こんにちは。あひるさんです。

 

先ほど東京スクーリング 東洋思想史Ⅱの最後のリポート課題を提出し終えて、やっと一息ついております。本当は土曜日中に終わらせようと思ったのに、結局フタを開ければ日曜日も半分が終わっている。。。ギリギリにならないとやらないという悪癖はいつ直るのか。

 

このままブログも書かずじまいになるのは嫌なので、一気呵成に取り組もうとPCに向かっております。

 

さて、今回は2月頭に出張で行った岩手県は花巻の話を。平泉も見てきているのだけれど、今回はあえて平泉ではなくて、こちらの話を書きたい。僕の敬愛してやまない新渡戸稲造大先生であります。

写真はWikipediaの新渡戸稲造に関するページから。

 

新渡戸稲造と言えば、ちょっと前までは5,000円札の肖像として描かれていましたよね。

『武士道』の著者として一番よく知られていると思われます。

 

花巻には、新渡戸稲造に関する記念館があります。新渡戸稲造は盛岡の生まれで、その後東京に学び、札幌農学校に学んで、その後アメリカのジョンズ・ホプキンス大学に学んでいます。花巻との縁ってどこにあるのか。

 

花巻は新渡戸稲造の父祖の地でありまして、それで記念館があるんですね。新渡戸家は代々盛岡藩の家老を務めていまして、藩の学問の発展や新田開発などに代々活躍をしてきた。

 

戦国時代に盛岡藩の祖である南部家に仕官し、戦功を立てて家老となったわけですが、その先祖をさらに辿っていくと、元は常陸の国や下野の国といった、もっと南の方にルーツがあるそうです。これだけたどれるというのがすごいと思います。

 

さて、新渡戸稲造が有名なのは、明治・大正といった戦前の時代に『武士道』を著して、世界に日本古来の精神文化があることを伝えたことで有名です。しかし、自分が新渡戸稲造先生敬愛してやまないのは、『武士道』ではありません。

 

そもそも『武士道』ってあんまり好きじゃない。日本に独特のものだと書かれていないと思うけれど、そのように曲解されやすいから。孔子の『論語』や『孟子』、鎌倉以来の武士の精神、善の精神、江戸時代の朱子学、戦闘員から官僚になった武士階級の教育理念、こういったものがミックスされて日本で独特の発展を遂げたということであって、東アジアの儒教文化の影響をたっぷり受けているものだと思うから。

 

 

新渡戸は日本人に対して書いたつもりは全くないと思うのよね。日本人という謎の東洋人がアメリカや欧州に現れるようになった時代に、この謎の東洋人も自分たちのフィロソフィーを持っているのだよと伝えた功績は大きいよね。今の世界の人たちが『武士道』読んでいるかは分かりませんが、こういう先人の努力があるからこそ、日本人が世界に出て行っても蔑まされたりしなくて済むわけです。

 

武士道精神自体は決して悪いものではないと思うし、上述のとおり大きな功績があると思うのだが、どうにも好きになれないのはやはりその後の戦争にまで(下手したら今もブラックな組織文化において?)曲解され都合よく使われているような気がしてならないからです。堅忍不抜を強要するような、ね。もうこれ以上言わなくても分かるでしょう?

 

新渡戸先生が大好きな理由は、日本の精神性も理解した上でキリスト教も理解した人であって、戦前の時代に国際協調と平和の実現に奔走した人だからです。国連の前身である国際連盟の事務局長を務めて、1920年代には国際紛争の解決も行ったりしている。

境内にはアメリカから贈られたハナミズキの木もあります。

1920年代なんていったら、日本は大正デモクラシーと引き換え(という表現が正しいかは微妙だ…)に軍が存在感を増していく時代。第一次大戦の惨禍から世界は軍縮に向かうのだけれど、日本はむしろ中国進出の色を濃くしていく。

 

そんな時代に正面切って国際協調と平和実現に奔走するなんて、ものすごいことだと思う。知米家など他にもたくさんいただろうけれど、新渡戸稲造ほどこの点で名前を知られた人はいないのではないかと思う。

 

1930年代に入って、満州事変や第一次上海事変など、いよいよ軍隊が中国大陸を侵略し始めると、新渡戸は国内で反対の論を唱える。当然ながら国内で批判に遭い、新渡戸はたくさん友人を失ったそうです。

 

一方で国際連盟の事務次長を務めた人ですから、日本の立場を海外に対して伝える役割もあったわけです。日本の立場を理解しようとする言説は、今度は海外で批判に遭い、海外の友人をもたくさん失うことになった。そして、1933年、国際会議に参加のために訪れたカナダのビクトリアで客死する。

 

日本のため、世界のために行動してきたのに、この最晩年は無念極まるものだったのではないかと思うのですよね。その後、世界は数千万人が死傷するような大戦に見舞われ、日本には後に平和と発展が訪れるわけですが、新渡戸先生はどう見ているんでしょうか。手放しに良かった、報われたとは決して思わないだろうと。

 

館内は撮影禁止ですので入口の写真のみ。ちなみに新渡戸の奥さんはアメリカ留学時代に知り合ったメアリー・エルキントンというアメリカ人です。子供もできたのですが、夭逝してしまうんですな。

博物館には新渡戸稲造の足跡もさることながら、新渡戸家の先祖や周囲の方々がどのように活躍されてきたのかが詳しく紹介されています。宮沢賢治も大谷翔平もいいけれど、新渡戸稲造もぜひ。

 

新渡戸稲造の記念館は青森県十和田市にもあります。こちらは未訪問ですが、絶対行かねば・・・。

 

さて、僕が新渡戸稲造好きな理由にはもう1つあります。新渡戸稲造は『武士道』だけではなくて、一般の人たちに対してたくさんの言葉を残しているから。こんな人が自分たちの目線にまで下りてきて、日々どう生きるかということについて実践的な知恵を授けてくれる。

 

新渡戸稲造にはたくさんの著作がありますが、その中でも『世渡りの道』という本を現代語訳した本があります。これなどは、名前の通り、どのように生きていくのが自分を活かすことになるのかを示してくれる。三笠書房から知的生き方文庫で『自分をもっと深く掘れ! 』というタイトルで出ています。タイトルが難しいところですよね。『世渡りの道』というと、政治家がずるく賢く生きていくみたいなことも想像してしまうかもしれませんな。

 

タイトルだけを見ると、我慢を強いるような清廉な生き方を勧めるかのように思われてしまいそうですが、そうではありません。成功者が自分の生き方を語るというスタイルでもありません。むしろ逆です。「自分も実に未完成な部分が多い。いろいろ失敗をする中で、自分として得た反省を紹介するものだ」という姿勢が最初から最後まで貫かれていて、「上から目線ではない」語りかけがすんなりと心に入ってきます。いくつか引用します。。。

人の人たる道は、その友とともに暮らし、社会にあって活動し、同胞を助け、また助けられることにあると思う。塵の世にありながら、心まで汚されず、泥水に浮かびながらもなお身を清く保ち、ひいては自分の周囲にある泥水をも清め、自分の周囲を取り巻く塵を払うのが、人の人たる道だと思う。(p.14)

人間というのは人と人との間にあって、社会や共同体の中にあってこそ人間なのだという考えが基本にあります。人に助けられ、助ける人生こそが人生という感じでしょうか。人は助けを借りないことには生きていけませんしね。

 

面白いのは、新渡戸稲造はとても怒りんぼな人だったということです。短気で怒って後悔することがたくさんあったみたいです。とても人間的でしょう?いかに怒りをコントロールするかについての記述が結構多い。それが親近感を感じさせるところの1つです。

私は生来短気で、気に障るとたちまち怒気を発しやすかった。どうにかしてこれを矯正したいと思い、毎夜就寝する前に、今日はいかにして怒ったか、また幾度怒りに負けたかと、一日中の結果を考査し、これを表にしていたことがある。(p.44)

我々は他人に過失があると、あいつはけしからぬ奴だと言って、憎む心、卑しむ心、怨む心が満ちあふれてくる。しかしこの場合にも、一つまちがえば、おれもまた同じ過失をずいぶんなし得るものであると考えれば、つまり彼の過失も自分のものと思えば、彼を責め憎む心がいかに積み重なっても、さほどに重くは思わない。(p.224)

「自分は世界の一部である。悪事をした奴がいれば、その責任の幾分かを自分は担うべきであり、その代わり人が善事をなしたなら、自分もまたその幾分かを助けたものである」と、「人類」あるいはもう少し狭く言えば「社会」を自分そのものと見なせば、不平不満を言い出すことも少なくなるだろうと思う。(p.224)

短気を抑える、相手のような失敗を自分も犯す可能性があるという話から、相手や社会をも包摂するという視点の移動が面白いと思う。自分に固執しないで、より大きなものを包摂する、みんな受け入れてやろう。今のような分断の時代にこそ求められる姿勢じゃないかと。

 

偉い人とはどういう人か、そして人生の目的は何かという話が最後の方に書かれています。

自分の現在の義務を完全に尽くす者がいちばん偉いと思う。そして、自分の現在の義務は何であるかをはっきり認め得る人は、人生の義務と目的とを理解する道に進むであろうと思う。(p.261)

自分の職業や周囲の要求する義務を、それがいかに小さくとも、いかにつまらなくとも、完全に成し遂げ、この人がいなくてはできない、この人がいなくては困る、と言われるほどにならなければ、自分の天職を全うしたものとは言えない。そして、人生の目的はなんであるかという問題も解決できるものではないと思う。(p.262)

人生の目的というのは思弁的に、ないしは究極のものから演繹的に考えて出てくるものではない。そうではなくて、足元から始めよといいます。その時には、自分の心地よさを頼りにして全然構わないと。で、偉い人とはどういう人かと言えば、それはその人の今現在の持ち場でしっかりと務めを果たしている人だというんですね。

 

空理空論に陥らずに、まずは自分の持ち場でしっかり役割を果たしてみる。今できることに精一杯取り組んでみる。それができている人が偉いのであって、結果の大小、金銭的な大小ではないって。とても背中を押されるものだと思います。

 

実に身近なレベルの話にまで下りてきて、新渡戸自身の失敗も交えながら、どうしたらいいかを語りかけてくれる。崇高な精神の人なのに、実に人間的でもある。こんなところが新渡戸先生を思慕してやまない理由であります。興味持っていただけたら、ぜひご一読いただきたいと思います。

もっとたくさん著書現代語訳されてくれないかな。もっといろんな出版社からも。ぜひお願いしたいものです。