こんにちは、あひるさんです。

今週は4日間東京にステイです。月曜は天気悪かったが、今日火曜日は気持ちのいい青空。もうすぐ梅雨、それが終われば強烈な夏がやってくるんだろう。


今回は実家泊。家の近くの珍来で食べました。珍来は東彩人(東埼玉人/北葛飾郡?)である自分にとって欠かすことのできないソウルフードの一つであります。





珍来とホワイト餃子の二大巨頭ってところじゃなかろうか笑。


GWからその後は、卒論を進めることに取り組んでおりました。今回はそのことについて書こうと思います。

卒論、これずっと悩み続けているアイテムです。日大通信の文理学部 哲学とか文学などの専攻は卒論必須なんですよね。通信で大学生やるにしても、卒論がないところは結構ある。でも自分はあえて卒論があるところにした。卒論書きたいからです。

その割にはちっとも進まない。というか、単位を取ることにあくせくして、卒論までは手が出ないといってズルズルきたという方が正解か。

去年のお盆、夏季スクーリングの時に先生にアウトラインの相談をしてから、進捗もなくそれっきりになっていた。

さすがにこれはまずいということで、4月かもしゅう(科目修得試験)と最後のリポート出してからは卒論関連の本を読むことに。これが、GW音沙汰無しになった理由です。

卒論、捉え所がなくて、なかなかにぼんやりしてしまって。そうするとブログに向かう手まで止まっちゃうんですよね。ぼんやりするとQoLがめちゃ下がります。モヤモヤしっぱなし、こんな嫌なGWはなかなかなかったです。

ちなみに、読んだ本は岡野八代さんの『ケアの倫理 フェミニズムの政治思想』。今年出たばかりの本だ。これがとんでもなく良くてですね。

ケアの倫理をフェミニズムの文脈において、フェミニスト達はケアをどう語ってきたかをまとめている。

自分がまさかフェミニズムに触れることになるとは思わなかった。会社勤め20年ですが、若い頃はフェミニズムなんて権利ばかり主張するめんどくさい人の代表とさえ思っていたくらい。いまだにこういう見方は存在して、就職面接などでもジェンダーやフェミについて語ると警戒されるきらいがある。昔話であってくれればいいけど。

ケアの倫理とは何ぞや。既存の正義論などが普遍的なモノサシに照らして価値や倫理的判断をするのに対して、文脈や関係性を重視する思想と言ったら良いか。

「法律や慣習に従えば〇〇だ」に対して、「いやいや、こういう状況や関係者の心情を考えたら××でしょう」といったやり取り想像するといいかな。

そう書いてしまうと、本質を見失うかもしれない。ケアの倫理のすごいところは、これは大いにフェミニズムの文脈があってこそだとも思うが、特に近代理性が前提としてきた人間観や世界観を変えるところにある。

これまでの政治や哲学・倫理学などが、いかに女性やケアといった要素を排除した上に成り立ってきたか。それを白日のもとにさらしたのがケアの倫理と言っても良いかと。

ケアの倫理の話書き始めると終わらなくなりそうなのでとりあえずここまでで。元フェミ嫌いの僕が最後まで一気読みしたくらいです。それでいて、入門書のレベル超えてるでしょと思うくらい内容が充実して素晴らしいので、興味持たれた方はぜひ。

ここまででGWが終わってしまった。岡野さんの本もあって、ますます元の問題意識から違う方向へ興味が移っている。このまま独りでアウトラインを考えてもまとまらないし、精神衛生上良くない。

そこで、大学のGoogleクラスルームを見て、最短・直近で先生に卒論指導いただけるコマを取りました。実にこの日の次の日にですよ。いかに切迫感があったか分かるでしょう笑。

急いで、自分が考えていることをWordで打ち込みました。前回の卒論アウトラインに重ね書きする形で。ぜんぜんアウトラインにならないんですけどとりあえず。

本来ならもっと事前にデータ送ったり、質問内容も明確にしてから相談すべきなのですが、そんな余裕もなく。実に開始10分前にデータ送るというグダグダさ。

先生にはとりあえず考え受けとめていただきまして。来年度の3月に卒業とすると、夏前までには卒論の目次が完成、書き始めるくらいでいいとあう話を前置きに、今のところの考えから、どういう方向にするかで40分も対話いただきました。

自分の問題意識の原点は、以前このブログにも書いたと思うんですが、能力主義的エリートや立場のある人の傲慢なんですよね。

ネットとか見ていても思いません?トランプ(はちょっと他の要素もあるけれど)とか、著名経営者とか資産家、政治家、どうしてこうも他者を見下すような発言が多いんですかねと。

自分、立場ある人には言動において応分の倫理や責任を求めてしまう。しかし現実はそうなっていない。立場や力のある人は一般庶民を見下している場合ではなく、むしろこの社会をさらにうまくいかせるために力を注ぐべきであって、そのための人格というのを身にまとっていてほしいと思うわけだ。

しかし、それを正当化する論理って何かあるだろうか。そこから出発して、ロールズ『正義論』、それへの批判としてのサンデル、コミュニタリアンの議論を見てきた。

ケアの倫理に行き当たったのは、サンデルの議論が僕の疑問や主張に直接は答えてくれないように感じだから。ケアの倫理の方が、自分の主張をより直接サポートしてくれると思ったからなんです。

平たくいうと、横暴でエラソーに成功自慢や人間こうあるべしと語っている人に対して、「でもアンタの成功はこういった人達の支えがあって成立しているのであって、全部アンタのおかげってことじゃないんじゃないの?そこに思いを致すっていう考えはないの?」と。

先生からは、ここまでの話を軸に書こうと思えば書ける、一つ流れはできているから、別に錯綜しているなんてこともない、とのコメント。しかし、自分的にはこれは非常にモヤる。

今の今もこれをうまく説明できないのだけれど、それだと自分的に面白くないと思うんです。

頑張っていま思うことを書くと、まずこれが規範にはならないと思っていて。可能性は感じながらも、ケアの倫理が何をよい/悪いとするのかも分からないし、そのよかったものがなぜそう言えるかもよく分からない。

先生と会話している時には気づかなかったけれど、ニーチェの畜群道徳じゃないの?という気もしないでもない。道徳なんて弱いヤツらが強者を引きずりおろすための作り話だ、クソ食らえ と言われたらどうします? 実際の世の中の反応もそれよね?

ケアの倫理は、倫理とはついているけれど、どちらかというと政治哲学的な話題の方が多い気がする。ケア労働、医療介護の現場への適用に関してはよく聞くけれど、もっと倫理学説としての可能性があるんじゃないかと思うわけです。

ケアの倫理の掲げる人間観は、カントやロールズ的な人間観じゃない。自律した無機質/無属性/思念的な個が自由と機会の平等を引っさげて縦横無尽に活躍する、そんな人間観ではない。

むしろ人間とは、身体があって他者に依存しないと生きていけない、傷つきやすく傷つけられやすい、そんな生身のものなんじゃないのかという。激しく同意。

人間を、そのような 生でvulnerableなものと捉えるところから社会を眺めてみると、きっと違う光景が立ち上がってくると思う。

それを、政治哲学ではなくて、規範倫理なのかメタなのか分からないけれど倫理学のフィールドに置いてみた時にどうなのか。そういう議論を探してみたいし、そちらの方で何か問題探せたらと思う。そこで出てきたのがマイケル・スロートなんだけれど、そのポッと出感を何とかしないと、ここが繋がらない。先生との議論でそこまでは見えた。

元々の問題意識の流れを活かしたいのだけれど、あまり個別事象に関する議論はしたくない。このワガママさをどうするか。先生もおっしゃっていましたが、もう一捻り要ります。来月卒論相談の時間いただいたので、そこまでに考えをまとめられるといいと思っています。