
◆永久保存版・Holic PeopleのBible『美術は宗教を超えるか』
◆永久保存版・Holic PeopleのBible『美術は宗教を超えるか』
雨上がりの大阪は、湿度が立っているためか幾分暖かくもある。
出先から畑を経由し、お隣の畑に芍薬の球根とチューリップの球根を植栽しておいた。
五月ともなれば、チュウリップも咲きほこり、芍薬は存在感のある幾重を魅せてくれるだろう。
冬来たりなば春遠からじ。
楽しみである。
さて、出先から戻ってみると、注文しておいた本が届けられていた。
衝動に駆られる。
包み紙を外すことすらまだるっこしい。ビリビリと外紙を破り捨て、寸暇を惜しんでも実本を手にしたい。
ほんの数秒のことではある。それすら気持ちがはやる。
しかし、実本を前にした時の感動は何なのか。
その答えは最終章の第五章にあった。
第一章から第四章は目もくれず、第五章をめくる。
この本。やはり一筋縄でゆく本ではない。
第五章の導入部、僅か数行にこの本の本質は滲む。
完全に福音書である。
共著という体ではあるが、その存在は「宮下規久朗の福音書」に他ならない。
ね~、やっぱり。だろうと思ったのよ。
読まずとも、視ずとも分かるのよ。表紙と章立てだけ読めば。
だから私は本の紹介原稿を上げ直したのよ。
前の原稿は、下書きに残してある。
因みに、現時点において、私はこの第五章導入節の5行しか読んでいない。
この本の魂の住処は第五章にあり ! !それがこの本を見つけた時から居座っていた観測結果だった。
この本、私にとって、共感などという生易しいものを狙った本とは思えない。でなければ、あの導入節のやり取りに「キリストの言葉」を"例えとして"持ち出す合理性は見つけられない。
この本の本質がそこにあるはずなのだ。
この本のブックレビュー、絶対に"俺流解析"になるだろうなぁ(笑)
しばしお待ちください。今からヨム。
◆
ものの3時間半だろうか。たった今読了した。
キリスト教という宗教に帰依しておられるお二人の対談は、私のような浅学なる者にとって、深淵なる真理への理解など及びもつく話ではなかった。ただ感じられたのは、宮下氏のファンや支持者にとって、この本は「Bible」そのものになるだろう。GospelやDoctrineというレベルの本ではない。
宮下氏の著作物は7~8冊ほど持たせて頂いているが、これまで、こういう書き口、内容の本には巡り合っていないはずなのだが__________佐藤 優氏というお相手が居たればこその本となったことは、私のような者にあってさえ理解及ぶところではある。
我が体内にお二人の言葉が入って数時間しか経っていない。言葉は、未だ言葉としての存在感だけを放っており、私の中でお二人の精神世界を見出すまでは一定時間を要することは明らかと思える。同時に、我が浅読感は拭えない。
ただこの本。やはりBibleである。他に例えようが無い。
分かり易く申し上げるのであれば、ベッド脇のテーブルの引き出しに入れておかれ、朝な夕な読むに相応しい本とすら思える。私は"布団派"なので、枕元に常備しておく一冊となったことは間違いない。
知識や知恵はいうに及ばす、猛省もした。我が意も得た。優しさにも触れた、かけがえのない貴重な一冊を手にした。しかし、なんで今頃かねぇ~もっと早く読みたかった本ですわ。
ワクワクはワクワクで収まらず、さらなる旅の必要性を私に下ろした。
"画との出会いは一期一会"全くもって同意する。
同時に、良書との出会いも一期一会であろうか。
佐藤氏の「最後の一行が~云々」その通りである。この世の事象すべてに通じて言えることだ。
仕事の完成度は着地のイメージに比例する。ケッツが見えて来ないものはブワブワなのだ(笑)
あたしも見てますが、本件……まずもって遠く、険しいのです(笑)
例えばこの不染鉄の描いた「夢殿」。私はこの画について次のように書き記している。
「よしんば、この画が「信仰」の対象となったとしても、それは当然のことであり、驚くに値することではない。不染鉄、そういう画を描く芸術家である」と。このくだり、私、狙って書いています。私の死生観(信仰)に通じてくる魂そのもの。
多分、また紹介文上げると思います。もう少し読み込んでからね♬
お二人に心から感謝を。
てかさ、随所に散りばめられた「コードとアレゴリー」
へいへい~って、涙しながら読みましたれすwへいwww
了

