◆永久保存版 午前3:45の訪問者 "経済か法学か" | 異端のTourism Doctrine

◆永久保存版 午前3:45の訪問者 "経済か法学か"

 若干やらせ臭もただようのかね。

こんな原稿読みに来る人いないだろう? 

またまたぁ~ネタ無くて自分で昔の原稿拾ってきただけだろう?

等とお考えになられる御仁もおいでかもしれないのだが__________________けしてそうではない。

 

 有難いことに、こういう原稿をわざわざ見つけて訪問していただける読者も抱えているのが、ここ"ステキな異端のTourism"という広場である。

特に、ハラール、ムスリムフレンドリーに関連した原稿は未だに訪問者は少なくない。

最近、そういう原稿を書かないのは、私の中で仕上がりを見たからに他ならない。

そういうマニアックな原稿を必要とされる人々もおられるということと理解している。

 

 それも午前3:45にお運びになり、そこから重めのチョイスで5本の原稿をパチパチっとチェックすると4時過ぎにはお帰りになっておられる。

 

もうね、こういう御仁が数人いれば私はそれだけで____________それを励みとして十分生きていけます。そして"貴方のために描きました"と言えるのだ。

だってね、読んでいかれた原稿は凡て私の魂が込められた原稿ばかり。

意思が息づいた原稿ばかりなんだから。

 

 コピーして持ってきたこの原稿だって、今から足掛け8年前の原稿だよ。

イスラームそしてハラールやハラール認証、ムスリムフレンドリーの勉強を始めて2年というところ。

一番勉強したころ。一日のうち、十数時間にわたってこれらを勉強したころ。

 

ある意味病んでた時代。

 

他の御仁のことは存じ上げないが、病まぬとあそこまで学べぬし、あそこまで書けぬ。

病めること即ち私のプライドだ。

まるで何かに憑かれたように本を読みインターネッに向かった時期。

 

さて、お蔭さんで、最近また「病み始めている」。

そう。少し前に病めるほどの対象が見つかったのだ。

当然Tourismに関連した対象ではあるのだが、もっと"風"を感じることが出来る自由な対象だ。

そのうち描くことも出てくるだろう。それまでしばし駄文とお付き合いいただきたい。

 

それにしても、こういう原稿をサルベージしていただける御仁の存在というヤツは有難い。

幾許かでもお役に立つことが出来ていれば良いのだが。お運びに感謝申し上げます。

 

 

以下初稿 「経済か法学か」 2013年11月 コピー原稿だ。一切の修正手入れはほどこさない。良い原稿です。

 

 さて・・・日常生活を多神教の日本人として、日本の法律や日本の規律に従って生活している人々にとって、昨今、日本国内で存在感を確かなものならしめている「宗教と信仰」及びその「法学」に派生する規律・戒律・倫理観というものは中々理解しがたいことは当然のことだろう。その結果は何が問題となっているかすら遠ざけれる格好になっている。

 

 先日も書かせて頂いたが、農林水産省が6次産業化推進の目玉として、日本国に由来しない特定の宗教が持つ「法学に派生する規格」を制度化し補助金対象事業化として動き始めている。

 

このこと自体はなんら問題は感じられないし、当然のことであり日本経済を取り巻く環境の変化を見据えたとき遅すぎるぐらいだと考えている。

 

しかし問題は「基づくところ」が国として、そしてこれらを推進する事業者、団体から明確に発信されていないことに結着する。本来この「法学に派生する規格」定義は、「個人」「家族」「社会」「国家」を包括的に導くという性質のものであり、その汎用は夫婦間問題から日常の社会生活と営み、社会経済、国家観迄も含まれていることを押さえておく必要がある。即ち、国家形成の礎には厳然たる普遍的な倫理観が横たわっているということだ。したがって、本来的な定義から云うなれば、日本には「馴染まない」という結論に至るのは、けっして拙速ではないし、極論ではない。

 

 

 しかしだ、現実的且つ客観的な視線から俯瞰すると日本国内には、これらの信仰を持たれる人々が住んでおり、生活を営んでおり、経済活動にも参加していらっしゃり、国益にかなうべく研鑽を積んでいらっしゃる。また、これらの信仰を持たれる方々が今年に入ってから、数多、日本へツーリストとしてお訪ね頂くという喜ばしい状況に至っている。

 

 

敢えて云うならこの動きは「微妙なバランス」の上に成り立っていると申しあげられるだろう。

 

 

国は新たな経済活性化のための切り口を模索し、国際社会において渡り合うための「手段」としてこの「規格」を取り込むことを進めたい。

 

「規格」の制度事業者は、生活環境の改善、日本へ訪れる同胞にとっての環境改善、法学に沿った道を歩くことのあたり前化。

 

それぞれの思惑が微妙なバランスの上に存在している。

 

私のブログでは「インとアウト」に基づいて制度設計を進めよ。と何度も申しあげさせて頂いてきた。

本来、信仰を持たれる人々にとっては「イン」も「アウト」も無いことは百も承知だ。

が、現実に目をつぶり、後に事が起きてから云った言わない、やったやらないの議論になることは避けねばならない。

 

したがって、萌芽的段階での制度設計に智慧を尽くすことが求められるということだ。

 

 

今年の2月、某省庁と某政府系特別法人が国の観光に携わる機関としては初めて、これらの信仰を持たれるゲストに対する取り組みを進めるためのセミナーを開催したことは、当ブログでも開催前からご案内させて頂いてきた。そして、開催時に起こった内容の詳細もご案内させて頂いてきた。国が宗教や信仰に対する「判断」を下す危険性も口酸っぱく書かせて頂いてきた。

 

中途半端な一般論を振りかざし、「信仰に厳格な人」「信仰に寛容な人」等という言葉が舞ったレジュメを配った結果、当日のコメンテーターで、この「信仰」を持たれる方から「聞かなかったことにしておく」という言葉が飛び交ったこともご紹介してきた。先駆けて取り組みを進めていらした北海道のホテルチェーンの方が聴講参加者から、その取り組みの意義と意味そして認証の有効性を指摘されるという不幸を招いた。

 

現状に至る経過は私どもにとっては凡て想定の域を出ない。というより当然の進捗だ。

 

ではどうするべきなのか。どうあるべきなのか。

様々な信仰や宗教を「マス」「パイ」「ロット」で判断することなく、国の姿勢を可視化させること。

不公平感、優遇感を与えることなく是々非々で取り組むこと。

 

先日、オーストラリアのマイノリティーの女性が「入れ墨」を理由に温泉の入浴を断られた経緯が報道された。これらのマイノリティーにとっては「入れ墨」は「信仰」の対象とされている。これによって入浴を拒否されるなど彼らにとっては「侮辱」以外なにものでもないだろう。自分達のイデオロギー、自分達のライフスタイル、自分達の神を否定されたに等しい。

 

誤解の無い様に。この方の入浴を拒否した施設を責める気なぞ毛頭ない。

それどころか、「自分達のルール」に忠実に従ったことに敬意を表したい。

ここは日本だ。ルールは日本人が決める。ここは俺の店だ。店のルールは決まっている。

 

良いか悪いかの議論ではない。「基づく」べきもの、「信」に足るものは何かというこだろう。

 

「意思」を伴った「言葉」、「意思」を伴った「制度」が発信できる胆力をつけることが肝要な時代になったということではないだろうか。

その為にはまず、真摯に相手を知ることが望まれるということではないだろうか。

 

 

当記事に登場する「信仰」や「宗教」は一切その存在を特定するものではありません。

 

 

したがって、「所長の雑記帳」扱いです。

 

~了~

 

おかげさまで_______________。