こんにちは、あひるさんです。

 

5月も中旬となりました。暑いですね。いよいよ冷房をつけ始める時期になりました。

 

今週はとにかく移動の多い週でした。月曜日に東京へ行き、火曜日は静岡へ行ってまた東京に戻り。水曜日は千葉で仕事をして愛知戻り。木曜日は会社に出社するも、昼過ぎからは大阪、そのまま東京へ移動して、金曜日は東京、夜に名古屋に帰るというスケジュールでした。

 

こちらは火曜日の三島駅。

以前ほどではないにせよ、三島もまあまあ来ます。こんな楽しそうなところなのに、観光で来たことはほぼ皆無という悲しさ。大学卒業したら少し旅行などもしたいですね。

移動中の車窓から富士山がすごくきれいに見えました。

木曜日、大阪から東京へは飛行機で行きました。新幹線ばかりだと飽きるし、2時間40分座ると考えたらげんなりしてしまい。

小さい時、川西に住んでいたこともありました。ニンがまだ1歳の頃ですかね、週末によくこの近くの公園に連れてきたものです。

今年からJALではなくANAにカード切り替えたこともあり、使うのはANAです。

羽田-伊丹線、B777-200でした。通路が2本ある、国際線で使用するような大きな航空機です。楽しい。

テレビ視聴はできるようですが、フライトマップの機能は使えないんですよね。まあ1時間ですから気にしませんが。

金曜の夜は品川で韓国の会社さんと会食でした。日本の会社の方の息子さんが高校生で、僕と同じW系列の高校に通っていると分かり、大学や進学の話などで盛り上がり。また、韓国の3大名門校(ソウル大学校・高麗大学校・延世大学校)は、頭文字を取ってSKY Team(大韓航空も入っている航空会社のアライアンスと同じ名前)と呼ばれていること、韓国の大学受験競争や塾代の高さ(普通の塾で、2教科で月10万円だとおっしゃっていました)といった話なども聞きました。

 

ちょうど最近、韓国で中間選挙ありましたので、その話題にもなりましたね。日韓関係は一時に比べれば良くなりましたが、このように導いてきた与党が負けたことは影響があるのかどうかといった話も聞きました。このあたりの話を書くと変なコメントきそうなのでやめよう笑。

 

5月は毎年しんどいです。何がしんどいって出費が多いことです!自動車税に加えて、ここ数年は学費でまとまった支払いがくるので、毎年青息吐息になります。

 

今年はニンが38万(年3回の内の1回)、太郎が16万(4・5月分)で、計54万円でした。自分の親には「関東に比べたら安いもんよ」と言われましたし、実際そうなんですが、普通のサラリーマンの僕には十分きついです。

春先は新学年で教材費などあり高めです。ニンは修学旅行代で5万円か。ということは3年で45万円だから、これは海外かな?とか思うわけです。まあでもいいんですよ、そのために働いているんですから。もう自分自身が欲しいものなんてありゃしません。浪人でも、理系大学院でも、留学でも、行けばいい。お金かからないに越したことはないが、金がなかったからできないということだけは無いようにしてやりたいのが親心。

 

大学の関係。6月のかもしゅう(科目修得試験)の案内が来ていましたので、哲学概論1科目だけ申し込みました。また、6月のスクーリングが無事参加OKで確定しました。スクーリングの前の週が卒論指導。3週間連続で大学の予定がボンボンボンと入りましたので、今からギア上げていかないといけません。

 

卒論関連では、講演会に参加しました。先日の卒論指導の際に、先生から案内をいただいたもの。岡野八代さんの『ケアの倫理-フェミニズムの政治思想』の書評会。内容は難しかったですが、本を読んだばかりだったということもあって、議論がすんなり入ってきました。

岡野さんにせよ、評者の江原由美子さんにせよ、とてもエネルギーに溢れていて、3時間のセッションが全く長く感じられませんでした。いくつか面白いなぁと思ったことをメモしておきます。フェミニズムやその運動の歴史に関してはあまり詳しくないのと、政治哲学にはそこまで関心がない、あくまでケアの倫理を倫理学目線で見ることに自分の関心があるので、コーディングした内容には偏りがあります。

 

まず、最も訴えたかったことというのが、「日本ではギリガンの言っていることがほとんど伝わらない」「女性の研究者が正義を訴える声はほとんど紹介されない」という話が一番印象に残りましたな。これを、江原さんがベイトソンを引いて「フェミニズムは二重拘束を生きてきた」と表現されていたのが強く印象に残った。どういうことか。

 

ケアの倫理以前、1960年代以前、近代だけでないのかもしれないけれど、女性は道徳的に劣った生き物だとされてきた。特に近代は、政治や哲学といった理性的な議論が行われる公の世界を男性の世界、実はそれを生み出すのだが政治的・理性的・道徳的議論をするには値しない家庭という私的な世界、ケアが行われる世界が女性の世界 と分けていた。これが公私二元論ってやつですな。

 

ギリガンは、決して女性ならではの道徳があると言ったわけではない。公私二元論の公の側が、私におけるケアの受容を当然視しているにもかかわらず、私のケアの価値を貶めていることを発見し問題提起した。にもかかわらず、女性的な道徳観=ケア、従来の男性的な道徳観=従来からの正義論のように読み込まれて、「ケアvs正義」のような不毛な論争が行われることになるという。

 

「ケアvs正義」のような話は、メタ倫理学のような領域、本来倫理や(従来からのではなくもっと広い意味での)正義はどうあるべきかといった点では意義があるのかもしれないが、政治思想としてのケアの倫理はそこでクリンチされるべきでないと言うんですね。

 

二重拘束、ダブルバインドってことですが、こちらはどういうことか。女性は劣った存在じゃないんだ、女性も理性を持つんだとすると、ケアの価値を貶めることになる。一方でケアの価値を称揚すると、男女の分業という前提の中で女性性を称揚しているとか、母性主義的に解釈される。

 

近代は女性を解放したのではなく、ジェンダーに閉じ込めたんだとか。フランス革命では「議会から女性を締め出せ」という話もあったそうで、モンテスキューの「自然に帰れ」というのはジェンダー論、男女は性差に基づいてそれぞれ違う領域を担当すべしという考えだったのだそう。

 

二重拘束の話は、結局どちらに行こうとしても既存の枠組みの中ではアポリアでしかないことをよく表している。フェミニズム政治思想という文脈の中でのケアの倫理は、「善き生とは何か」とかや行為の規範といったことでは全然ない。むしろ、人は誰しも誰かに依存しないと存在できない、傷つきやすいナマモノであるという人間観に立脚して、そのような視点から社会を構想しようという考えだ ということがよく分かりました。

 

政治思想としてはそれでいいんでしょうけれど、やっぱり自分としての関心は倫理学にあります。そういう人間観に立脚したら、「善き生とは何か」とか、行為の規範というのは、従来の哲学や倫理が示してきたものから変わると思うんです。

 

倫理学において、そういう試みって何があるんだろうか。それがあったとして、その試みは上手くいっているのだろうか。その試みは、政治思想としてのケアの倫理が目指している精神を反映できているのだろうか。こんなことがすごく気になるわけです。だから、卒論も元々の発想だと面白くない、むしろこっちだと思ってしまうんです。まあ両方考えて卒論の先生にぶつけてみようかと。

講演会の最後に案内があった。ケアの倫理の射程をとても広く取っている論者(だと思う)である、ジョアン・トロント先生が来日&講演されるとのこと。生で思想に触れられる、こんな機会はなかなかない。政治思想という観点ではそこまで興味はないが、行かないわけがない。

 

講演会、これも6月だぞ。本急いで読まないといけないじゃないか。

 

6月ホント死にそうな予感です。来てほしいような来てほしくないような、とっても複雑な気分です。