随想好日 『わたしは自分の作品に……』 | 異端のTourism Doctrine

随想好日 『わたしは自分の作品に……』

 

 

 

優れた芸術には"なに"と"なぜ"に考え及ばせる力があると思っている。詩であろうと小説であろうと絵画であろうと工芸であろうとだ。いや、寧ろわたしの場合はそういうもの達や作品たちしか愛せないという偏りは強い。


読み手であり眺め手に立った時の自由裁量のふり幅に押しつけがましいものがあってはその時点で愛する対象として眺めることはできなくなる。
だから初めから答えが決まった前提のものは詰まらぬし愛せない。

意外性ということかと問われれば"違う"と答え、心の置き処によってとなる。
あくまで個人的な感覚だがつまらんのである。

 

こうも読めるよね、あぁも読めるよね。それで真実は何処にあるのだろう。多分こうじゃないだろうか…… これこそ芸術のあるべき姿だと思いこんでいる。

小説や詩の書き方に通じて来る話でもあるが、ちょっと難しい。総論賛成各論反対というわたしの読み方、落とし込み方も機能している所もあるが故、殊更ここで深堀し取り上げることはしないままに先へと進めるが、「説明するな」にも一部通じて来る。これだけでは言葉足らずなのだ。
 読み手、眺め手にとって芸術との触れ合いは感性に刺激を貰うための旅に他ならない。その前提をすっ飛ばして「説明するな」となると些か乱暴なのである。書き手が居るから読み手がおり、一人でも読み手が居てくれるから書き手は書ける。書き手のテクニックから眺めた「説明するな」論は目にするのだが読み手主体に基づいた「説明するな」論をみることは少ない……
そこの理解ありきだろうと考えるのだが…… これまた長くなるので先へと進む。

 

例えばリンクを貼った昨夜の原稿を例に挙げてみようか。
「こいつ、またやってやがる。ったくしょうがねぇなぁ。面白い奴だ(困った奴だ)」と読んだ人間と「下品 ! ! 」と感じた人間であり、「そうなんだよね。年を取ってくると腹筋が弱ってくるから押し出すチカラが弱くなって」そう読む人間でありが存在したと推測するのだがどうだろう。もちろん「スキ」と感じる人は少なかろうが「嫌い」と感じた人は多かったろう。中には何が書きたいのだろうと感じてくれた人間もおられたかもしれぬ。

 

愛だ恋だアナキズムだソーシャルが市民権を得ている詩の世界において、わたしの書いた曰く詩のようなものが評価されるとは考えよう筈もないが、どうだろう、どうせなら答えを探し導き出す楽しさであり、芸術家のそういう手練手管に嵌ってみるでありという楽しみ方も、"今一度"見直しておいても邪魔にはならないはずだ。

 

私のような者が書いた作品にですら「なに」と「なぜ」への誘いは必ず用意する。ただ有体に申し上げるなら、毎朝毎夜上がってくる何百、何千とある作品群一つ一つにそのように向き合っていては時間はいくらあっても足りぬのだろうなぁ(笑) しかしね本来それが芸術に向き合う、あるべき姿のようにわたしは感じているのである。

 

 

糖尿と膵臓を悪くしてから、93キロほどあった体重も今では65.4キロまで落ちている。ご存知のように糖尿や膵臓を患うと「筋肉」を消費することによって必要エネルギーを賄うよう躰の防衛本能が働く。
腕はやせ細り、足もやせ細り、尻は垂れ、頬はこけ、腹筋は薄皮1枚残すのみとなる。さて、そうなるとトイレも中々の重労働。兎に角、肚に力が入らなくなるのである。

 

はん。こんなものは書かんだろう ? 詩であろうが小説であろうが。 
読みたい人などおらぬわな。書いてもつまらん。
こんなものを書くくらいなら、自分をネタに笑ってもらう方が清々しく、嫌いであれば「悪趣味」と罵ってもらう方が書き手としても愉しめる。

 

ひとつ憎まれ口を書いておくとだね(笑) 考えようが考えまいが、永く生きればどの道「おしめ」のお世話にもなるだろうし、介助の手も煩わせることにもなる。坊ちゃんも嬢ちゃんも、兄ちゃんもネェちゃんも、おいちゃんもおばちゃんもだ。
そういう年齢、そういう境遇になった時の「物書き」としての自分の姿であり価値観を早い時点で持っておられる人間をみつけると、あたしの場合は「おそれいりました。御見逸れいたしやした。ギブです」となるのだワ。

人間が生きる姿はけして気持ちの良いものばかりではない。恋と愛で一生オワレリャこんな有難いことは無い。
例えば……これなんかどうだろう。

眼下にはクルックルックルの上
努力の結晶が長々と横たわる
まるで祭りの夜店で売られている
チョ●レートバ●ナのように

 

"わたし"は便座に座ったままにウォシュレットを尻に当てながら、眼下に広がる光景を眺めているわけだ。
人は何を考えながら眺めるのだろう。涙しながら眺めるのかもしれない。なぜ ?  嗤いながら眺めるのかもしれない。なぜ ?


"におい立つ"ほどに美しく感動するふり幅の広いシーンのひとつである。

 

もしも分からなければ、シーンの画をイメージしてみると良い。
エゴンシーレによるタッチの画をイメージすると分かりやすいかもしれない(笑)

 

これがもしも……次のように書いたらならどうなのか。

 

眼下にはクルックルックルの上
努力の結晶が長々と横たわる
わたしはそれを涙しながら眺めみた
病魔によって加速度的に老化はすすみ
まるで祭りの夜店で売られている
チョ●レートバ●ナのようなそれを
恨みがましく眺めみた

 

読み手の感性に対する思いやりが欠如した結果となるやもしれぬ。
少なくともわたしにとっては美しくない(笑)
押しつけがましい。つまんない。

こういうものを書くと読み手の感性が刺激を受けることは無い。刺激への旅は必要としなくなる。画なんかイメージしなくても済むだろう ?
 読み手の心の置きどころなどお構いなしである。

とっておきの美しいシーンを切り取れるような芸術家(藝術家)になりたいねぇ。自分にとって、自分が考える美を創造し、まずは自分が感動できるものを仕上げる時間を大切にしたいとわたしは思うのであります。

 

わたしは自分の作品に一番最初に"感動"したい。
そういうものを産み落としたいなぁ。

 

因みにだが、お陰様で今では普通に洋式便器に座って用を足せるように回復をみているので何よりなのでございます。
が、あれ以来、拙宅のトイレにはビニールシートが常設となりましたがね。
使わずに済んでおりますが。