが、本来、芸術にコンプラを持ち込むことは馴染まない。馴染まないことは分かっているくせに、都合よく「誰も傷つかないように」などと売るための阿りを覗かせる。
画はね、言葉ではないからね、感じ方は如何様にでもお任せできるわけだ。しかしながら、カラヴァッジョやシーレのような画を描く者であるとするならば、今の時代であればコンプラの名のもとに、圧殺されるだろうね(笑)
例えば、ダ・ヴィンチの、サルバトールムンディが、パトロンが教会であり、教会からの依頼による画だったとしたなら……、受け取りは拒否されていただろう。
『異端』だもの(笑) 明らかに異端なのだよ。
ダ・ヴィンチの時代には画にはタイトルはついていない。18世紀に入り、一般大衆が画を楽しむという下地が出来てから、オールドマスターと呼ばれる作品たちにタイトルが冠されるようになった。だから、サルバトールムンディなのだ。
先日書いた原稿で『日本人にしか書けないけれど、日本人には書けないお話。だけど日本人が書かなけりゃいけないお話。でもね、読める日本人はごく一部。けして市場は大きくない。ところが、世界に出したらみんな読める。そういう話なのね。凄いでしょう。こんな小説ちょっと珍しいと思う。楽しみにしててね』と書いている。
まぁ、意味が分かる人が意味は分かればよい。
ただ、小説書きとしては、わたしは、これを書くために小説を書きはじめた。このことだけは知っておいて欲しい。わたしが生きてきた理由。私が本を読んできた理由。私が世界中を眺めさせて頂けてきた理由。本を書きはじめた理由。そして背中を向けず十字架を背負い続ける理由~格好の良いものではない。むしろどうでもよろしい。
『神様、僕に夢をみせないで…』は日本人の為に書く小説ではない。世界中の本読みがこの小説を読んで感じた姿を日本人が眺めて「どうして……この小説が…」そう感じてから日本人が読めばよいのである。
そしてね……私の挑戦はこれで終わりではない。多分、そこから死ぬまでの間が本当の挑戦になると思う。そして死んだときに「あゝ~世一のやりたかったことは……」と理解してもらえると思う。
わたしの書く物は人を幸せにすることは願ってはいない。
共感なんぞは糞っ喰らえである(笑)
共感求めて小説書く奴ほど信用できない奴はいないのである(笑)
了
