随想一夕 ■思い込みという魔境は概して居心地が良いのだが~■ラ・トゥールとカラヴァッジオ | 異端のTourism Doctrine

随想一夕 ■思い込みという魔境は概して居心地が良いのだが~■ラ・トゥールとカラヴァッジオ

随想一夕 ■思い込みという魔境は概して居心地が良いのだが~■

ラ・トゥールとカラヴァッジオ

 

数日ほど前になるが、我流の学び領域を徹底的に極めておきたいことがあり、崇敬する宮下規久朗氏の手による「しぐさで読む美術」ちくま文庫を手にしていた。早速、自習教材として開かせて頂いく。本の詳細などはまたの機会に譲りおくが、残念ながら新刊がすでになかったことからユーズドを購入したものだが、400円。状態もよく、お値打ちだったのだが、新品買えなくてごめんね宮下さん。新刊出たらまた買わせてもらうからね。

 

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ちくま文庫 しぐさで読む美術史 宮下規久朗

 

さて、宮下氏の手によるこの本を読んでいて手が止ったページがある。

83ページに写真と共に紹介されていた17世紀のフランスバロックの画家、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールのページである。ちょっとこの「フランスバロック」という書き方がわたしの浅学を象徴しているように感じるのだが、まずは許して欲しい。先に進む。

 



「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール」と云えば、カラヴァッジオ・ファンにとっては当然のように知られたところの「カラヴァッジェスキ」である。
 有名なところでは、北方ルネサンス以降のオランダバロック界(オランダ美術黄金期)を中心に活躍した画家たちは大なり小なりカラバッジョの影響を受けていたことでも知られている。フェルメールであり、レンブラントなども知られたところだが、所謂生粋のカラヴァジェスキとしてはフランス人画家のジョルジュ・ド・ラ・トゥールも人後に落ちないだろう。

 

【そういえば、ラ・トゥールはカラヴァッジオの作品と同じ系統の作品を描いた画家としても知られていたよな】・・・・・・はじまりはいつもこんなところからである。

 

そう。ラ・トゥールという画家は、カラヴァッジオが描いたモティーフを自らの感性に落とし込み作画した画家でもあるのだ。

カラヴァッジオ作「法悦のマグダラのマリア」であり、カラヴァッジオ作「占い師」であり「いかさま師」であり。ジョルジュ・ド・ラ・トゥールはカラヴァッジオが選択したモティーフを自らの画として落とし込んでいる。

さて、そんな折のこと。noteのクリエーターさんの原稿に興味深いものを見付けた。

原稿はルーブルにかけられているジョルジュ・ド・ラ・トゥール作「いかさま師」という作品について触れておられ、とても興味深く勉強させて頂くことが出来たのだが______

 

_ここで我が魂がまたぞろ咆哮を発したのである。悪い癖、メンドウクサイ癖がムクムクとしはじめた。

『おかしいだろお前。この"いかさま師"。カラヴァッジオのいかさま師は男しか出ていなかったけど、ラ・トゥールは登場人物は男女だろう。なんで、ラ・トゥールは男女にしたのだ。なんでラ・トゥールはモティーフをカラヴァッジオから持って来て描いているのだ? そうする時の人間の心理はどの様な動き、働きをみせればこのような選択になるのだ。まてまて……ラ・トゥールの"いかさま師"あれは正常か ? 登場人物凡てが"いかさま師"ではないのか?、あん? カラヴァッジオよ、君の描いた登場人物たちも凡て"いかさま師"に見えはじめたのは何故だ。そして三人とも本当に真正の"男"なのか?』

 

人間の目というものは思っているよりあてにならぬものである。目に見えたものを"思い込む"ということなど日常茶飯事のこと。後から気が付きゃ「なーんだ」であり、臍が茶を沸かす~などということは枚挙に暇無しでもある。はて男の格好と思しき風体。男だろ ? ふむ~女と思しき風体、女だろう__________。


 では、もしも画家の狙いがそこにあったとしたらどうだろう。

 ラトゥールがカラヴァッジオの画の仕掛けを読み解いていたとしたらどうだろうか

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カラヴァッジオの手によるいかさま師 1594年ごろ

 

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ラ・トゥールの手によるいかさま師 1630年ごろ

 

まぁ、絵画に興味が持てない人たちであるなら、大よそ跨いで通って当たり前のところに躓くのがわたしなのだが、わたしの場合はこういうところが小説を書く際の取っ掛かりとなるのだ。

 

さて、実はこのラ・トゥールによる「いかさま師」という画。
日本の小説家であり、美術史研究家でもある柳原 慧氏が2005年に小説としていたことがわかった。オモシロい。全くもってオモシロいではないか。

 

であるのなら、まずは読んで勉強させて頂かなくばなるまい。柳原氏の小説作品の作風から云えば"推理小説系"に振れているのだろうか。

 

現時点で、わたしの元に落ちてきているのは、二枚の画、カラヴァッジョとラ・トゥールによる、二枚の「いかさま師」なのだが、オモシロいことに一方は一見"男"の"いかさま師"、一方は男女の"いかさま師"という画であることだ。
これは堪らない。根源的なテーマを炙り出す上においても最高の触媒となるだろう。
 例によって「対極に位置するもの。対極の存在」としての抑えである。

良いではないか。同名タイトルの小説を仕上げてやろう。
どっちみちわたしはそっち系のものしか書けないのだ。
 速水御舟の「炎舞」も自習はひと段落をみた。あとは、三島の金閣寺を再読し、俺流読後かんそう文を細分化すると触媒とすることが出来るだろう。

楽しい♬ ワクワクする♬ 幸せを感じるのである♬
何処から堕ちて来てどの様な繋がりをみせてくれるか判ったものではない。

感性は常に磨いておかねばならないのである。