いやいやいや~ ごめんなさい。それだけは、田中一村だけは……
いやいやいや~ ごめんなさい。それだけは、田中一村だけは……
定期的に見られるアクセスのひとつに、田中一村に関連した原稿がある。
どういうご仁からのアクセスであるのかは判らぬが、有難いアクセスの一つであることに違いはない。いつもありがとうございます。励ましを頂戴しています。
別に誰かに書けと云われたわけではないが、ただこれは書けぬよ、わたし。そんな簡単な画家ではない。わたしの抱えている芸術家たちの中でも最も難解、難題を想わせる芸術家の一人だ。それこそ、関係者からお話しを聞いてみたとて、書けるかどうかはわからない。いや書けないね。聞いても書けない。
どう云えば良いのだろうか。毒とその対極の存在という位置づけで書けるものではないと感じている。
きっとね… 幾重にも折り重なった絹布の襞を、傷つかぬよう傷めぬように~ まるで重要文化財を手に取るように手袋をはめた上で触ることが当たり前のように感じられる。
ザクっザクっと切り崩すような書き方もあるのかもしれない。ただそれをやると、浮かばれまい~と思えてしまう。切っ先が骨を断ち割ることは適わず________ と思える。
間違ってもデバガメ如きの書き口になることは避けなければならない。デリケートでありセンシティブであり優しくあり愛に溢れているであり。苦しくもあり辛くもあり。柔らかであり頑なであり、制限と許容、歓喜と苦悩…… こうして書いてみたところで"骨まで"届くことはない。
田中一村という画家の作品は、超越した自然美を通じて眺めた"愛の容"と思える。これだけは解る。しかしそれ以上のこととなると、んなものはまだまだ書けないのだよ。わたし。 田中一村に手染めるにはあまりにも能天気が過ぎるのである。
ここを訪れていただける読者にとって、最も寄り添いやすい書き方をしてみたとするのなら__________ 地獄の閻魔様に手土産を持ってゆかねばならぬ生きすがら~ というものに思い寄せてみると良いだろう。
多様性が声高にされ、人権が一定のガバナンスのもと担保される今世。
果たして、地獄の閻魔様に手土産を持ってゆかねばならぬ生きすがら~というものに想い馳せることはできるだろうか。寄り添えるだろうか。
極めてタイトな制限と許容という時代を生きた人間にしか"地獄の閻魔様に手土産を"とはならぬはずである。
その制限と許容ですら御仏(みほとけ)が創りたもうたものではない。
いつか書ける日が来ればいいけどね。
多分これだけは来ぬと思うのであるよ。
何故なら、わたしの場合は"持っているもの"しか書けないのだから。
歴史時代小説や伝記スタイルであれば始末をつけることができる手練れはおられるだろう。しかし…… いやいやいや、歴時か? 伝記か? ノンフィクションか?
ちゃうでしょう。The 純文学しかないでしょう。この生き様は。
まぁどのようなジャンルで書いてみたところで、結局は純文学に振れるものとなりそうなのだが。
この画家の真実は重い。
はぁ~ 才能だわなぁ。。。やっぱさ。
河井は書ける。御舟も書ける。その他、書ける作品、芸術家は少なくないはずなのだ。
しかし一村はどう考えても書けぬのである。シンクロできなきゃ書けないわなぁ・・・・・・。
今の時代にこれを書けたとするのなら、生きていられるか微妙だろう。むしろ書く以前に逝っているかもしれぬわなぁ。
それほどまでに、この画家の真実は重い。
田中一村 枇榔の森に崑崙花
自然の模倣ではない。超越した自然美を通じて顕す一村の愛の容(かたち)に想えるのである