こんにちは、あひるさんです。

 

3月も最後の土日。これで1年の4分の1が終わります。学校も会社も新しい年度に向かって一直線。僕は移動こそしないものの来季組織も変わるので、その前に懸案だけは何とか片付けないとと思ってバタバタしています。

 

ニンさん(息子)が中学を卒業しました。とはいっても、中高一貫なので、隣の建屋に移るだけですが。一応卒業式がありましたので、あひる先輩(嫁)のみ参加。基本そういうウチが多かった模様。

サッカー部の面々で撮らせてくれといって撮ったんだろうきっと。

母親連で撮影したとのこと。どっちの卒業式か分からんて。

 

この週末はそんなニンさんたちのサッカー部で引退試合がありました。卒業する中三vs現役の中二での試合です。サッカー部の面々全員が高校でもサッカーをやるわけではないらしく、そういう子には今日が最後の試合にはなります。

県大会に出た中三、そして普段は高校の練習に参加している。中二はまだ最近チームで試合し始めたようなもの。そりゃ力の差は歴然です。5-1でした。後半は彼らでキーパーやポジション入れ替えたりしていて、とても楽しそうでした。天気が良かったらもっと良かったんですけどね。ボール止まる止まる。よくこんなグラウンドでやってるよなぁと、皆さん口々に言っていました。

 

僕は久しぶりに前後半ビデオカメラ回しました。楽しいです。子供たちに楽しませてもらっているようなもんです。

最後はみんなで記念撮影。高校に行っても頑張っておくれ。また県大会に連れて行っておくれ。それにしてもうらやましいよ。自分部活の思い出でこういうのないので。

 

大学の勉強の方は、小休止です。4/14に試験を控えていますが、卒論も進めたいというのもあって、それがらみの本を読んでいます。先週はマイケル・サンデル『実力も運のうち 能力主義は正解か?』でしたから、その流れでこちらを読みました。

小林正弥『マイケルサンデルの政治哲学 <正義>とは何か』平凡社新書。とってもいい本でした。

 

マイケル・サンデルについては倫理学の授業でやりました。日本では「ハーバード白熱教室」で<正義>について議論させる講義をする人として有名だけれども、彼はコミュニタリアンとして有名で、ロールズの批判者として出てきた人なんだよ、というのが授業でのお話でした。

 

じゃ、コミュニタリアンとかサンデルのロールズ批判とは何か。サンデル自身の思想とはどういうものか。『リベラリズムと正義の限界』『民主政の不満』『これからの「正義」の話をしよう』といったサンデルの主著の中身を読み解いて、丁寧に解説してくれているのがこちらの本。

 

「アメリカにおける」という括弧書きは付くかもしれないが、基本的に19世紀から20世紀の倫理学はJ.S.ミルのような功利主義に基づいていた。第二次大戦後、徐々に貧富の差も開き福祉社会化していく中、リベラリズムの思想がはっきりと現れてくる。以前このブログでも書いたことがある、無知のヴェールの話だ。なぜ政府は、貧しい人や恵まれない人の福祉のために、余裕のある人から税金を取り立てて再配分するのか。その理論的根拠のようなものです。

 

親ガチャという言葉がありますが、自分がどんな境遇に生まれてくるか分からない、無知のヴェールをかぶっている状態を想像してくださいと。すんごい金持ちかもしれないし、すんごい貧乏かもしれない。この状態でどんな社会的なルールであればよい社会だと考えるか。普通は、最悪な条件だった時にもある程度機会や金銭的に報われる社会であればよいと考えますよね。だから、福祉のために政府が再配分することは肯定される。それは授業でやった。アメリカで政治哲学というのは長らく下火だったが、このロールズの理論は政治哲学の復興でもあったというのは今回初めて知った。

 

で、サンデルのロールズ批判はどこにあったのか。授業では、そもそも無知のヴェールの想定や、その前提の中でどういう社会であればよいか社会契約するというのは机上の空論にすぎるでしょう、という話だった。授業ではサンデルとかコミュニタリアニズムに触れる時間がほとんどなかったので、説明としてはその程度だったけれど、この本はそこのところがみっちり書かれている。

 

中でも一番面白かったのは、「負荷なき自己」「負荷ありし自己」の話だろうか。サンデルの主張によれば、リベラリズムの何が間違っているかと言えば、まさに近代人間観の批判だということ。個人はこの社会に個として存在していて、いかなる社会的・文化的な背景からも切り離されたものとして存在しているという人間観自体が、現代の苦しみを生んでいるという指摘です。

 

何が正義かとか、道徳倫理といったものに対する考え方は実に多様化しているので、そこで人々が合意することは難しい。だから、そういった道徳倫理や価値観については、政府は中立の立場である。いい悪いの判断は政府は下さない。これ、政府だけでなくて我々の日常もおおむねそういう感じですよね。

 

道徳倫理、何が正義かということについては、それぞれに主張がある。個人には自由にそれを展開する権利があるので、他者に危害を加えないのであれば(これはJ.S.ミルの他者危害原則だけど)、その人がそういう主張なり活動なりするのも権利として認められる。

 

ただ、こういう考え方の中では解決できない問題、ないし道徳倫理的に「何かおかしいんじゃないか?」と思うような議論が出てきてしまっている。それがアメリカであれば中絶の是非であったり遺伝子操作といった生命倫理の問題だったり、日本でもトランスジェンダーの人の入浴やトイレの権利のような議論だったりするわけ。

 

こういう問題については、望まない妊娠をした人が中絶をする権利に対して、胎児も人間だからその権利が認められるべきだという反論、トランスジェンダーの人の性自認を満たす権利に対して、そうでない多数者の精神的な安全を守る必要があるという反論があるわけですよね。

 

やはり道徳倫理を考慮に入れざるを得ないのではと思われるような問題がある。サンデルの言葉を借りれば何が「善」なのかを考慮に入れる必要があるでしょうと。そういった善というのは形而上学的な善ではなくて、その社会を善くするという目的のもとに、人々が議論して作り上げる「共通善」でしょうということなんですな。当然、そこに参画する人は「負荷なき自己」ではなくて、生まれてきた社会や文化に影響を受けて自らも態度を示す「負荷ありし自己」でなければいけない。

 

政治哲学的な議論ももちろんですが、自分にとって興味深いのは人間観の部分ですよ。自分にとっても当たり前になっている「負荷なき自己」というのは歴史的には割と新しいみたいなんですね。ロールズに代表されるリベラリズムは、人間がタブラ・ラサ(白紙)として生まれてくるとしたロックだったり、近代理性を完成させたカントの系譜だと。実存主義なんかもそうですよね。サルトルもそうです。実存は本質に先立つですよ。

 

しかし、実存は個々人でバラバラという論理的構築物じゃないんですね。身にまとっている主義主張や文化があって、かつ何らかの社会というかコミュニティを為しているものだと。そういうものを抑圧して議論したり生きていくことに苦しみがあるんじゃないかというのは、何となく感じられるところですね。

 

アーレントの『人間の条件』のことも思い出しました。人間性を取り戻すために公的な空間での活動が必要だという話だったと思う。ギリシャ的なものが理想視されすぎているから政治というワードが出てくるんだろうけれど、必ずしも政治だけが参画するコミュニティではないと思う。それをさておいても、「負荷なき自己」の想定に基づく自由と権利の社会は、個人がバラバラになりきったところで終わってしまうんだろう。人間は何らかの共同体の中で生きているから、その共同体に参画する「負荷ありし自己」であってはじめて生の喜びのようなものも感じられるんじゃないかという気がする。

 

ちなみに、共同体、コミュニタリアニズムは、日本では特に反対論が強いらしいです。それは、欧米に比べて個人の自由や権利という概念が弱いことがあるようです。戦前の国家主義もあるし、今でも個人より公や会社組織のようなものが圧倒的に強いですしね。サンデルやコミュニタリアニズムは多数派主義でもなければ保守主義でもないのですが。まだまだ日本では個人の自由や権利を行き渡らせることのほうが先なのかもしれません。

 

サンデルの思想、功利主義からリベラリズム、コミュニタリアニズムまで、アメリカの政治哲学や倫理思想の変遷や現代の倫理的な問題についてみっちり学べる超良書でした。