こんにちは、あひるさんです。
めちゃくちゃ久しぶりになってしまいました。
月も変わって、もう6月。1年も半分が終わってしまいますよ。
最近はほんと仕事ばっかりでバテバテです。
まず、この時期は目標の設定時期なので、そこで頭使います。
通常の仕事も大事な局面になっているものがいくつかあるし。かと思ったら、今季始まるものがキックオフになったりも。
地味にきついのが北米案件だな。。。向こうは夜なんですがこっちは朝早めで打合せ。いつ自分解放してもらえるんだろうか。秋ぐらいまでと言われているが、もうちょっと早くてもいいんじゃないかなぁと思ったり。
さて、昨日6/1(土)、念願の講演会に行ってきました。ジョアン・トロント先生のケアリング・デモクラシーに関する講演会です。
場所が京都でしたので、家から車で行きました。
名古屋は学習環境として貧弱で、それも僕が日大通信選ぶことになった理由の1つですが、スポットで京都なら何とか行けます。
名神が集中工事でとんでもないことになっている(一宮ICで10キロくらいの渋滞は当たり前)ので新名神で行きました。
車の燃費が伸びる伸びる。僕のクラウン2.5リッターのV6なんですけど、それでもリッター14出ました。
会場が同志社大学なので、鞍馬口あたりの駐車場に停めて。観光案内がいたるところにあるのが京都っぽい。
無駄に地下鉄乗りまして、御所の南側から散歩がてら歩いていきました。
京都御所というか、京都御苑ですね。中に入るだけの時間はなかったので、横目で見ながら歩いていく感じ。
天気がよくて気持ちよかった。ところどころのぞく景色がいいんですね。前回御所見たのは15年前だ。子供が1歳のとき。そいつは今や高校生。時間のたつのが早すぎて恐ろしや。
虎屋で羊羹買いました。家持って帰ったら驚かれました。虎屋の羊羹って、何か謝りに行くときに持っていくイメージだと言われ。おいおい。虎屋にはそんなつもりはないはずだ笑。
そうこうしているうちに同志社大学の今出川キャンパスに到着。若かりし頃、研修の仕事で来ました。同志社の先生に教えてもらうという案件がありまして。それももう15年以上前の話になるんですね。懐かしいな。
講堂について受付で聞いたところ、それは今出川キャンパスではなく烏丸キャンパスですよと言われ、一瞬凍り付きました。でも近いので大丈夫ですという。そのまま北に5分くらい歩いたら烏丸キャンパスでした。
到着。
道中の話が長くてすみません。ここからが講演の話です。
ジョアン・トロント教授はミネソタ大学の先生で、専門はフェミニズム政治理論。このブログでもちょいちょい書いている、従来の政治思想に対するオルタナティブとして「ケアの倫理」を軸にした新しい民主主義を発信し続けている。
今年になって、2013年に出版された"Caring Democracy"の邦訳が出たのでその関係での来日かなぁと思ったのですが、そうではなくて本当にたまたまだったらしい。
5月に日大の卒論の指導教授である先生から、岡野八代さんの講演会紹介してもらって参加したわけですが、"Caring Democracy"の監修も、今回の講演会の設定自体も岡野先生によるもの。当日の同時通訳は、訳者に名を連ねる池田先生でした。
そもそも土曜の講演会で、どれくらい参加者がいるのかなぁと思ったのですが、40~50人くらいはいたのかな。結構多くてびっくりしました。
もちろん僕みたいな社会人はマイノリティで、学部生や院生の方が多かったようです。
僕が愛知からで遠方からの参加者かと思いきや、早稲田の学生がたくさんいたのに驚きました。学部的にも僕と一緒かも。
どこのゼミなのかな、こんな講演会をアナウンスするなんてセンスいい先生いるじゃんかと思いました。
そろそろ内容の話にいきましょう。
演題は"The Prospects for Caring Democracy in the United States and in the World:A Current Assessment
(米国と世界におけるケアリング・デモクラシーの展望:現在の評価)
今年はアメリカの大統領選挙もあるので、それも見据えながら、ケアリング・デモクラシーの米国・世界における受容状況について、最新の動向をお話しいただいた。
アメリカの先生なので、アメリカの政治事情としての話であることは前提にお願いしますね。
従来の政治思想というのが、基本的に新自由主義かその修正のリベラルかという文脈にあって、トロント先生らが掲げられる「ケアリング・デモクラシー」はどちらか寄りという話ではなくて、その両方に代わるものです。
通常、カント的にという意味合いだけでなく、経済的にも身体的にも自立・自律した大人、こういう主体が生きる世界が世界であると思われている。
その裏では、子供を育てる、介護をする、洗濯炊事する、下水処理する・・・挙げようと思ったら数えきれないエッセンシャルワークが、家庭で女性にやってもらうか、非正規労働で安くやってもらうといった状態になっている。
人間はそもそも関係的な生き物で、個々人でバラバラに自己責任で生きる生き物ではない。
政治や事業の世界で成功した人だって、その成功は同時代のケアワークに支えられているし、その人が生まれてから世に出るまでは誰かに育てられたわけで、引退したら介護してもらうわけだ。
哲学でソクラテスやプラトンやアリストテレスが倫理を語ったりしているわけだが、これだって、奴隷が身の回りの世話をしてくれる上に立っているというのは有名な話。
これまで「誰かがやってくれる」「誰かに(安く)押し付ければいい」「語るに及ばず」であった
こうしたケアこそが実は我々の日常の生であって、ケアの責任の割り当てを政治の役割としていくべきだというのが、トロント先生の話なんですな。
講演は、トロント先生からの振り返り的な話で始まりました。
2013年に『ケアリング・デモクラシー』を出版され、当初はケアの倫理に基づく政治の広がりを楽観視していたが、そうはいかなかったという話から。
それから10年が経ち、確かにケアに関してこれまで見過ごされていたことを認め、それらをケアしていこうというポジティブな流れはあるにはある。
国連やILO、WHOといったレベルから、北欧・南米の憲法改正・法改正での議論、さらには日本でもLGBTQ+についての社会的認知といった点に至るまで、肯定できる動きはある。
しかしながら、これに匹敵するか、もっとひどい反動、バックラッシュもまた、強烈に吹き荒れているという。
極端なものでは、アメリカのRed Stateと言われる共和党が強い州では、そもそも人権の多様性に関する議論を学校で教えること自体が禁止されたりもしているらしい。
続いて、どうしてアメリカでケアリング・デモクラシーが受け入れられないのかについての分析の話に。
大きく3点要因があって、1つは制度的なもの。大統領を選出する選挙システム、二大政党制が生き続けるメカニズム、それから、選挙に多額の資金がかかる話などの話。
2つ目は、富裕層のケア、新自由主義的なアジェンダを誰もが信じ続けていること。
クリントン大統領の選挙キャンペーンの際に「大事なのは経済だ 愚か者ども」というフレーズが良く使われたことが例として挙げられる。
シンクタンクやファンド・レイジング団体がコスト・ベネフィット分析、政策判断を行う上で経済的に何が正解かを導く手法を発展させ続けている。
その恩恵に預かっているのも確かではあるものの、経済が第一というのは今に至るまで変わらない。その流れで富裕層が優遇され続けるという状況が変わらない。
3つ目は人種、ジェンダー、セクシュアリティ的な障害とのこと。
Make America Great Again(アメリカを再び偉大な国に)というのがトランプの選挙キャンペーンでも語られるが、ここで言われるアメリカというのは白人のプロテスタントでという、白人至上主義であることは間違いない。
アメリカの諸問題、あらゆる問題には、人種問題的な側面があるとのこと。
TEA Partyってありましたよね。Tax Enough Already(税金はもうたくさん払った)という言葉の略語だって初めて知りました。
TEA Partyは富裕層への課税には賛成するのだけれど、再分配に関しては反対する。増税した結果、福祉や再分配に値しない人たちにお金が行くことだと思っている。そして、有色人種、LGBTQ+、彼らがいうマイノリティは援助に値しないと思われている。これは驚いた・・・。
政治の側はそういうことが分かっている。残念ながら、前向きな話よりも人種的な恐怖をあおることが、選挙戦略としては有効なんだとか。これは共和党の南部戦略というもので、1968年以降用いられているんだそうだ。
2024年の選挙は「恐怖が勝つのか、恐怖に対する恐怖の感情が勝つのか」だとおっしゃっていました。
共和党にしても民主党にしても、ケアリングを主に据えた考えた方ではない。とはいえ、何もしなければ、現行の政治システムが人間の恐怖をあおり続けることに変わりが無い。
ケアリング・デモクラシーそのものについての説明は省きますけれど、だから声を上げ続けること、対話をし続けることが大事なのだという話でした。
今回の講演会も政治思想の話だったので、僕が直接的に知りたいと思っている倫理学の話とはちょっと違います。
とはいえ、人間をどのような存在だと考えるのかは、何をよいものと考えるのかに決定的に重要だと思います。そういう意味ではとてもよい勉強になりましたね。
質疑も結構面白かったです。一番聞けて良かったと思うのは、ケアの責任配分に関する話。
政治の役割はケアの責任を配分することだというのですが、この配分するというのはallocateすることなのか?という話。
allocateするというのは、ケアという嫌なものの負担を分散する、今担っていない人に担ってもらおうとするという感じになるが、そういうことではないんだということでした。
そもそも人間存在というものが関係的なもので、
ケアが人間本来の生であるのだから(本質主義的?)、そのような前提に立って従来の見方に変わる社会を構想してみようという話だと。
これはすごく合点がいきました。
もう1つ、これは質問すればよかったのですがというやり取りもあり。
ケアの倫理や理念をどう子供達への教育実践につなげるかという質問に対し、1つの例として紹介された話。違う話題について考えながら聞いたので話のディテールは違うかもしれないが、間違いを恐れずに書く。
ある施設か何かで10歳の子供が、より小さい子供たちの居場所をどうするかを考えさせられた際(?)に、「彼らは自分よりも歩く力がないので、より目的地から近いところにする」という話をしたとかだったと思う。
もちろん、これはいい話だとは思う。
わずか10歳の子供が、自分よりも小さな子のことに思いを巡らせ、想像力を働かせて、配慮をする。
この例から、他者への気遣いについて考えさせる経験をたくさん積ませること、他者がどう思うかについて考えさせることが大事だという話になったと思う。
しかしながら、僕はちょっと?と思ったんですよね。
確かにいいことだと思うし、そのように教育していくことは大事だと思うのですが、これって、トロント先生が徳倫理ベースのケアの倫理に関して批判していた内容と交錯する部分があるような気がして。
他者に対する思いやりみたいなものが徳だと考えてしまうと、結局「そのような行動ができるいい子がいます」という具合に、ケアの与え手である個人の資質に還元されてしまい、ケアの倫理の一番大事な「関係性」の部分がどこかにいってしまう。
おそらく、先生はそのようなことは意図していないと思う。だとすると、この事例をどう捉えるかなんだよな。
「この子はとってもいい子ですね」「他者へ思いやりを持てる徳を持っているね」「そのように教育することが大事だね」ではない捉え方とはどついうものだろうか。ケアの倫理の一番肝になる「関係性」は、この場合どう抽出されるのか。そこのところが僕もまだよくわからない。これは聞くべきだった。
今だから質問がまとまるけれど、それを聞いた時にここまで考えが至らなかったので手を挙げそびれた。
『ケアリング・デモクラシー』まだちょっとしか読めていない。ひょっとしたら、もう少し読んだらそこへの解が得られるかもしれないと思った部分もあり。
徳倫理ベースの「ケアの倫理」への違和感について、1章で僕が思うことが鮮やかに描かれていたくらいだし、もうちょっと読んだら分かるかもしれない。
来週 卒論の先生との会話機会があるので、この点も含めて先生に訊いてみることにしようと思います。「トロント先生に聞いてみたら?」と言われるかもですが笑。
長くなりましたが、今回の講演会も本当に参加して良かったです。
別にお話したわけでも何でもないですが、トロント先生も、岡野先生も、池田先生もとっても素敵な方々でした。
この分野を現役学生としてやられている学生さんたちは本当にうらやましいし、政治思想という観点ではないですが、僕ももっと「ケアの倫理」について深く勉強しようと思いました。
帰りも新名神を気持ちよく走って帰ってきました。ドアドアで片道2時間半、往復300km。僕の愛車様もお疲れさまでした。