◆永久保存版・"文学"がゾンビ化した日
はじめに~メッセージを少しだけ。
大丈夫。めげない。ブレない。没頭したら10年はやるからね(笑) 10年やれば結果はついてくることは知ってるから。がここで言う結果とは"達成"を顕す言葉ではないことも知っている。そんな生易しい世界じゃァない。
差乍ら、サァファリテーマパーク。
ここの食物連鎖の頂点を極める者がどういう存在かは分からない。
獅子なのか、熊なのか、グリズリーなのか。ジャガーなのか、はたまた狡猾獰猛貪欲なるオオカミの群れなのか。
どの道、そのサンクチュアリに至るためには、冥府の門、いや"地獄の門"に控えし、ケルベロスの審判を仰がなければならなかろう。
Poète_______________汝、くぐる前に立ち止まりて考え及ばせよ。この道ここから先片道となる。それが故の地獄の門。ははぁ~なるほどね~これが"考える人"のロゴスなのか。
_________________いつもお気遣い有り難う ! 感謝してます。
以下一部修正加筆済み
お勉強で参考になったこと。
◆行変は「ここ」という時の天下の宝刀。シーンチェンジに使うべし。
多用することによって却って読みにくいものとなり「行間」が躓きの原因ともなる。
◆それ、あれ、これ、そこの使い方に気を遣うべし。
◆スラスラ読めること。
◆素直な文体。
◆読者との共感と共有。
うーん・・・・・・
先生は、評価する言葉として「共感できる」という言葉を多用しておられたのだが・・・・・
裏返せば、自己満足化しちゃダメよ~ということとなるのでしょう。
先生による共感対象作品は、概ね「日常」から派生したプロットが際立っており、物語に登場する女性の心の動きと言葉に対して向けられたものであり、「共感」という言葉が向けられた作品は女性のものが主立っていた。
これは事実そうだろう。講評者である先生が女性であるからして、女性の描いたものに「共感」を見出すこと自体は理解できる。
が、男性が描いたものには「共感」という言葉は聞こえなかった。
「共感」が講評上のレーダーチャートにおける項目の一つとして存在するという基準があったかといえばどうだろう。
レーダーチャートであれば明確な「主体と属性」が存在する。
これは分かり易い。
①世界観、②独創性、③調査と学習深度、④言葉の感性、⑤文章力と構成力、⑥共感と共有、⑦万民受け度合い~基準。
10段階~この瞬間、私は⑥と⑦はレベル1か2(笑)
⑤は客観的判断するファクトを持っていないため自分では評価のしようもない。
④は6または7。③も6または7。②は9か10。①は10。
う~ん(^^♪ 如何にも私だわ(笑)
しかしながら今回私が感じた違和感は、評価者(読者・読み手)が溶かし込める情報こそが有益であるとする、いわば"主観的"であり"マス迎合型"基準が際立っていた点だ。同時に「知らない世界」の出来事は共感できないとなれば、これは既に講評とは呼べなかろう。
例えば__________________プロットが私の描いたものの様に「画」であり「芸術」であり、"思想的"なものとなれば現実に共感共有のための下地を持っている者が対象となる。残念ながら、そう云う"下地"を持っていない者にとっては「共感も共有」もあったものではないのは当然のこととなる。
これは仕方がない。
従って、大きな市場で商業作家を目指す御仁にとっては「共感者」の獲得は益に繋がる~。
というのが今日のところの結論ではある。
哲学書を前にして「誰もが共感できる」かと云えばそうではない。
寧ろ哲学と聞いただけで、思想と聞いただけで「メンドクサイ奴」となるのが昨今だ。
「誰もがスラスラ読める」かと云えばそうではない。
概ね本箱の片隅、背表紙が日焼けして茶色くなるのが関の山。
古典化した純文学の作品を誰でもスラスラと読むことができ、誰でも共感が出来るかと云えばけしてそうではない。
吉行作品などは、女性受けは頗るつきに悪かった。
同時にポルノ映画くずれのタイトルとして往時"銀幕"を飾った。
これなどは、市場を性衝動という最も"共感"に引き摺り込みやすい方向に誘導した最たる例であり、潮の変わり目が招いたあの時代の吉行"文学がゾンビ化した日"でもある。
太宰の「人間失格」なども現代社会で共感を呼ぶかと云えばほぼ共感は呼ぶまい。
実際、映画の評価は低かった。
古典へのオマージュであり、芸術家が抱えた死生観への旅_____________。
あの映画、あの話に現代社会が共感を共鳴させることはほぼ無い。
手元に用意したポップコーンの塩加減が濃いか薄いかが主体となり、映画の味は覚えていないというのが関の山とも思える。
共感と共有がマス化した市場の中で幅をきかせることと文学を同列に扱うことは、ダイバーシティーへの逆行となろう。
なんともしゃらくさい、文学を語るつもりはさらさらない。また、語れない。
ただ、先生の考え方、ポジション取り、勉強参加者と市場を繋ぐ姿勢を理解させる象徴的な考え方をみた場面がある。
「LGBTQの扱いは慎重に____________気をつけなければなりません。」
これは、聞きようによっては、敵を作るな~とも受け取れ、"有難がる人"にとっては金科玉条なる名言でもある。これが今の「ノベル」を作る側、売る側の姿勢だろう。
他し言にはなるが、先生から「主人公が、この女の子と簡単にやれちゃわなければいいと思った」という感想が述べられたが、その瞬間に「先入観」という言葉が私の脳裏では飛び交っていた(笑)し、全体のプロットが見えなくば、見えた経過の中で「共感できないファクト」が増幅し評価する上でこれが支配的になることは仕方ないとも思えるのであるが__________________。100ページのうちの10ページ。(笑)ではある。同時に「共感」の対象がやるかやらないか、やれるかやれないかという処で収斂をみせることは如何にも尊ぶものが現代的ではあるという印象を受けた。
多分・・・・・・ああいうものはお嫌いなのでしょう(笑)
因みに主人公はこの女の子とはやらない(笑)
この女の子には、彼氏がちゃんとできる(笑)
なんだろね、なんかの"先入観""色眼鏡"で観てる(笑) ?
フィクションだからねェ~重ねないでねw
冗談はさておき。
今の文学の世界。ノベルが存在を際立たせているのだろう。
これは勉強の場所がそういう方向に偏っているということではなく、文学全体が商業ノベル化している顕われと観ることも出来そうだ。
うん。今日で大体のテイストは理解できました。
次回から、具体的テクニックの指導を仰いでみたいと考えます。
死生観、思想、哲学、美、ロゴス、イデア
これまた流行らないものに手を染めているわぁ(笑)
別に、他人様と自分を比べているのではなくて、時流という意味でね。
ただね。
私の描こうとするもの_____________。
絶対に日本人にしか描けないのよ。
欧米人がダ・ヴィンチを描くことは、日本人が「ドラえもん」や「コナン君」「サザエさん」を描くことと同じなのだ。
欧米人は概ね宗教的ドグマに縛られながらダ・ヴィンチを描く。
日本人はマスの持つドグマに縛られながら何十年も息の長いアニメを描く。
観る方も描く方も"不都合"は入り口で潰しながら___________ おっと~文学的か(笑)
しかし、本来的に哲学や美という思想は「言葉」である。
始めに言葉(ロゴス)ありき__________________。
そこを日本人の目線から描きたい。
日本人が魅た「サルバトール・ムンディ」とは~人文主義でありネオプラトニズムを通じてみたサルバトール・ムンディと作者のロゴス、イデア、そしてその時代の制限と許容を支配したドグマ。
そこに存在する原罪と被昇天という、男の日常に潜むドグマ。
私はこれを"その国"の人々に問うてみたい。
~了~
有り難うございました。
因みに、本稿は文句ではありません。感想と目的と方針のすり合わせ、確認です。
次回は、提出原稿を変えます。チョット、テイストを違ったものにしてみます。
てか、またメンドクサイものだけど(笑)