◆「観光」と私
私が、「観光」と云う言葉をはじめて意識したのは中学3年の時だった。
北海道札幌市の郊外に住んでいるとき、業界紙勤めをしていた父が部下数人を伴い努めていた会社を
離れ独立した。今を遡ること35年になる。
その際、父が立ち上げた会社が「北海道商工観光新聞社」という2週間に一回発行のタブロイド版の新聞・・・というより青刷りの情報誌だった。
当時としては、発想としても新しく、正に今のフリーペーパー情報誌の先駆け的取り組みだった。
北海道中の、知られざる観光地を巡り、観光ルートに名前を付け、道内の様々な観光地を紹介していた。
しかし、残念なことに「読み手」が今の時代とは違っていた。
町長の横顔などを写真を入れて紹介し、地場の有力な商工業社を中心に紹介していた媒体は、内容が硬く「業界紙」調だったことが広がりを狭めたのではなかったか。
当時、中学3年生だった私は、父が発行する新聞に掲載する「広告」を取ってくる営業をアルバイトで手伝わされていた。
父は、私に「お前はアルバイトで広告でも取ってこい、取ってきたら金額の3分の一をやる」
「商工観光新聞」の「色」なぞ、その当時はまったく意識もせず、ただ父が発刊した新聞を読み、広告を眺め続けた。
かなりキナ臭い記事もあった。しかし、中学生の知識としては「汚職」問題などの正確な意味も判りようもなく、記事中に踊る「不正融資の実態」の文字に興味を持つことはなかった。
父から教わったことは広告のサイズと値段だけ。
当時のタブロイド版の新聞は、全10段の紙面構成、広告はタイトル下、題字下、記事中、記事広、全3、半3・・・といった紙面割。営業先などの指示や教育は受けたことが無い。
中3のガキンチョがサンプル誌をもって飛び込み営業をやった。
体は大きかったが、見るからにガキンチョだ。頼りなさは歳に比例したものだった。
セールストークも教わっていない、出入りするうち覚えた広告のサイズをさも尤もらしく説明する。
門前の小僧、習わぬ経を読むとは良く云ったものだ。
しかし、これが殊の外よく取れた。
一つには、私の仕事が金額提示と、広告スペースの決定ということに限定されていたことによるだろう。
流石に見るからにガキンチョが、集金や、デザインの打合せまでとなると心配になる。
ガキンチョがアルバイトで広告取りをしているんだ~程度で終わらせるなら任せられる仕事は限られる。
父は私がはじめて取った広告を驚いていたことを今でも思い出す。
「2四ッ枠30000円」という広告だった。
当時、この会社の若手社員に「千葉チャン」という26歳の青年がいた。東海大学を卒業した、少林寺拳法の有段者だった。彼が我が家に下宿していた訳だが、父が「千葉チャン」に「千葉~中学生が広告を取って来るんだぞ。お前もしっかりしろ的なことを云って聞かせていた。
私が高校に入って、この「千葉チャン」の「家庭教師」が生きることになるとはこの時点では知る由もなかった。
当時の記憶を頼りに紙面を思いだすと、御世辞にも「きれい」とは言えない広告が並んでいた。いわゆる色もの系の広告が多かったと記憶している。
特に、地方都市の観光特集などではドライブイン、ホテル、そしてスナック、キャバレー、ミュージックホールの広告が目立っていた。
子供心にも漠然と「観光」とかけ離れたイメージを感じていた。
私はいつの間にか、毎週土曜日の午後から、札幌を中心に、祖父母の住んでいた小樽、岩見沢、千歳などを一人で広告を取りに歩いていた。中学3年生である。
駅周辺の観光客風の人間が出入りする食堂やレストランをみつけ、そこに入り込み食事を注文する。
食事が終わると、おもむろに店主に対し、かの新聞を取りだし広告の説明をする。
当然、全てが取り合ってもらえたわけではない。ケンモホロロに断られたことも少なくはない。
私の仕事は広告スペースの所にゴム印を押してもらうところまでだった。
原稿の入稿、契約、集金は父の会社の皆さんの仕事になっていた。
この時、覚えた言葉が「バーター」である。
私は中学3年生にして「バーター」を覚えてしまった。早すぎるだろwww
例によって、生意気なガキンチョが一人で小樽の駅前の寿司屋に入って、ちらしずしを注文し、食べ終わってから広告の話しをし、店主に広告掲載のゴム印を押してもらう。
話しは横道にそれるが、私が最も好きだった営業先が「小樽」だった。小学生までを小樽で過ごしていたことから、地の利もあった。同時に祖父母が住んでいたこともあり気やすかった。
そして、最大の理由が、祖父が小樽の街でも「メジャー」だったことにある。
広告を頂いた後、私は決まって祖父の話しをした。
子供心に名前の偉大さを知ってしまった。
この祖父は母方の親であるからして、私の苗字とは違う。
で、一時は悩んだものだ。なんで俺は「池○」じゃないんだろうwwwあっちがいい。。。と。
「池○先生のお孫さんかい~ほ~お~立派なお孫さんが・・・」
心地よい。実に心地よい響きが私を包み込んでいった。立派かどうかは知らないが、一番孫である。
それなりに可愛がってももらった、後を継げともいわれた。
しかし、どうやら遺伝は父方のものが勝っていたようだ。
父は、小樽での営業成績の良いことに「じいさん」の威光をひけらかしている私を知っていたと思うが、何も言うことはなかった。
さて、小樽の駅前の寿司屋で、ちらし寿司の支払いを済ませようと店主に言うと、「バーター」でいいという。バター・・・・中三のガキンチョには「バター」という言葉がなにやら「脂っこい」イメージとして脳裏に記憶されることになる。
帰ってから、父に食事代の領収書を言われたが、「バターだってさ」と、私が伝えると事務所の一同の視線が私に注がれた。
営業の担当者が慌てて、広告主に電話をしていたことを今でも可笑しく思い出す。
父は、私に「バターじゃない。バーターだ」とバーターの意味を「懇切丁寧」に教えてくれた。
北海道商工観光新聞という媒体は8年ほどで廃刊の日を迎えたが、現在、産業振興と観光振興を、同一線上で捉える私にとって、少なからぬ影響を与えることになったことは云うまでもない。
その父も今年で78歳、お陰様で頭はしっかりしてはいるものの、あちこちガタが来ており、以前の様子はない。
私が、生まれて間もなくのころはプロの「JAZZドラム」プレーヤーとしてそこそこの活動をしていた。
後に生活の為に「タイコ」を捨てたと聞かされたが、家に残った親父のドラムを叩く姿の写真に子供心にも憧れを抱いたものである。
どっちの親父が好きか~後者だなぁ~私が当時の親父の歳になった今でも、後者の親父が好きだね。
などと云ってる私は、どの道、親を超えられる存在にはなり得ないわけだ。長生きをして頂きたいものだが。