◆「たった一人の読者がくれたもの」と、文学界4月号と5月号
https://ameblo.jp/cosmopolitanism/entry-12486558548.html
独り言 三部作ファイナル
◆「たった一人の読者がくれたもの」と、文学界4月号と5月号
ブログの原稿というのものは、まるで日記のような性質も兼ね備えていることもあり。
書いた内容の凡てを覚えているかと云えば、日々に疎しという処になる。
その辺りのことも手伝ってか、書きものとして、発信ツールとしての扱いは、低い処で留まっているのが一般的な扱われ方だ。
が、お蔭さんで、発信のタイミングというものに関しては、明確に担保することが可能であるからして、使い方によっては功の部分も大きい。
読者の皆様の読者登録や、ブックマーク、そして検索アクセスをはじめとする"触れて頂く機会"を通じ、その都度、書き手は、自分の書いた原稿に想いを巡らせることも可能となる。
時に赤面したり、時に残念がったり、そして、時には心躍らせたりすることが出来るのだ____________。
として眺めてみると、急所を心得た愛撫差乍らか。もしくは、遠慮がちに指を絡めたところで、親の登場というシチュエーション__________。
はたまた、右に座るか、左に座るかで攻撃オプションが変わることを思案しているところを、年上彼女に見透かされた少年差乍らか___________。
時間を置いた後に、アクセスを頂戴した原稿によって、書き手の感じ方も様々となる。
どちらにせよ、私の様な"エンパシー(empathy)"を何処かに置き忘れて来た者にあってさえ、書く上での強烈な動機づけを、読者の皆様から頂戴していることを想い出させて頂ける。
エンパシーという言葉に類似した言葉に、シンパシーという言葉があるのだが、この違いを辿る旅は、文藝春秋社・文学界4月号にガイドされているので、参考にしていただければ良いだろう。私にとっては、とても勉強になる、美しい文章だった。
さて、リンクの「独り言 三部作ファイナル」だが_____________、昨日、たったお一人の読者からのアクセスを頂戴した。
昨年書いた原稿だから、筆者も忘れていた原稿だが、書いた当時のアクセスは、低くはなかったようだ。
今になって、読み直してみると、悪くはない(私にとって)。寧ろ、良い。愛せる原稿の一本だ。体裁の悪さは触れないでおく(笑)
こういう原稿にアクセス頂けるというのは、本当に、魂がプルプルッと震えるのを覚えるのである(笑)
この【独り言 三部作ファイナル】は______________、
「命と哲学・・・◆三島由紀夫と川端康成 運命の物語りに想」
https://ameblo.jp/cosmopolitanism/entry-12485636695.html
「畏怖・・・◆恐怖の正体」
https://ameblo.jp/cosmopolitanism/entry-12485899933.html
「美・・・◆河井寛次郎・草花図扁壺に見る「命の炎」への賛歌」
https://ameblo.jp/cosmopolitanism/entry-12482667923.html
この三本で構成したものを纏めとした原稿であり___________、
概ね、ここの筆者の【美意識】であり、【美的感性】を方向付けた原稿だが、先日上げさせていただいた_________
https://ameblo.jp/cosmopolitanism/entry-12587956326.html
◆お薦め!!ダークサイドミステリー「ナチスを騙した・・・・・・・・・・・
https://ameblo.jp/cosmopolitanism/entry-12569597721.html
◆西美智夫という画家の矜持
___________________に続く内容と云える。
美の持つ価値とは、本来、自己完結が似合うものであり、共有を目的とした時点で、美が齎すエンドルフィン(報酬系脳内物質)は、自己満足という完結からは程遠い存在となってしまうのであり、自分だけのものとは言えなくなってしまうのかもしれない。私にとって、美とは、自己承認欲求とは真逆の存在だ、ということになる。
これは、書きものにも共通して云えることだが、自分の中に存在する"美"というものを、どのように表現することが最も居心地が良いか~ということであり、ここにシンパシーを求めるとすれば、それは既に書き手の、美意識、美的感性からは遠くなり、自己承認欲求と、迎合とを見せたものとなるだろう。
別に、悪くはない。商業的美意識であり、商業的美的感覚を否定したところで、意味は無い。
そこで、右に動いたり、左に動いたりすることによって、経済は回っており、世界は回っている。
【人間失格 太宰治と三人の女達】の劇中で、藤原竜也扮する、坂口安吾が放ったセリフに「どうせ書いたものを、本当に理解できる読者なんていうものは一握りもいないことは、お前も分かっているだろう」~という趣旨のセリフがあったと記憶している。
寧ろ、この姿が芸術家の本質を顕していると考える。
先日、第125回文芸春秋・文学界新人賞の発表があった。
選考過程での苦悩を滲ませておられた審査員の小説家がいらっしゃった。
正直だと思えたし、良い人だと思えた(笑)。
【私は結果的には、受賞作も素晴らしいとは考えてはいたが、もう一作、別な作者の方を押していた。しかし、他の審査員から、その作者の作品からは"次(可能性)"が見えてこない~という指摘を受け、返す言葉を失った。この作者には、次回作で、良い意味、期待を裏切るような作品に挑戦して欲しい。】
という趣旨の選評に触れることが出来た。
本当は、抜粋して正確な言葉を伝えたかったが、本の性質から、著作権への配慮前提ということで、筆者の言葉として書かせて頂いた。
詳細は、文藝春秋社 文学界5月号を、是非、読んで欲しい。
残念ながら(へーッという想い)、作品のクオリティー(美・完成度)が、結果を左右したのではないということが理解できた。
まだ見ぬ可能性を含めての、作品のクオリティーと云われれば、へ~っと答えるまでなのだが。
いや、そうでなければ、ここの筆者としては
落としどころ(やっつけ)が見いだせないのである。
何故、"可能性"という不確かなものに頼ることを選択したのか。
何故、"今"ではなかったのか。
売れるものと、良いものは違う~
ここに行き着く興味深い、選考結果に触れさせていただいた思いが残った。
否定をするわけでもなし、肯定するわけでもなし。
寧ろ、否定も肯定も、する権利はない。
ここの筆者の場合、自分が書きたいものを書いただけであって、それだけのこととして自己完結している。
ただ、お前の考える、お前の持つ美しさ、美意識、美的感覚、感性はこの程度か~と、問われれば、表現者・美の求道者としては"申し訳ありませんでした____________次はもっと頑張ります!!"と、答えることが相応しいと想っている。
私にとっての望外の収穫は、多分・・・少なくない、関係者の皆さんに読んで頂けたことが覗える、足跡をたくさん頂戴出来たことだ。
まずは、それだけで、十分。
チョイと引っ掛けた、"あの時"の原稿への"反応"は、名刺代わりと想って頂ければ良いのだが~という想いが強い。ただし、私の美意思が書かせた原稿ではある。
美しい物を書くことを試みるなら___________。
エンパシーやシンパシーを望むのではなく、自分の魂に宿るものを、ただ書く。
ただ書き続ける。
自分が美しいと思えるものを、つき詰め、書き続ける。
そういう選択肢もあり、そこに触れて来た人々から得られるものこそ
何物にも代え難く、書き手だけに許された報酬であり、魂の栄養となるだろう。
時至るまで、大切に、ここを温めておきたい。
チラリ、ちらりと、触れて頂ける読者の皆さんに感謝します。
重ねて、応募原稿の不出来にもかかわらず、皆さんの貴重なお時間を頂戴し、審査に及んでいただきましたこと。この場をかりまして、厚く御礼申し上げます。
次もまたエントリーします ! ! お手を煩わせ恐縮ですが、宜しくお願い申し上げます。
~了~
お陰様で________________。